朽ち果てた駅
とても長い時間が過ぎたように思う。俺のか弱い足が悲鳴を上げているが、そんなのには構ってられない。今更引き返す気にもなれない。ひたすら登り、ただ続く欠けた石段と美しく色づいた木々を目で追った。
ざぁ……、と風が通り抜ける。風は俺の髪を揺らし、汗ばんだ頬を撫でていく。そろそろ石段がなくなり、固い薄茶色の地が見えていた。俺は残り数段の石段から目を離し、前を見た。するとそこに、紅葉した木以外の物が。
「……なんだ、これ」
それは、駅のような建物だ。屋根に掲げられた駅名は『輪転駅』。……何て読むんだろう。りんてんえき、か。
俺は石段を登りきり、荒くなった息を整える。やはり風が強い。駅前の空き地は広場のようで、立ち尽くす小さな時計塔の周りを土埃が舞っていた。
古びた木造建築の、朽ち果てた駅。ガラスの割れた裸電球は風でぶらぶらと揺れ、風雨にやられた木材達は、ギィギィと軋んでうるさい。
――ほぉ、こんなところに駅があるとはなぁ。
関心を抱きつつ、俺は疲れて悲鳴を上げている足を半ば引きずるようにして、その駅の構内に入る。
「こんなところを……電車が通ってたのか……」
駅の構内にはもちろん誰もいない。無人の切符売り場、塗装が剥げ、読めなくなった看板達。路線図は色を無くし、各地の駅名も掠れて読めなくなっている。昔は手作業でたくさんの人の切符を切ったのだろう。今は見かける事がない古風な改札口が、俺を出迎えてくれた。
少し首を巡らせてみると、かつてあったであろう売店の跡を発見した。中を覗いてみると商品はなく、くもの巣と埃が点在している。昔、この駅も賑わっていた時があったのだろう。ここにはこんな美しい自然があるんだ。春はきっとお花見が出来るし、夏場なんか気持ち良い避暑地にもなり、秋は紅葉狩りの客で賑わったに違いない。……今は見る影もないが。
古びた改札を抜け、線路の見えるホームへ出る。そこは、見事な絶景だった。
「…………!」
あまりの美しさに言葉を失う。紅葉に囲まれた町が一望出来た。さっきまで薄い青だった空の色は、はっきりとした青色に変わった。さっき降りた駅のある下町は港町のようだ。リアス式海岸のさらに奥に海が見え、うっすらと水平線を見ることが出来る。天から降り注ぐ光は、見上げれば一瞬眩暈がするほど明るい。海と山に囲まれたこの町は、『観光地』にとても適していると思った。しかし紅葉狩りのシーズンである今、観光客らしき人は誰もいない。ふと、町で多く見かけたお年寄り達の事を思い出す。推測だが、もしかしたらこの町は若者の手が少なくて、寂れていってしまったのかもしれない。
皮肉な事だ。都会で俺のような若者は会社に切られていくというのに、高齢者の多い小さな町では若者の手が必要になる。なら、俺たちのような人間の居場所は一体どこにある?
ホームを見渡すと、錆び付いたベンチが目に入った。よくバス停の前に置いてあるような、宣伝の言葉が書かれたベンチだ。これもまた随分古い物なのだろう。全体的に錆びて、茶色くなっている。宣伝の言葉も塗装が剥げているので読めない。そのベンチに、俺はゆっくりと腰かける。壊れるかな、と思ったが、ギィィと嫌な音を立てただけで壊れる事はなかった。
――そういえば俺、何でこんなとこにいるんだっけ……。
ベンチの軋む音を聞きながら、長く息を吐く。ほとんど無心でここまで来たから、まだ深く考えてないような気がした。落ち着いて思考を巡らすと、最初に浮かんだのはその疑問だった。
しばらく思案しながら目の前に広がる綺麗な景色を眺める。まるで空中に浮かぶ場所だな。そして、頭の中で浮いていた思案の答えも見出す。
あぁそうか、全てから逃げ出すためか。そう、現実から逃げるため。
――彼女の元へ、行きたいな。
そう思ってここまで来た。ずっと続いた灰色の日々は、もうウンザリだ。良い事なんか、一つもない。誰も彼も俺を置いていきやがって。何で、どうして。
「どうして、誰もいなくなっちまうんだよ……」
ぼそりと呟く。俺の吐いた言葉の羅列は、空しく空気を震わせて消えた。はぁ、とまた大きく息を吐き、錆びたベンチの上で体を反らせた。逆さまのホームの屋根が、瞳に映る。俺の体重を一身にかけられたベンチは、一際大きく悲鳴を上げる。よく壊れず持ちこたえたな、ベンチ。大したもんだ。
「こんなところでじっとしてても、しょうがねぇんだよなぁ……」
静寂が流れ続ける無人のホーム。このままここで過ごしても、最後に待つのは一つだろう。今は昼間で太陽も高く昇っているから暖かく感じるが、ここは山奥だ。はっきり言って、夜は間違いなく寒い。そして、俺は今現在水も食べ物も持っちゃいない。ここに来る途中で買った水のペットボトルは空になって鞄の奥底にしまわれているし、食べ物は水と一緒に買った菓子パン一つ、しかもそれを来る途中で食べてしまった。服装は山奥に合わない軽装、明らかに都会の若者スタイルだ。一体俺は何しにこんな山奥に来たんだろうか。
「目的なんて、一つしかないよな」
俺はベンチから起き上がり、線路を眺める。一本しかないその線路は、俺の左から右へ続いていた。左にはトンネルがあり、右に行けばたくさん木々が生い茂る森だ。線路には草が伸び、枕木はボロボロ、金属部分は錆びている。とても電車が通れそうな状況ではない。
誰も来ない。来るはずがない。忘れ去られ、朽ち果てた駅。俺にとって最高のシチュエーションだ。死ぬにはもってこい。……でも。
「苦しんで死にたくはないなぁ。痛いのは嫌だし」
俺は最高にヘタレ野郎だった。臆病者、弱虫……何でも好きに呼びやがれってんだ。実際中学の時も高校の時も、根性ナシの俺は大して良い事などなかった。率先して何かをやる勇気なんてなかったし、失敗する覚悟もなかった。だから俺は、全てを失う羽目になったのかもな。そう勝手に結論を作った。
「あーぁ。どうしたもんかなぁ……」
ベンチから立ち上がり、背中を伸ばしてから腰を反らせる。ボキボキッと骨が鳴った。運動不足、恐ろしや。デスクワークばかりやってたから、そりゃ体にもガタが来るってもんだろう。
規則的な呼吸を繰り返し、目の前に広がる美しい景色を眺める。こんな綺麗な景色を俺が一人占め出来るなんて、神様も粋な計らいをしてくれる。俺に与えてくれた慈悲深い最後の特権か?
考える事すら面倒になって、ずっと景色を眺めていた。もう、ぼーっとしていたい。何も考えず、ただここに佇んでいたい。
目が乾いたらまばたきをすればいい。家に引きこもってゲームばっかりやってた割に、視力は良かった。霞んだ景色もまばたきをすれば元に戻る。
何だか、切なかった。最近はずっと悲しくて、一人で静かに涙を流していた。ここは俺一人だけで、声を上げて泣くには絶好の場所なのに、どうしてだろう。
涙はもう、枯れてしまった。涙を流す方法ですら、忘れてしまったかのように。
思い切り泣きたい気持ちがあるのに、もう涙は出てこなかった。
疲れが俺の足元からじわじわと上ってくる。ベンチに座りたくなったが、俺はそれを我慢した。そのまま倒れてしまえば、全て終われるかもしれない。少しの期待を寄せて、突っ立ったまま瞳を閉じた。
その時だった。
顔にぶわっと風を感じた。左から右へ、吹き抜ける風。都会で暮らしてた時、毎日通勤の時に感じていた、あの風に似ている。
……おい、ちょっと待て。何でそんな風、ここで感じるんだ。
俺は急いで顔を上げる。すると目の前にあったのはさっきまで見ていた景色ではなくて。
鈍い銀色に塗装され青いラインが横一筋に入れられた、電車だった。
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