26.女神降臨
「ええちょっとすみませんね、先にそのお嬢さんを見せてくださいな」
見つめ合うレオンセルクとシエラの間に割って入るのは、遠慮なしに部屋に踏み込んできた老女だ。遅れて顔を出したエヴァンシークが、慌てた様子でウィリアローナの元に駆け寄る。けれど、やはり何か見えない壁に阻まれていた。
「ウィリアローナ」
動揺を隠せないエヴァンシークが、呼びかける。
「こんな風になっている子を見るのは本当に久しぶり。ええ、いつかしらね。いつもこんな風に泣き暮らしていた子がいたわね。そう、あの子もちょうど、こんな古代紫の瞳で」
老女は懐かしむように、穏やかな声で呟いた。
「ねえ、あなた。春の女神様ね」
楽しげに軽やかに、老女は呼びかける。ウィリアローナの肩がピクリと震えた。顔を覆っていた両手を、ゆっくりと離して、老女を見る。
「あなた、そうしているってことは、お話ししたくているのでしょう。どんな話をしたいのかしら。怒ってるの? 悲しいの? それとも、喜んでいるのかしら」
ウィリアローナは、いや、老女曰くの春の女神は、呆然と老女を見つめ、寝台の上を這うようにして端までやってくる。エヴァンシークが触れようとしても見向きもせず、老女へと手を伸ばす。老女はニコニコとしながら両手を伸ばし、壁に阻まれることなく女神の手をとった。
「わたくし、あなたのことを知っているわ。森の奥深く、古の流れをくむあの小さな村で、いっぱいいっぱい慰めてくれたでしょう」
あぁ、と老女は笑った。そう、やはり、あなた、そうだったのね。でも不思議と囁いて、女神の黒髪をそっと撫でる。
女神は嬉しそうに目を閉じて、老女の腕に飛び込んだ。
「もっとたくさんいろんな話を聞いてもらおうと思っていたけれど、だめね、もうとっくに色々お話ししたあなたがここにいるのなら、ただのわがままとばれてしまうから」
もういきます。と、女神は笑った。老女から離れて、寝台の端に腰掛けて、少女のように笑っている。
「君が行ってしまったら、ウィリアローナ姫はどうなる」
とレオンセルクが女神に問う。女神はのんびりと首を振った。
「心配ご無用よ、エレオラウファンの末裔」
と、晴れやかに笑って。
「私はほとんど残りかすだし、世界の不具合は修正されました。もうここは正常化した世界なので、余分なものは消えて無くなるのが筋でしょうし、消えて無くなっても影響はないわ。この娘もお返しします」
天に帰って、冬の神様にお小言を言わなくては。と何やら意気込んでいる。むん、と拳を握って、口をへの字に曲げていた。
「あの人のせいで、何もかもめちゃくちゃよ。永遠の冬なんて事態が起きたのだって、そもそも、『自分を置いて死んだあの子への愛が深すぎて耐えられない』だとか言い訳しながらさっさと帰ってしまって、後処理をする羽目になった私たちがどれだけ大変だったと思っているの」
「ええ、ええ、以前もおっしゃっていましたねぇ」
怒る女神に、その場のほとんどの人間が身をすくませる。なにやら妙な圧があって、身じろぎさえもできない。たった一人、老女だけが相槌を打ちながら、のほほんと答えている。
「そんな風に帰ったから、自分の神性の継承について設定しそびれて。その詰めの甘さが、何代も後になってから極大の先祖返りなんてものを引き起こしたのではないの。
普通の神はね、自分たちが天に帰った後、妙な神性が地上を荒立たせないために、きちんと処理していくものなのよ。それが、大神から賜った役目を持ち帰る時の約束だというのに。愛に狂った神なんて本当に見るに耐えないものだわ!」
まったくもう。と女神はご立腹だった。怒りながら、ため息をついて。
「愛する人と同じ時間を生きれないのが辛いのは、当たり前だわ。そんなに悲しくて辛くて、自分が人間と同じ時間を生きれないなら、もう、あの子を無理矢理にでも神に召し上げればよかったのよ」
今更だけれどね、とため息をついて、女神は立ち上がった。くるりとその場を見回して、レオンセルクの腕の中であぶあぶと声を上げるエメリアナを見つける。
ととと、と駆け寄って、指を伸ばしてあやし、遊ぶ。
「この体の娘にも、この子にも、枷は何もないわ。エレオラウファンの末裔と、春の女神の末裔が契り、子を成した。その事実で承認は済んだから、もう、怖いことは何もない」
もう大丈夫よ。と、語る女神の瞳は、どこまでも優しい。幼いエメリアナは、目の前で構ってくれる指に夢中だった。にぎって、掴んで、口に含んで、むぐむぐとはむ。くすぐったいわよ、と女神が笑う。
「私も失敗してしまったから、あまり冬の神のことを言えないわね。軽率に人間になって、私が殺されそうになった時、あの場にいた人たちは、神殿の暮らしが馴染みすぎていて。女神を殺そうとする人間がいるだなんて、思いもしてなかったのよね」
警戒を怠って、油断して、殺されかけて、逃げ出した。
「女神のまま、会いに行けばよかったの。女神は神殿から出られないだなんて、誰も決めていなかったのに。女神のまま、城に会いに行って地下牢に囚われた彼を救い出して、立場を塗り替えて、そうして、人間になればよかったのよ」
実際にはそうならなかったけれども。所詮、私の顛末なんてそんなもの。
歌うようにうそぶいて、裔のあなたたちには、本当に迷惑をかけたわね、と後ろめたそうだった。神々の戯れに振り回される人々は、いつも本当に気の毒だわ。と、慰めにもならないことを口にする。
「報いは受けるわ。私も、冬の神も、きっと座を降りることになるでしょうね。冬の神はもうずっと罰を受けているかもしれないし」
大丈夫。私や冬の神がいなくなっても、もう、私たちは地上から手を引いた神だから。影響はないのよ。最初期の調整を終えたなら、私たち、いつでも天に戻ってもいい存在だったのだから。
ひとり淡々と、これまでのこと、これからのこと、不安要素を拭うために、話を進める春の女神は、どこか痛々しかった。最愛を失って天に帰った冬の神を、これから叱りにいくのだと彼女はいうけれど。
エメリアナをあやす少女を眺めながら、レオンセルクは思うのだ。人間になったと語る女神は、人間として死んだはずで、そんな存在が、果たして天へ帰れるのか。欺瞞が隠れているのではないかと。
だって、最愛を失って出会えないままなのは、彼女だって同じではないか。
「春の女神」
気づけば、レオンセルクは囁いていた。
「エレオラウファンは、どこにいるんだい」
キョトンと瞬く古代紫の瞳に、ひるみそうになるのをこらえる。果たして彼女は本当に女神なのだろうか。話を聞くに、女神は人間になったのだという。それなら、ここにいるのは、なんて悲しい存在だろう。
エレオラウファンは、と囁いて、女神が泣きそうに笑った。今までの振る舞いが、崩れ落ちそうな虚勢の上に成り立っていたことがわかった。
「ここにいるわ」
胸元を抑えて、亡霊は笑う。もう二度と会えない最愛を思って、天に帰るのではなく、きっと世界に溶ける。女神の因子が凝り固まった、残りかす。それが、今ここにいる女神なのだろう。
「大神の筋書きから外れた神なんて、幸せになれるわけがないのよね」
それが、女神の最後の言葉だった。ぷつんと言葉が途切れて、瞬きを繰り返す。戻ってきたウィリアローナが両腕を搔き抱いて、すがるものを探すように辺りを見回した。
ウィリアローナが見つけるよりも早く、エヴァンシークが彼女を抱きしめる。怖かっただろうに、取り乱しもせず偉いなと、我が子を心の中で褒め称えた。
呆然と虚空を見つめていたウィリアローナが、女神の最後の言葉を口の中で繰り返した。口を尖らせ、眉をひそめる。
「大神の筋書きから外れたの、どう考えても春の女神悪くないですよね……」
全面的に同意する。レオンセルクは頷きながら、ウィリアローナとエヴァンシークにエメリアナを返した。エヴァンシークでさえも遠い目をして、「聞いてた話以上に冬の神がひどすぎないか……」などとぼやく。
「愛する人と同じ時間を生きれないのが辛いのは、当たり前。か……」
なんだか胸に刺さった言葉だった。あいにくレオンセルクは寿命を操作できないし、エレオリアも同じだった。考え込めば途方に暮れそうだったので、慌てて頭からその考えを打ち消していく。
「……罰なんて受けずに、今度こそ生まれ変わって、いつか、愛する人と会えるといいですね」
ウィリアローナは付け加えながら、そっとエヴァンシークの腕から抜け出す。見知らぬ老女を前に、ウィリアローナは小さく膝をおった。
「どなたか存じ上げませんが、前代未聞の非常事態に的確な対応をしていただき、感謝いたします。どこのどなたか、失礼ですがお名前を伺っても?」
「それは」
ここは後宮奥の奥でなぜ入ってこられたかも知りたいのですが、と戸惑いの表情で口にするウィリアローナを、レオンセルクが制した。
その場にいる人間をぐるりと見渡して、老女とともに部屋に踏み入ってきた、もう一人の女性に目を止める。
かつて皇妃として公務を取り仕切っていた、エレオリアの影武者。シエラと目が合う。
「う、ん???」
どうしてここに、今までどこに、とにかく何か言おうとして、飲み込んだ。なぜか、その腕にエレオリアを抱きしめている。エレオリアも、シエラの肩に顔を埋めて、ひっしと抱きしめていた。
「……ええ……、ええと。あの」
ちょっと待って欲しかった。そこにいるの、僕の最愛なんだけれど、と言うべきか、どう見てもエレオリアからシエラにしがみついているので、引き剥がす方が悪者になるんじゃないのこれ、と困惑する。
口ごもるレオンセルクを見かねて、そこに下がっててくれ、とエヴァンシークが名乗りを上げた。
「ウィリアローナ。そこにいらっしゃるのは、俺が即位した時に皇妃として城で政務を取り仕切っていた方だ。その様子だと、母とも懇意だったらしい。
俺は、この人の背中を見て、政務に対する姿勢を学んだ」
まぁ、とシエラの目が見開かれる。腕の中のエレオリアへ気遣いを見せつつ、勿体無いお言葉ですわ、皇帝陛下。と、軽く膝を曲げた。
とんでもない、とエヴァンシークは首を振り、それで、と老女を見る。
「この人は?」
「私が生まれた村の、長老です。村長や責任者の相談役のような」
「隠居してるおばあさんですよ」
ころころと老女は笑って頭を下げる。
「本来こんなところまで来るつもりはなかったのです。シエラがどうしてもと言うから、一緒に来ましたけれど、もう王都も十分楽しみましたし、また元の住処に戻ります」
大丈夫そうですしね、と微笑む顔がウィリアローナと誰かに似ていて、あれ、とレオンセルクは首を傾げた。
「シエラ、どうしてこの人を連れて来たの。どんな目的があって」
「なんだと思いますか」
そう言いながら、シエラはウィリアローナと老女に並び立つように伝える。戸惑いを見せながらも二人は並び立ち、それを見ていたエヴァンシークとレオンセルクは唸り声を上げることとなった。
「これは……」
「うーん……」
悩ましい声に、ウィリアローナと老女が顔を見合わせる。なんなの? とは、ウィリアローナの当然の疑問だった。
「シエラ?」
答えを求めて、レオンセルクがシエラを振り返る。シエラは困らせるだけだったかしらね、と苦笑しながら、老女を指し示した。
「この方は、私の故郷の村の長老で、ずっと村のために尽くして来た人。だけれど若い頃、一度だけ村から連れ出されたことがあって。村の外に、夫と子どもを残して戻って来た、という経歴の持ち主で」
だめね、身もふたもない言い方になっているわ。とシエラがあぁもうと落ち込んでいる。
「私は、エリヤから話を聞いてどうしても会わせて差し上げたかったの。今だって、おばあ様の知識や対応力は役に立ったし、ウィリアローナ姫はおばあさまに教わることがたくさんあると思うのよ」
「はぁ……」
意味がわかっていないウィリアローナは、困惑したまま生返事をする。エリヤって? と付け加えた。それを受けて、シエラがさらに困った顔をする。
「エレオリアの護衛を命じていたのに、あの子ったらどこに行ったのかしら。気まずくて逃げていたと言うなら承知しないんだから」
「人聞きの悪い!」
「エリ」
「スタシア」
隠密服で現れた金髪の美しい子どもが、同じく金髪に榛色の瞳の侍女の手を引いて現れた。どんどん増える部屋の人数に、エヴァンシークがため息をついている。なにせここは、ウィリアローナの寝室だったので。




