忘却
以前に住んでいたアパートのすぐ目の前に、手入れも何もされていないのか、庭には雑草が所狭しと生い茂り、壁や屋根などにも損壊が見られる古びた一軒家が建っていた。そこには一人の少女が住んでいて、時たま顔を合わせるたびに、彼女は私に挨拶をし、他愛ない話をして別れるのが日常だった。
いつしか一軒家からは少女がいなくなって廃屋となり、妙な噂が流れ始めた。よく聞くような話であるのだが、以前に住んでいた少女が何らかの事件に巻き込まれて非業の死を遂げ、無念を晴らすために霊となってさまよっているらしい。彼女はただただ単に引っ越しをしただけであり、そのような事実はもちろんない。けれども当時、大学内に友人を持たなかった私には、周りが面白おかしく言いふらしていたそれらの話を訂正する術はなく、また、訂正する気もなかった。名も知らぬ顔も分からぬ者に事実を伝えたところで、怪訝な顔をされ、後々笑い話のネタにされるだけだろう。
そんなある日の深夜、廃屋の前で騒ぐ声が耳に入ってきた。大方肝試しでもしているのだろうが、喧騒は段々と大きくなってきて、当時、大学に入って様々なストレスを得、しばらくの間深い眠りに就けずにいた私は強い不快感を示さずにはいられなかった。このまま続けるようであれば警察に通報することも辞さぬ、と思い立って携帯電話を握り、外の様子を窺おうとしたその時だった。突然、光と音が遮断され、私の周囲は暗闇に包まれ、静寂が訪れた。
それは数秒、長くても分には満たない僅かな時間であっただろう。私の目にうっすらと光が差し込み、日常生活のかすかな音が聞こえてくるのにさほど時間は要しなかった。
その短い時間に、私の住むアパートの前にあった廃墟は、騒いでいた若者たちとともに、忽然と姿を消してしまった。
「それで?」
「終わり」
「なるほど。一つ聞きたいんだけど、その一軒家に住んでいた、って少女について覚えていることは?」
「何もない。思い出せない。ほんの一年くらい前の話だったのに、何も」
そう、私は何も覚えていないのだ。少女がいた。一軒家があった。少女が去った。廃墟になった。廃墟に人が集った。そして、廃墟と人が揃って消えた。それらはニュースになったり記事に書かれたりすることはなかった。いつからか、少女の亡霊が出るなどという噂も聞かなくなっていた。元からそんなものはなかったというように。
「ふうん? ま、いいんじゃないかな。忘れても。というか忘れたほうがいいね、その話。人に話して良いものでもない。知っているかい? 伝染する消失というものがあってだね――泉くん、ボクは怒っているんだよ? 聞いてる?」
この後数時間にもわたって新宮の説教が続いたが、私にはなぜ彼女が怒っているのか分からなかった。ただひとつ、少女と廃墟の話は忘れたほうが良いのだろう。私はまだ、消えたくはない。




