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引越し

 講義を終え、久しぶりの外出に吐きそうになりながらも何とか帰宅すると、見知らぬ男が首を吊って死んでいた。後から聞くところによれば彼は窃盗の常習犯であったらしいが、そんなことはどうでもよかった。隣近所で同時期に首吊り自殺が多発、などということも経験した私であるが、自室で死体が出たとなるとさすがにここには住むことはできない。蒸し暑くなり始めた時期。私は引越しを決意した。

 私が生活に求める条件はさほど難しくはない。周りが静かである。ただこれだけだ。これだけを満たしていれば、後はどうにでもなる。不動産屋にその旨を説明してみると、何とちょうど良いマンションがあるという。さらに朗報は続き、そのマンション、新築であるのに破格の金額で借りられるというのだ。苦学生である私にとってありがたい事この上ない。以上のことに加え、その他諸々好条件が重なりあって、私の新居が決定した。


 一日目。引越し作業の疲れがあったのか、何も考えずにぐっすり眠れた。二日目も三日目も特に何事もなく終え、もしやここは天国なのではないかと大学へも行かず一日中ずっと眠って過ごした。四日目も五日目も何もなく、物音一つ聞かずに眠った。

 すでに私は気づいていたのだ。静かすぎると。人の気配が全く無いと。私は我儘な性質を持っており、音の少ないひっそりとした環境が好きなのであって、音を廃した完全な静寂というものは苦手なのだ。人の生活音であるとか周囲の環境音であるとか、そういうものが僅かに入ってきたほうが、心地よく暮らすことができるのだ。しかしここにはそれがない。私が動いて音を出しても、部屋には何も響かない。一度、激しく暴れ回ってみたことがある。大声を出し、叫んでみたことだってある。どちらの場合も、苦情や抗議は来なかった。楽園だった私の住居は、時が過ぎていくほど、つらいものとなっていった。

 そのことに加え、このマンションの異常性に気づき始めた。人の気配を感じないわけだ、人がいないなら生活音など聞こえてくるはずもない。このマンションにはどうやら、私以外に住人は存在していない。見上げるほどの高層マンションであるのに、新築であるのに、安価であるのに、ここに住もうと考える人はいないようだった。


 半月が過ぎ、新宮からメールが届いた。しばらく大学へ来ていないから心配になって家を訪ねてみたらいなかったけど、引越しでもしたのかい、と。私はいますぐにでも新宮に会いたかった。誰かと話がしたかった。けれども家から出られなかった。誰かに見られているような気がした。他に誰もいないのに、監視されているような錯覚に襲われていた。窓を目張りし、カーテンを締めきり、布団にくるまり過ごしていた。早く会いたい、顔を見たい、話をしたい、できることなら助けて欲しいと願いながら、私は新宮にメールを送信した。


「鍵もかけずに不用心だね。……うわ、どうしたんだい、ゾンビから逃げてきた人のような、いや、ゾンビそのものだよ、キミの顔」


 ほんの数分後に彼女はやって来た。新宮の家は近所なのだろうか? それとも彼女は新宮でなく、私の見ている幻覚なのか? 彼女にそのことを尋ねてみると新宮は、きょとんとした顔で「ボクの家、隣だけど」と答えた。



「不動産屋から説明とか……まあ、その様子だと、無かったみたいだね」


 この場所には元々病院があったのだが、その病院が度重なる不祥事による経営破綻で潰れてしまい、後に入った老人ホームも一年と経たずに放火の被害にあって全焼し、何度か似たようなことを繰り返しているうちに建てられたものがこのマンションだと新宮は話した。その他諸々、大昔は刑場であったとか、墓場があったとか、聞けば聞くほど新宮からは様々な情報が吐き出されていった。


「そういえば泉くん。キミ、いつ引っ越してきたの? 全く気が付かなかったんだけど」


 鈍感にも程があると思いつつも半月ほど前だと答えると新宮は、ああ、それならちょうど、この部屋から前の住人が飛び降りた頃だねと何気なくこぼし、私の動揺を招いた。彼女の話によれば――ああ、もういい。どうやら私の住むこのマンションは、以前に住んでいたアパートよりもさらに生活が苦になる環境にあるようだ。それならばまた、引越しを――


「や、泉くんが隣に引っ越してきてくれて良かったよ。頼りにしてるからね。よろしく」


 苦笑する新宮の顔を見て、もうしばらくここにいるのも悪くないかと、ふと、思った。

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