25.春の女神
思わず息を吸った。ウィリアローナの顔を見る。疲弊の色はなく、表舞台から姿を消したのはこれかと納得した。あぁ、なんで気づかなかったのだろう。と、よろよろと歩み寄る。
エレオリアの隣に立つと、エレオリアが席を譲ってくれた。お礼は言ったけれど、視線はウィリアローナの腕の中のものに釘付けだ。自らの拳をよだれまみれにして、覗き込むレオンセルクを、まん丸な瞳で見上げている。瞳は青みの強い菫色だった。髪はまだ少なく、金の綿毛のようにふわふわと曲線を描いている。
玉のような赤子が、そこにいた。
「この春に、生まれました」
そう言って、ウィリアローナが指の背で赤子の頰を軽く撫ぜる。赤子は、何か喃語を発しながら伸ばされた指を掴んだ。ふふ、と微笑むウィリアローナは幸せそうで、つられて胸が暖かくなっていった。
「エメリアナ。と名付けました」
女の子ですよ、と、ウィリアローナの腕から譲り渡され、頼りない重さのおくるみに内心うわぁぁと思う。生後半年にもならない乳児を抱くだなんて、二十年ぶり。それこそエヴァンシーク以来だった。
「エメリアナ」
小さく呟く。この名は、と独り言のように呟いて、意図を察したウィリアローナが微笑みながら頷いた。
「わたし、この国に来て、春を呼びました。けれど完全ではないのはわかっていて、私が王都を離れたり、国を離れればまた、冬が戻ってくる。
この国を出なければいいのだと簡単に考えるわたしと違って、エヴァンシーク様が、とてもとても気に病んでしまって。色々手を尽くして人に調べさせてくれたのですが、結局解決の目はないままこの子がお腹にできて。
ええと、しばらく気がつかなかったんですけれど、この子がお腹にいると知った途端、わかったのです」
レオンセルク上皇陛下、とウィリアローナが呼びかけて、笑う。エメリアナを抱いたままレオンセルクはハッとした。ウィリアローナが何を語り出すのか、わかる気がして。
「本当に恨んだのは誰で、嘆いたのは、誰だったのでしょう」
いつかの言葉を、ウィリアローナは囁いた。以前とは違い、正気を保ったまま。母となったウィリアローナが語ることは、なんなのか。
ふと宙を見て、微笑んでいる。そこに何がいるのか。何が見えているのか。神聖王国からやって来た、古代紫の瞳を持つこの少女には、いったい世界がどのように見えているのか。
疑問は尽きず、目の前の少女から目が離せなかった。
「神話に語られる春の女神が、じつは完全な女神でなかった。だなんて、信じてもらえますか」
春の女神。
冬の神様の妻として存在することとなった春の女神。冬の神様との関係が破綻し、天へと帰る冬の神様を見送った、春の『女神』。
その女神は完全な女神ではなかった。春の女神たりうる条件を満たしていなかったために。
条件を満たしていなかったことによる一連のものがたりの果てが、永遠の冬だというなら。その永遠の冬を終わらす絶対条件は。
「春の女神を、完全な女神にすること……?」
「というより、春の女神が完全な女神になるための条件を満たすこと。が、必要だったのです」
今まで、誰も気がつかなかったわけはないと思うんですけれど。けれど、必要な配役がその場にいなければ証明もしようがなかったし、仕方のないことかもしれません。
「よくよく考えれば、普通のこと、当たり前の違和感だったんですよね。春の恵みをもたらす芽吹きの女神様の象徴として、真っ当な肩書きがかけていた。少女神、処女神として長く親しまれていた春の女神様でしたけれど、冬の神様の妻としての象徴として、これほど不思議な存在もありません。婚姻制度として、神殿に届けるなんてことのない神様たちにとっての、婚姻成立とは一体何を指すかを考えれば」
「契りを交わす……」
呆然と、呟いた。そうです。となんの照れもなく、真面目な顔でウィリアローナは頷く。
「冬の神様と春の女神、この二人が契りを交わし、子を産むことで、春の女神は春の女神としての存在を座に確立するはずだったのです。本来の春の女神は少女神でも処女神でもなく、地母神の派系。それを想定して地上へと送り出された存在だった」
にも関わらず、冬の神様は人間の娘に恋をした。春の女神はそれを許した。妻としての自我がまだ確立されていなかったのです。契りを交わすことなく、子もなされていない春の女神はただの神様の一人。冬の神という座にいるかの神の意志に逆らえるはずもなかった。
ウィリアローナの淡々とした語りに、レオンセルクは何も言えない。そんなばかなと力が抜けそうになるのを、腕の中のエメリアナによって現実に引き戻された。
神様じゃないのか。神が、神でないまま神として信じられることがあっていいのか。そんな不完全な神話があるのか。まるで、この世が神話の地続きみたいなことが。
「未完全なまま、春の女神は冬の神様と別れ、地上に残り、そうして、冬の神様の孫にあたるエレオラウファンに恋をしたのです」
恋をして、けれど、その思いは果たされることなく、エレオラウファンは失われた。彼に神聖はなく、寿命も人間並。春の女神の孤独を癒したエレオラウファンは、女神として生きる春の女神と同じ時間を過ごすことはなく、寿命を全うする前に血だまりに倒れた。
愛し合った二人は永遠の別れとなったけれど、エレオラウファンは最期に誓いとともに春の女神へ口付けた。それは契約だったのだ。いずれまた、会いに来る。ただの人間がそう口にして、女神が応えた。その証として、口付けを交わす。
エレオラウファンと神の契約は成立した。いかなる手段をもってしても、会いに来る、と。
「エレオラウファンは幾たびも幾たびも生まれ変わって、会いに行こうとしたけれど、そのことごとくは阻まれ女神に届くことはなく。春の女神は、長い孤独の時間を過ごすこととなります」
ウィリアローナの瞳が神聖を帯びる。物語を語るにつれて、彼女の身に何が起きているのか。レオンセルクが手を伸ばして触れようとしても、それは見えない何か阻まれ届かなかった。
「いつまでたっても果たされぬ約束に、とうとう女神は人間になった。人間となって、自らエレオラウファンを探すことにした。けれどその矢先、女神は殺されてしまった」
「……死んだ? 女神が?」
語り部に手する少女は頷く。独り言のような疑問にも、丁寧に、目を合わせて。
「人間となった女神は、簡単に殺されてしまった。彼女の神聖の名残は消えかけていたけれど、死ぬまでの時間に森へと逃げ込み、世界に溶けることを決めた。世界に溶けた女神は、自らの因子を取り込み適合する人間が、いつかエレオラウファンに出会うことを祈った」
けれど、誰も予期していなかったことが一つ。
女神が死んだ時に生まれ変わっていたエレオラウファンは、神聖王国の王子だった。その王子は、エレオラウファンの生まれ変わりとしての記憶を持ち、冬の神としての因子が先祖返りとして顕現していた。
人として生きることを選んだ神の末裔として、遠く神殿の地に感じていたはずの女神の喪失に、その力は制御されぬまま、王国全土を覆うこととなる。
その王子はそのまま神聖ニルヴァニア王国王都で謀反を起こし、王は神殿へ撤退。神聖王国王都はヴェニエール帝国帝都へと名を変え、神聖王国の王都は、春の女神をとどめていた神殿へと居場所を移す。
春の女神を失ったエレオラウファンの生まれ変わりは、嘆きのまま冬の神の力を暴走させ、冬の帝国が誕生したのだった。
「合間合間に、色々なできごとがあったけれど、大枠はそういうこと、なのだそうです。わたしにも、わからないことはまだまだありますけれど……。女神が朽ちた森では、その因子が色濃く残った。彼女の墓を作った信奉者は、そのままそこにとどまり、村を作り、その村で生まれた女神の因子を持つ子どもを代々森の外へと送り出すことで、女神がいつかエレオラウファンと巡り会う時を待ったのだとか」
あとは、レオンセルクも知っている通り、女神の因子を持ったウィリアローナがエヴァンシークの元にたどり着き、春が戻った。そして、エヴァンシークとの子を成したことによって……。
「異常動作の上に異常動作が重なったことで蓄積された不具合の原因は解消され、全ての事象が正常化されたのです」
語るウィリアローナの語尾に涙がにじむ。
「やっと、ここに至ることができた……」
震える声で、顔に両手を押し当てる少女に、レオンセルクは声がかけられない、見えない壁はいまだ健在で、果たしてレオンセルクの声は届くのかどうかさえ。
ふと、隣室が騒がしい気がして振り返る。と同時に短いノックの音がして、エヴァンシークが顔を出した。エレオアリアは部屋の隅に逃れ、寝台のウィリアローナは気にした様子もない。レオンセルクがエヴァンシークに声をかけるより先に、エヴァンシークが何かいいにくそうな様子で、結局何も言わずに扉の前から体を避けた。
「失礼いたしますね、みなさま。少し見過ごせぬ気配を感じたものですから」
見知らぬ老女がそう言って、ウィリアローナの寝室へと踏み入った。目を見開いて行く手を阻むか考えていると、続いてやってきた女性に思考が止まる。
「一体なんだというのです。せっかく手順を踏んで会おうとしていたのにこんな無作法……!」
その女性も、部屋の中にいるレオンセルクと目があうなり足が止まった。
「……レオンセルク陛下」
名前を呼ばれたことで、レオンセルクは核心に至る。そんなバカな、まさか、という強い思いは覆され、この女性がそうなのだと思い知った。
名前を呼ぼうと呼吸がから回る。呼ぶ資格があるのか。今更、あの頃のことをどう言い繕ったところで言い訳になどなるわけがないのに。
「……シエラ」
「エラーの上にエラーが重なったことで蓄積されたバグは解消され、全てのシステムが正常化されたのです」
不完全な神話の果ての物語。ここにたどり着くまでが長かった。。。当時よりお付き合いいただいている皆様、お待たせしました。
初期からの読者様も、最近手に取っていただいている読者様も、まだもう少し続くこのお話を、最後まで楽しんでいただけますように。




