始点
――俺の始まりは、ここだった。
新しい年に入り、半年とちょっとが過ぎた。いつの間に時が過ぎ去っていったのだろう。今年は本当にいろいろな事があった。俺にとってはとてつもなく恐ろしい事ばかりが。あぁそうだ、俺の人生は見事に狂っていた。
俺は今年、この世に生まれて二十五年目の誕生日を迎えた。その日の天気はとてもよかった。暖かな春の日差しの中に、彼女の笑顔が輝いていて。立派なプレゼントなんて物はないし、そんな物は期待していなかった。なくたって幸せだ。彼女さえ、ずっと傍にいてくれたならば。
人間ってなんでこうも、『運』に左右されやすいんだろうな。俺は今年、神様を恨んでばかりだ。そして、自らを憐れむ。俺はなんて悲運なんだろう。そして神さまは、何て無慈悲なんだろう。
二十五歳の俺は今年、厄年だ。彼女の誘いを断って、初詣の時に神社でお祓いを受けなかった俺に、今年は不運が降りかかっていた。
今年の春、両親が死んだ。車による事故死だ。夫婦で久しく旅行に出掛けていた際に、通りがかった山道でカーブを曲がりきれずに車ごと転落。喪主は、俺が務めた。
悲しみが拭えないまま夏を迎えた俺は、職を失った。大手の出版社に勤めていたが、人件費削減のために派遣社員と正社員の一部を切った。俺は正社員だったが、まんまとこの不況の波に呑まれてしまった。俺の友人の何人かも、会社に切られていった。夏の間、俺は職探しをしながらバイトで金を稼いだ。
そんな暑い夏だった。今年で、いや今までで一番最悪な事が起こる。高校の頃から付き合っていた最愛の彼女が死んだ。電車の脱線事故だった。
何もかも、全てを失った。
肉親を喪い、生きるための職を失い、心の支えにしていた彼女を喪い。もう何もかもがどうでもいい。仕事も愛も、自分自身ですらも。なるようになれと、全てを放り出した。
そして俺はさらに現実から逃れるため、ひたすら『逃げる』事を決意する。
手元にある金をかき集め、軽く身支度を済ませ、借家を後にした。職を失った事でマンションの家賃が払えなくなり、新たに借り直したオンボロアパートだ。盗難の心配を少しはしたが、鍵もかけずに飛び出した。俺は貧乏だから、金目の物なんかほとんど持ってない。泥棒が俺の家に入っても、損をするのは泥棒の方だ。
旅支度を済ませた俺は、アパートから一番近い駅に向かう。都心部から僅かに逸れた俺の住む地域は都会の割にとても閑静だ。辺りは住宅地で、畑が点々と存在している。朝と夜を抜かせば、利用者は平均かそれより少し下回る。規模の小さい駅から電車に乗り込み、この町を後にする。目指す場所などない。俺はただ、当てのない旅を始めることにした。この旅に『終点』はあるのだろうか。それすらも俺には分からない。
とにかく、全てから離れたかった。
余生はまだ十分あっただろうに、俺を置いて死んでいった両親の記憶から。
頑張ってこなしても認められる事が少なかった仕事から。
ずっと大事に愛を育んできた彼女との記憶から。
そして、大切な者が去り、自分だけが『生きている』という事実から。
彼女を喪った、俺にとっての不幸の象徴とも言える『電車』という乗り物で旅に出たのには理由がある。最近までは、彼女を奪った電車が大嫌いだったが、今はそういう気持ちが俺の心を支配していない。
――彼女の元へ、行きたい。
その想いが、今の俺を動かしている。だから電車に乗っていれば、いずれ彼女の元へ行けるような気がして、少し気が楽になった。無論、彼女の所へ行けるだなんて、幻想でしかないのだが。
時間が緩々と過ぎてゆく。ぼーっとしているだけで、知っている場所から離れていった。絡み合い、混ざり合っていた路線図は時間が経つにつれどんどん単純な直線になっていく。それは、『電車』にとっての終点。しかしそれは俺の終点じゃない。俺の終点はもっと先、――彼女のいる所だ。
外の風景もビル街から緑生い茂る自然へと変わっていく。目に映るのは、紅葉した木々達。落ちゆく枯葉の吹雪。今日は風が強い。窓に当たる枯葉たちは、狐の嫁入りによって濡れたガラスにしがみついて離れない。
――……随分遠くまで来れたな。
所持金はそんなに多くない。何せ俺は貧乏だからな。家を出た時よりも、財布が軽い。交通費に相当取られていると見える。
ガタン、と電車がホームに止まる。アナウンスでは『終点』という言葉が聞こえた。俺は深く息を吐きながら、電車からのそのそと降りた。また乗換えか。所持金が少ないが、次はどこまで行けるだろうか。
降りたこのホームも俺が最初に乗った駅と同じか、勝るくらい閑散としている。駅周辺の人通りは、出発点の駅よりも格段に少ない。お年寄りばかりが歩いていて、まだ若い俺の姿が逆に目立つ。
外も随分と寂しい。小さな商店街の通りを歩いているが、ほとんどの店舗が閉まっている。まだお天道様が上に居るのもあってか、買い物客はほとんどいなかった。俺はその商店街を過ぎ、木々が覆う山の方へ歩いていく。……昔は登山客が多く来たのだろうか、『××山入り口はこちら』と掠れた文字で書いてある看板が目に入った。そしてその脇には横幅が人二人通れるほどの階段が。急勾配でそこらじゅうが欠けている石造りの階段を登り、上の方を目指して歩いた。
唐突だが、俺は高校時代、文芸部に所属していた。運動神経がからっきしの俺は、家でよく携帯ゲーム機を使って遊んでいるような、大人しい少年時代をすごしていた。だからそんな俺が、永遠に続いていそうなこの石段で息を切らせずに歩ける訳がない。
「…………はぁ……はぁ……」
息を切らせた俺は石段の途中で足を止める。強い風に揺らされる短い黒髪を押さえながら、そっと後ろを振り返った。
「……うわ……」
知らない間に、また随分と登ったもんだ。知らない町の景色が、眼下に見渡せる。薄い青の空に、細く伸びる白い雲。そして、始まりの地点が見えなくなりつつある石段。目の前に視線を戻せば、赤、黄、茶色に染まる木々の群。石段の上にハラハラと落ち、風でたまに襲い掛かってくる紅葉した落ち葉達。久々に観光客らしい人物を見て高揚でもしたのだろうか。……紅葉だけに。
石段の続く先を仰ぎ見る。まだまだ先は長そうだ。唇をきゅっと結び、また黙々と登り始めた。
この作品について、活動報告で少し触れる予定ですので、興味がありましたらぜひお越しください。