18.すべきだったことを、ここで
それからは、毎日毎日、ネリィをどうやって助けだすか、ひたすら考える日々だった。
エレオリアの様子を見つつ、レオンセルクはアガタと意見を交わす。
「実力行使は無理ですよ」
第一に言われたことに、当たり前だとうなずいた。戦力もなければ、力づくで取り戻してもその後がない。ネリィは、研究室で過ごす、穏やかな日々に戻してあげたかった。
何度目かの意見交換の最後に、レオンセルクが行き着くのは同じ結論だった。
「……やっぱりあの人に頼み込むしか」
「それをいうなら、先生の権力を使ってみてはどうでしょう」
アガタが歯切れ悪く提案してきた。なんだか、なんともいえない奇妙な表情で。
「…………だって先生、って」
随分たどたどしく、迷いながら口にするアガタに、レオンセルクは首を傾げながら続く言葉を待つ。
「…………先帝陛下、なんですよね?」
「そうだね。太上皇帝レオンセルク、それが、私の正式な名前になる」
聞かれるまま肯定してうなずいて付け加えると、アガタが息を飲んだ。
そういえば、明確に口にしたことはなかったかもしれない。彼らに助けを求めたときも、宰相フォルトナがやってきたときも、何も言わず、上司として、ヘルクス博士として、ネリィもアガタも、レオンセルクに付き従ってくれていた。
それがありがたくて、申し訳なくて、ただ、かしこまらなくてもいいよ、とレオンセルクは笑う。見ての通り、敬意を表するに値しない、放蕩者だから。そう言うのに、アガタはいいえ、と首を振った。
「……それでも、あなたがそう望むのなら、俺はあなたをヘルクス博士として慕うだけです」
「ありがとう」
照れ臭そうに、レオンセルクは笑った。けれど、しかし、と息を吐く。
「私に権力なんて、はたして行使できるほどあるかどうか」
言ってみれば、案外なんとかなるだろうか。では言う相手は考えなくては、とふむ、と考え始めたところで、無遠慮に客室の扉が開かれた。
「先帝陛下」
そう言いながら現れたのは、宰相フォルトゥナだった。ネリィを連れ出してから顔を見ていなかった男の登場に、アガタとレオンセルクは警戒心をあらわにする。
「あなたを頼らせてほしい」
爽やかな表情でそんなことを言って来る男に、レオンセルクは眉をひそめ半歩下がった。何を企んでいるのかと即答せずにフォルトゥナをじっと見つめる。
「おや、警戒していますか。良いことですね。あなたは少々疎すぎるところがあったので、気を許せる相手以外にはそれくらいでいいでしょう」
レオンセルクの何を知っているのか、エヴァンシークと大して年齢の変わらない若き宰相は上機嫌でうなずいて、目を細める。
「ですが私はこう言いましたよ。『頼らせてほしい』と。交換条件を提示するこの上ないチャンスでは?」
「……わざわざそんな風に言って来ることが、この上なく怪しいよ、君」
警戒するのもバカバカしくなりつつ、ひとまず呆れ混じりに反論した。
「どういうつもりだい」
はぐらかすことは許さない、と問い詰める。フォルトゥナは意に介さず、肩をすくめた。どういうつもりもなにも、と爽やかだった表情を一変させて、冷酷にもみえる無表情で鼻を鳴らす。
「皇帝陛下が使い物にならないので、あなたを日々の業務に招集したいだけですよ」
「そっかそっか……。? 皇帝陛下? あの人が、なんだって?」
使い物にならないって、なに、とこわばった声にフォルトゥナは無表情のままレオンセルクから顔をそらす。
「後宮にこもってでこない日が続いています。代理として宰相の私が議題を進めていますけど、まだまだ議員の全員が協力的であるとは言いがたく。私もなにぶん若造なもので、議会の掌握に苦労しているんですよ」
協力者として議員の筆頭であるオルウィスも、若すぎますし。とフォルトナは独り言のように続けた。軽薄な雰囲気であるものの、困っているのは事実らしい。少し心を動かされたレオンセルクは、迷いながらも問いかけを続けた。
「後宮にこもってるって言った……? あの人が? なぜ?」
「さすがに後宮のことまでは知りませんし、知ってたとしても教えませんよ。私はひとまず、わかりやすい権力者として、先帝陛下に議会で椅子に座って怖い顔しててほしいだけですから」
腹芸をする気がないのか、内心を洗いざらい吐き出す宰相に、レオンセルクは警戒するのが馬鹿みたいに思えて、早々に裏を読もうとすることを諦めた。こう言った手合いをまともに相手にして疲れるのは好きではないのだ。
「では、私が議会の椅子に座る代わりに、ネリィ君を解放してくれる?」
「小規模である毎日の朝儀は結構です。初春に行われる、大規模の議会に出席していただければ。その時、エレオノーラについても遠方の領地からやって来る議員の承認を得ましょう」
今すぐではないのか、とレオンセルクが表情を厳しくしたけれど、遮るようにフォルトゥナは続けた。
「それまでは軟禁状態ですが、無体はしません。そのために小間使い兼待遇の見張り役として、先帝陛下付きの侍女を送り込んだのでしょう」
言い返せずに、黙り込む。
「目的の議会の前に、情報を得る気があるなら、日々、執務室への出入りをお勧めしますよ。陛下の味方に、先帝陛下の立ち位置を理解してもらう必要もありますから」
「……執務室に?」
「ええ、よろしいですね」
圧の強い言葉に、思わずレオンセルクは頷いてしまった。交渉は成立です。にっこりとして、フォルトゥナは踵を返した。レオンセルクの言質だけ得て用は済んだと言わんばかりに、颯爽と姿を消す。今の会話で本当に成立したのか、宰相の言葉だけで、成立したと判断するのはあまりに危険すぎないだろうか。
静まった室内で、細く、長く、息を吐く。
「……どう思う、アガタ」
「これまでの経緯を先生から伺った範囲でしか判断材料がないので保証しかねますけど……。ひとまず皇帝陛下の近くなら、安全なのでは」
なにせ、命を救ってくださったのですから。
アガタの言葉に、確かに、と頷く。皇帝陛下から憎まれているというのは、レオンセルクの勘違いであったのだ。憎まれているというより、も
「陛下は、先生を思いの外大事にされていますよね」
アガタが真顔でそんなことを言うので、レオンセルクは二の句がつげなかった。というか、なんだ、それは。変だろう。息子から大切にされる覚えはないし、そんな話聞いたこともない。父親を大切にしようとする息子など、そんなもの、
「……推測で物事を考えるのは、やめようか」
「思考停止になってませんか?」
「仮定に仮定を重ねて話す物事に意味はないよ?」
「何事も仮定を立てこそ、実証するための方法を導き出せるのでは?」
「……ひとまず明日、執務室に行ってみるよ。ひょっとしたら、ネリィくんの様子もわかるかもしれないしうまくいけば会えるかも」
フォルトナ宰相に、彼女が連れて行かれた日を思い出す。春が近いと嬉しそうだった彼女は、今どんな場所で何をして過ごしているだろうか。
そうやって思考をそらしていると、アガタが視界の端で苦笑していた。
翌日、朝からスタシアがレオンセルクの元にやってきて、あれこれと支度を整えた。レオンセルクは全く考えていなかったのだけれど、スタシアに任せるまま、解放された時には、すっかり『先帝陛下』としての、公務を執り行うにふさわしい姿となっていた。
「……おおげさすぎない?」
「いいえ、おうさま。なにごとも、はじめが肝心なのですよ」
まっすぐすぎる視線で、力強く言い切られてしまい、レオンセルクはそれ以上何もいえなかった。このところのレオンセルクは、強く言い切られると言い返せないことが多すぎるな、と思わず息を吐く。
そっかそっか、始めがね。肝心なんだね。と肩をすくめて、レオンセルクはスタシアとスタシアが選んだ若い二人の侍女を供にして、部屋を後にした。
レオンセルクの過ごしている客間は後宮付近なので、城内における深部になる。執務室に向かう道すがらすれ違う者はほぼおらず、いたとしても下働きのものばかりだった。窓の外を見れば、水色の空が広がっている。ところどころ、線が伸びたような薄い雲が重なっていて、あぁ、今年もまた、春がやってきたのだな、と思った。
いい天気だった。
ウィリアローナ姫がもたらした、春。こうして無事に迎えられたということは、彼女はまだ無事なのだろう。エヴァンシークが半年も前から心痛に沈み、今、後宮にこもってウィリアローナのそばから離れないほどには、逼迫した状況なのかもしれないけれど。
(また、失うのかな)
よぎった思考に、心臓が跳ね、慌ててかき消し考えないことにした。レオンセルクがいますべきことは、ネリィの容疑を晴らし、連れ戻すこと。そして、そのための交換条件として、エヴァンシークの代わりに春の議会に出席すること。それに備え、執務室に出入りすることだ。
たったそれだけ。それ以外に、考える必要などない。
導き役として前を歩いていたスタシアの歩みが少し遅くなり、こちらを振り返る。レオンセルクは優しく微笑んで、どうしたの、と目で問いかけた。スタシアはレオンセルクの表情をじっと見つめて、ゆるく首を振ると、前に向き直り歩き出す。もうすぐ執務室だった。
レオンセルクの味方は、本当に、レンセルクを大事にしてくれる。
こうして、レオンセルクの毎日は執務室での仕事に移り変わって行った。
アガタは研究室での研究に専念させて、数日に一度まとめて報告をさせてその後数日分の指示を出す。エレオリアの毎日の検診は任せて軽い報告書を侍女に持たせ、執務の終わったレオンセルクが夕方受け取ることにした。
朝儀の終わっている昼前に執務室へ向かい、積み上がっている業務をこなして、夕方には居室に戻り、エレオリアの様子を見る。その繰り返しの毎日だった。
為政者としての執務はじつに八年ぶりだった。エヴァンシークが皇位を継承してからもうそんなに経つのか、と感慨深くなりつつ席に着く。数日かけて息子の仕事ぶりを紐解いていると、次第に表情が硬くなっていった。
「フォルトナ宰相」
「はい?」
レオンセルクが執務室に通うようになって数日経ったある日、レオンセルクは初めて宰相へ質問をした。
「今現在、私が執務をしていた頃に仕えていた文官はどれだけいるかわかるかい?」
「……は。あ、いえ、もともと前宰相の信任厚い者たちで、エヴァンシーク陛下にも協力的なまともな方々でしたので、後進に地位を譲った者以外は大多数今も変わらずいますが」
というより、文官についてはエヴァンシーク自身のツテがないので不正を犯していない者はほぼそのままですよ、とフォルトナは言う。執務室にきた直後はふんわりした空気を変えず、ゆるりと執務室の様子を眺めていた先代皇帝が、執務を始めてから考え込むようにして口数を減らして行き、黙々と書類をめくって行ったかと思えば飛び出した問いだった。どう言う意図があってのことかと、宰相は注意深く言葉を選んでいた。
「宰相。あなたの要求は、皇帝陛下の代わり日々の業務をこなすことも含まれていたね」
「……そうでしたかね」
「では、好きにするよ。ホルドーラ、サザール、ツォンテの3人は今どこで何してるの」
執務室には宰相の他にも数人文官がエヴァンシークの側近として業務を進めていたが、レオンセルクの問いに答えられるものはいなかった。「……ノイガウスを呼んできてくれる」今すぐここに、とにっこりするレオンセルクに、一人の文官が部屋を飛び出して行った。どこにいるかすぐに見当がついた者がいたようだ。そっかそっか、よかったよかった、とレオンセルクは呟いて、机に向かう。エヴァンシークとは全く違う働き方に、残った宰相と数人の文官は顔を見合わせた。
出て行った文官がノイガウスを呼んでくるまで、執務室はレオンセルクのめくる書類の音と、筆記の音しかしなかった。想像だにしていなかったレオンセルクの様子に、宰相でさえも戸惑っている。
少しして、出て行った文官が一人の壮年男性を連れて戻ってきた。ひょろりと背の高い痩せ型の男性は、執務机に座るレオンセルクの姿に、目を見開いて足を止める。文官に促されるようにして片膝をつき頭を垂れた。
「……あなたは、」
「ようこそ、ノイガウス」
それだけ言ってレオンセルクは筆記を続け、書きあがったものをノイガウスと呼んだ彼へひらりと投げた。
「当時誇っていた君の情報網はまだ生きてるのかい」
核心を問うたのか、ノイガウスはギクリと顔を強張らせ、手元に降ってきた書類に慌てて目を通す。この筆記、ではやはり、と思わず、といったように顔を上げた。
「あなたが、……先帝陛下」
「ホルドーラ、サザール、ツォンテの3人は、今どこに? ここにいる皆は知らないと言うんだよ」
困ったことに、と肩をすくめると、ノイガウスは即答した。
「ホルドーラは財務部、サザールは国家文書の書庫、ツォンテは人事部の席へついております。ホルドーラは婿入りしたのでオリントスと名が変わりました」
「なんでホルドーラが財務部に、あの人の専門じゃないでしょそれなんでそんなところで働いてるの」
「皇帝陛下による大規模な粛清で一時的に人手が不足し、異動があった際着いた地位だったかと記憶しております。……恐れながら、その者たちはかつての腹心か何かですか?」
そうだろう、とその場の誰もが思っていた。その予想に反して、レオンセルクはいいや、と首を横に振る。顔も見たことないよ、と。
「私、書類に記名を義務付けたでしょ」
にっこりとして、ノイガウスの手にある書類を示す。
「私はね、流石に20年一緒に働いて、誰が優秀かどうかわからない、なんて言うほど人でなし皇帝ではなかったんだよ、一応ね」
顔も見せず後宮にこもって何をしているかわからない皇帝とされてたから、君たちがどう思ってたかは推して知るべしだけど、と囁いて、まぁ、そんなことはどうでもいいから、と渡した書類を重ねて示した。
「エヴァンシーク皇帝陛下が執務に復帰するまででいいから、ちょっと人の配置をその書付通り変えて欲しいんだ。使える大義名分はなんでもいいから、このばかばかしいほど不備の多い書類どうにかして。皇帝の執務室は各部署の書類の不備を点検する部署じゃないって話、またしたいの。特に財務部サザールの整えた共有すべき知識どこ行ったの今すぐ指導し直して。ツォンテは外交関係が専門分野でしょ人事部で国内にあの交渉術活用してどうすんの国外に使って国外に、国のために」
怒涛の勢いでレオンセルクは指示を繰り出して、目を白黒させる周囲に構わず、「ってことが全部その書類に書いてあるからとりあえず至急手配してくれる。あぁ、なんならそこの宰相連れてっていいよ、こう言うことするの本来誰の仕事かわかってるの」
少なくとも使い走りのような役目を負う宰相など聞いたことがなかったが、その瞬間反論できるものはその場にはいなかった。
昼前にして、城内は人の移動で慌ただしくなっていった。
「なんの騒ぎですか」
執務室にやってきた最年少議員オルウィスの姿に、「あぁ、君が」とレオンセルクはちらりと視線をやり、「たしかに、少し似ているかな」と囁いた。
「皇帝陛下の腹心は君か」
「……は? んんっ、先帝陛下」
文官に耳打ちされて態度を改めるオルウィスの姿に、くつくつとレオンセルクは笑う。ここ数日のやりとりで、すでにレオンセルクが無作法を指摘するような人間でないことは知れ渡っているので、執務室の空気は呑気なものだった。
「いやしかし、いくら先帝陛下と言えど、勝手な文官の異動は困ります。8年ですよ8年。もう先帝陛下がいた頃とは8年も年月がたっています。後進だって育っていますし、こうも大規模で急な前置きのない改革は業務の混乱を招きーーー」
「あの頃とは違う。わかってるよ」
遮るようにして、レオンセルクは言葉を発した。スタシアは見たことのないレオンセルクの様子に、まばたきのし通しだった。
「エヴァンシークは本当に武よりの皇帝だね。軍や騎士団への差配は文句ないのに、他は最低限。これ補う人間はいなかったの」
「……二年前の粛清まで、一時的に業務の決定権を皇帝陛下に集中させていましたから」
「ではこれは、私の責だね」
ため息をついて、オルウィスを見上げる。非難する目を向けられていて、なんだかホッとした。赤髪の青年は、まさしくエヴァンシークの味方であるらしい。
「なら、エヴァンシークが戻るまでに、もう少しあの子が仕事をしやすい環境に整えようか」
それは、もっとずっと早くに、レオンセルクがするべきことだったので。




