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21.告げる鐘の音




 遠く、どこかで、泣き声が聞こえていた。


 世界に響く、歓喜の歌。


 やっと、ここにこれたのだと、全身で叫ぶ泣き声。



 世界が祝福する鐘の音が響き渡る。



 ヴェニエール帝国の都、王城に続く大通りにある、騎士団の詰め所に、二人の女性が訪れていた。

 詰め所でもてなしを受けている二人は、かたや落ち着きなくそわそわと辺りを見回し、かたや落ち着きを払って静かにお茶を手にしている。おろおろと辺りを見回している女性は老婆と言えるほど随分歳を重ねておいた。シワの増えた柔らかな手を頰に当て、ため息をつく。


「ねえ、やっぱり場違いですよ。いったい何をしにきたんです? わたし、何も聞かされていませんよ」


「言っていませんからね。さぁさぁ、ここまでついてきたなら、腹を括りになって。しのごの言わずに待っていてくださいな」


 弱った顔で眉を下げる老婆に、灰色の外套を身につけ頭から足先まですっぽりと覆われている女性は屹然と返した。


「ここに何しにきたかくらい、教えてくれてもいいでしょう?」


 老婆の言葉に、女性はうーんと考える。大切な用事だ。あまり人に聞かれるわけにはいかない。


「会いたい人に、合わせてもらうために、ここの偉い人に動いてもらおうかと思っているのです」


「……あなた、どういう知り合いがいるのです」


「昔色々あったので」


 それはもう、色々と、身にあまる暮らしをしていた。色々な人の思惑に乗って都を離れたけれど、本当に離れるべきだっただろうかと今でも思う。


「そうして、あなたに会わせたい人にも、会わせてもらえるように頼もうと思って」


「こんなところまで連れてきて合わせたい人、というのに、私は心当たりが全くありませんけどね。もう、お好きになさい」


 あなたについてきた私も腹を括りますよ、と老婆はやっと朗らかに笑った。


 聞こえてきた慌ただしい足音に、お茶を飲む手をとめ、詰め所に走り込んできた人物へと視線をやる。

 二人の女性に足を止めた騎士は、老婆と女性を一瞬見比べ、女性の方へと歩み寄った。剣を外し、数歩の距離を開けて跪く。捧げるように、剣を横に持って床に差し出した。


「……お戻りを、お待ちしておりました」


「大仰な。平民にそのような礼は不要です。騎士がみっともないですよ。部下の前ではありませんか」


 発したその言葉とは裏腹に、視線は冷たく、上位者の者の態度で女性は騎士へと接する。中の様子にたたらを踏んでいる若い騎士の困惑が、手に取るようだった。


「……無理です。聞けません」


「お聞きなさい。顔を上げて、お立ちなさい」


 外套の被りを少し上げ、青い瞳が騎士を射抜く。上に立つことが当たり前だった者の視線だった。けれど、騎士は動かない。本当なら、合わせる顔などないのです、と呻くように囁いた。

 女性はため息をついて、肩を落とす。あぁ、もう、と(じれ)ったそうに拳を作る。


「恨み言は、全部あのお方に積み重ねた年数分聞いてもらいます。ですから、あなた方が思い詰める必要はないのですよ」


 また一人、詰め所に駆け込んできた騎士が女性を目にし、その場に棒立ちになる。息を飲んで、最初の騎士の隣へと跪いた。



「あぁもう! ですからいらないと言っているでしょう! みんな許します! ほら立って、お仕事をなさい。部下に見せる背中がそんな姿でいいわけないでしょうに!」


 これでも急いでいるのですよ!!! という言葉とともにその用事を聞き、詰め所は大わらわとなった。


 老婆はぽかんと女性を見上げる。私をここまで連れてきたこの女性は、いったい何者なのだろう、と。いや、少女の頃から知っている。けれど、こんな風に高みに立つ者の振る舞いを見たことはない。


 ふと、女性が窓の外を見上げる。いぶかしむ顔で、睨むように。


「……鐘の音が、聞こえるわね」


 静かな春の昼下がりだ。女性の言葉に、老婆はそっと首を傾げた。









 鳴き声が聞こえた気がして、うっすらと、目を開く。

 寝台の上、柔らかな敷布と掛布に埋もれるようにして、


 目覚めた。


 視線の先の窓は開いていて、温かな春風が薄い紗の帳を揺らしている。隙間から伸びる陽光は柔らかで暖かく、けれど目覚めたばかりのその目には刺激が過ぎたのか、すぐに水の膜で塞がれた。

 慌てて拭おうとしたのに、手が動かない。

 息を吸って吐くのも重労働で、それでも、強く、思ったのだった。


 やっと、帰ってこれたのだ、と。


 この響き渡る歓喜の鐘の音は、自分のものではない。わかっていたけれど、共に諸手を挙げて喜びたかった。

 視界は水の膜に覆われて、春の陽射しでさえもよく見えない。

 様変わりした世界に、恐怖はなかった。


 ふと、右手が誰かに握られていることに気づく。

 窓は左手側で、首をわずか巡らせなければ見ることは叶わないだろうけれど、それでもゆっくりとそちらを向いた。


 右手は祈るように握られて、伺うように、部屋の出口へと視線を投げていた。こちらに気づいた様子はなく、水の膜の向こうの歪んだ像が誰かもわからない。

 だというのに、心は泣いて叫んでいた。嬉しいのか悲しいのか、恨めしいのか、拒みたいのか、感情の濁流にさらされて、身動き一つ、発声一つままならない。

 足音が一つ、扉を開く音ともに入ってきた。


「おうさま、たいへん。もうきいてる? あの、ね……」


 知らない娘の声に、どきりとする。変に途切れた言葉に、その娘がこちらを見ていることに気がついた。あぁ、どうしよう、とそんなことを考える。こんな風だと思ってなかった。どんな風かなんて、こんなことがあり得るなんてことさえ、想像したこともなかったけれど。


 現れた娘の視線を追ってか、目の前の歪んだ像が振り返る。息を飲んだ音がした。それとも、息を飲んだのはこちらだろうか。あるいは、お互い同時だったかもしれない。

 そっと手が伸びてきて、目元を拭われた。そっと、壊れ物に触るみたいに、優しく、触れるかどうかのかすめ方で。


 瞬きをして、雫を受け止めてもらう。


 瞼を開くと、そこにいたのは、あの、亜麻色の髪の、男だった。



「そっか、そういう、ことだったのか」


 そっか、と男は言って、身を乗り出す。

 覆いかぶさるようにして、全身に男の体重を感じた時、感情は暴風雨だった。

 

 爪を立てるようにして、男の腕を握る。きっと、男にしてみれば握っているかどうかなんてわからないくらいの、力のなさで。

 頰に、うっすらと髭が当たる。覚えがない感触に、過ぎた時間を思い知る。


 それでも、今、こうして、いの一番に、身を寄せられる。それを幸福と言わずしてなんというだろう。


 そっと抱きしめられて、その力強さを受け入れながら、抱きしめ返すことのできない我が身を恨む。


「ずっと」


 耳元で震える声がした。今にも叫びだし、泣きそうなのをこらえて、ひくりと喉を鳴らす。続く言葉を、待ち構えた。


 泣いてほしい、とかつて願った自分を覚えている。



「ずっと、待ってたんだ。君に、おかえりというのを、ずっと」


 ずっと待ってたよと、男はわななく声で繰り返す。

 お前はバカだ、と心の中で詰った。待ってる必要なんてなかったのに。何もかも忘れて、おいて言ってくれてもよかったのに。忘れないで、傷を残して、永遠に、たった一人にしてほしいと願ったけれど。


 本当にそんなことをされるとどうしていいかわからない。バカだ。お前は本当に大馬鹿だ。

 それを口にしようと息を吸ったのに。



「おかえり。エレオリア」


 やっと。


 そんな声で、そんなことを言われれば、もう何も言えなくなってしまう。どうしてどうしてと、小娘のように泣き声混じりに拳を作った。

 この身が自由であれば、遠慮なくこの男を掻き抱くのに、ともどかしさを抱きながら、こぼす声は言葉にならなかった。顔は泣き濡れて、なんの言葉も返せないまま、くちづけをうける。



 やっと。


 やっと、会えた。



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