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17.赤い染みに躊躇せず膝をついたのは


「なんだい、それ」


 わだかまりも忘れて、思わず食い気味に問いかけていた。


「なんで」

「病でも、怪我でもない。ただ、臥せっていて、表に出てこれない。それだけだ」


 エヴァンシークは、失言だった、とでもいうように、こつこつと拳を額に当てる。


「……大したことではない」

「……そう言いつつ、あなたは心配で仕方がない、という顔をしているよ。いったいなにが、」

「とにかく、ウィリアローナはあなたには会えない。それだけを伝えにきた」


 頑なな息子に、ため息が出る。レオンセルクはエヴァンシークの父親としては振舞ってこなかったし、息子として接することなんて、これから先もできそうになかったけれど。

 けれど、その面差しは、あまりにもエレオリアに似ていて。


「そういわれて、無関心に放っておけるならどれだけ楽だろうね」


 もごもごと独り言つ、もう一度大きくため息をついた。


「信頼できる人に、診てもらっているんでしょう。さっき言った、大したことじゃないって言葉、信じてもいいんだね?」


 お茶のカップを手に取り、長椅子に深く座りなおして、問いかけるようにして話しかける。


「それなら、あなたはそれを信じて姫のそばにいればいい。そんな顔でうろうろするものじゃないよ」

「な」


 少々上から目線だっただろうか。お茶を飲みながら、ちらりとエヴァンシークの方を見る。妙な体勢まま、固まる美貌は見ものだった。

 おもわず、くつりと笑う。

 なんだろう、不思議と落ち着いている。あんなに居心地の悪かったエヴァンシーク皇帝の目の前にいるというのに。彼の目が、いつもと違うからだろうか。

 いつもはこちらをじっと、鋭く探る菫色。それが、久しぶりに会った今日、いつもと違ってなんだか落ち着かず揺れているから、レオンセルクは逆に落ち着いてしまった。

 遠い昔に、抱き上げた、泣きじゃくる赤子を思い出す。

 かつて、慣れない手つきでよしよしとなでた、自分の手のひらを、見つめて。


「おおきくなったなぁ」


 小さく、独り言を口にした。怪訝な顔でこちらを見るエヴァンシークに、いいや、とレオンセルクは首を振って、その否定を口にした自分に対して、「いや」とまた、繰り返した。


「立派になったと、言ったんだよ」


 どんな心境の変化だろうか。近寄りがたかった、皇帝という高みにいる息子に対して父親のように振舞っている。まさしく弱っているところにつけんでいて、本当にロクでもないなと、自嘲交じりに笑ってみせた。


「な」


 唖然と口を開けるエヴァンシークを見て、くつくつと笑う。エレオリアといい、エヴァンシークといい、レオンセルクは二人の驚く顔がどうも、非常に好きなのだろう。ひどく気分が良くて、くつくつと笑い続ける。それを、エヴァンシークはエレオリアみたいに憮然とした顔で見てくるのだ。



「……ききたいことが、ある」


 むっと口を不機嫌にしたまま、こちらから少し視線をそらして、エヴァンシークが口を開いた。レオンセルクは、思わず目を丸くして、目の前の息子をじーっと見つめた。視線が合わさることはなかったけれど、レオンセルクの視線に気押されるようにエヴァンシークはしばらく黙り込む。

 辛抱強く、レオンセルクはエヴァンシークが再び口を開くのを待った。

 そしてその口が開くと、想像もしていなかった人物の名が飛び出した。


「……エリオローウェン、という人物に、会ったことは?」


「えぇ? エリオに? あるけれど……」


 気がつけば即答していた。これ言ってもよかったっけ、と思わず手で口元を押さえる。

「神聖ニルヴァニア王国の、元王太子の?」

 予想していなかった名前が飛び出して、頭が固まっている。

 彼について、何を、聞かれるのだろう。


「……どういう、人だったんだ」


 もしかして。

 確証はないけれど、もしかして。

 レオンセルクは少しどくどく脈打つ心臓を押さえながら、一つの仮説に笑みがこぼれそうになった。

 もしかして、エヴァンシークは、ウィリアローナの父親を知っているのだろうか。

 それで、こうして疎遠なレオンセルクに、今、たまらず聞いているのだとしたら、それは、なんだかとても。


「……その顔で口を開くならこちらも考えがある」


 氷室のごとく冷たい菫色に射抜かれて、すべての熱が流れ去ってしまった。

 からかうことさえ許してくれないらしい。皇帝陛下様とお話しするのは難しいなと思いながら、ひとつ、思い立った。


「公人としてのエリオローウェンは、私から見ても、誰から見ても、何一つ非の打ち所のない、完璧な人だったよ」


 レオンセルクと比べれば、どんな人だってそうかもしれなかったが。ふんと鼻を鳴らすエヴァンシークに苦笑しながら、そうだねぇ、私人としては、違うかもしれないねぇ。と、言葉を口にする。


「五歳の時、生まれたばかりの女の子に、自分とお揃いの名をつけられて」


 伝えたいのは、エリオローウェンの話ではなくて、


「十歳の時、五歳の婚約者と会って。以後十年間、婚約者として、慈しみ、語り合い、笑い合い。孤独を、分かち合って」


 レオンセルクの、大切な人の話。


「その婚約者が体が弱く、子を産み育てれないことを理由に、五つも年下の婚約者から直々に婚約破棄を申し入れられて」


 エヴァンシークにとっても、代わりのいない、たった一人の話だ。


「受け入れてしまうような、そんな、国のためなら個人の感情をなど簡単に殺してみせる。王太子の鑑のような存在だったよ」


 そう言っても、エヴァンシークは納得していなかった。ならばどうして、ウィリアローナの出生とどうつながるのだと、その目が探るように覗き込んでくる。


「ただ、『愛していなかった』それだけの理由で、エヴァンシークは病に伏せる婚約者の手を離して、とうとう国も愛せないことに気がついて、たった一人を探しに旅に出た、その旅の果てに、たった一つを手に入れて見せた。正直すぎる、ちょっと頭の悪い男だったよ」


 言いながらくつくつと笑ってしまった。


「……なんだか、ちょっと、壊れていたのかもしれないな」


 こうしてレオンセルクの知る情報を全て並べると、なるほどエリオローウェンという人物はひどいやつだったんだなぁと気づいてしまった。

 周りからかけられる当たり前のような期待や、重責に、きっと半分壊れていたのかもしれない。けれど彼はそれを自覚して、笑って、全て捨て去って旅立った、ひどいやつだったのだ。

 ふうと息を吐きながら顔を上げると、エヴァンシークがこちらをただじっと見つめていた。ん? と首を傾げてみせると、いや、と顔をそらされる。

 今日はいつもと違って、レオンセルクが真正面から見て、エヴァンシークがそれを避けてばかりだった。


「……あなたは、エリオローウェンという人を嫌っていたのか」


 意外だ、と付け足されて、レオンセルクは返す言葉を失った。虚をつかれ、呆気にとられた。ちょっとまってよと言葉と感情は喉から今にも飛び出しそうなのに、肝心の音が出てこない。

 少しして、やっと、かすれるようにして、声が出た。


「どう、だっただろうね。でも、だってさ」


 だって、彼は、エレオリアを見捨てた。婚約を解消して、国外に旅立つ彼女を引き止めもせず、寒い、寒い、雪に閉ざされた永遠の冬の帝国で、ひっそりと生を終えようとした彼女を、それでよしと、見送った。

 だからエレオリアとレオンセルクが出会えたのかもしれないけれど。

 菫色の瞳が、見透かすように重ねて問う。


「……捨てられた婚約者も、知り合いだったのか」


 くつくつと、何度目かの笑いが腹の底から湧き出してくる。

 エヴァンシークは、王太子と皇太子の当たり前として、エリオローウェンとレオンセルクに交流があったのだろうと思っているに違いない。皇帝や国王の名代として、外交の場に出ることもあったのだと。

 残念ながら、エヴァンシークの祖父でありレオンセルクの父は、そういうまともな外交をしていなかった。エリオローウェンの婚約者として、エレオリアがレオンセルクに紹介されるなんてことも、あり得なかった。

 笑いの止まらないレオンセルクを、エヴァンシークが静かに見つめている。

 驚いているのか、戸惑っているのか、それともただ静観しているのか、反応は読み取れないけれど、


「はあ、……お喋りが過ぎたね」


 ひとしきり笑って、深呼吸をする。カップを机に戻して、姿勢をただした。


「……私の、わがままを聞いて欲しい。ウィリアローナ姫への要件は、あなたに会うことだ。あなたに会って、私のわがままを聞いてもらうためだよ」


 強引に会話を打ち切って、本題を突きつけた。




「わがまま?」


 訝しげに聞き返して、エヴァンシークもレオンセルクに合わせ背筋を伸ばす。


「宰相フォルトナが拘留している、私の部下を返して欲しい。ネリィくんは、悪事を働くような子ではないよ」


 要求を口にした途端、エヴァンシークが殺気立ったような気がした。菫色の瞳を真正面から見返すと、気のせいか肌がぴりぴりする。何を考えている、とエヴァンシークは低く呻いた。


「ハイマール王国王女だ……。あなたが指示し、私が焼き払った、あの王国の姫君だ。そんな人物を、解放などしない。そもそも、なぜそんな人物がよりにもよってあなたの部下になっている」


 毒づくように問われても、それはレオンセルクにも知らないことなのでわからない。肩をすくめてみせるだけだった。


「それでも」

「あなたは、どこまでも呑気すぎる。エレオノーラ王女を旗印に、どこからともなく集った者たちの手で刺されたというのに」


 言われて、瞬いた。

 そういえば、と腹部を抑える。


 あんな光景見ることなど、二度とごめんだ。


 食いしばった歯の隙間から、呻くようにエヴァンシークが言う。確かに言った。

 おもわず、もう一度、瞬いた。


 レオンセルクは、抑えた腹部を見下ろして、そして、エヴァンシークを見上げる。その菫色は、凶刃に倒れたレオンセルクを目撃していたのだろうか。今、その光景を思い出しているのだろうか。

 レオンセルクはこれまで、振り返ることのなかったあの瞬間の出来事を、ふと、思い返す。

 それはもう、レオンセルクにとってはずいぶん前のことで、思い返しもせずなぞりもしなかった記憶はうっすらとおぼろげだ。刺された腕や腹が熱かったのか、冷たかったのかさえ、もう覚えていない。けれど、手を伸ばしたことは覚えていた。手を伸ばして、エレオリアの名前を呼んで、霞む視界に、エレオリアを見たような、そんな錯覚を抱いたことは、覚えていた。


(エレオリアを見た。ただ、そんな気がして……。そう、それで、思いの外強く、腕を掴まれた感覚が……)


 呆然としながらエヴァンシークを見つめた。エレオリアによく似た面影を持つ、立派な皇帝となったたった一人の自分の息子。


 刺された後のことを思い出す。記憶にはないけれど、後から教えてもらった話だ。

 襲撃者に刺されて倒れたレオンセルクが回復したのは、まず、スタシアが適切な処置を施したから。これはわかる。スタシアは、レオンセルクの味方だ。スタシアのおうさまはレオンセルク以外になく、それにふさわしい知識や行動が求められる。有事の際に適切に行動しただけの話だった。

 そして、間もなく『典医』が駆けつけ、『多くの人手』によって、迅速にレオンセルクを治療できる場所まで移動することができた。そのため、レオンセルクは今も奇跡的に生きている。と言うことらしかった。


 スタシアは隠密としての特殊な訓練を受けている。けれど、見ていればわかることだが、彼女はそんなに優秀ではない。情報収拾のコツを仕込まれていて、身のこなしが軽いだけの女の子だ。襲撃者に対して、大立ち回りを演じたと言われても、想像ができない。


 典医とは、皇帝陛下のための医者だ。皇帝陛下のためだけの、つまりは、エヴァンシークのための医師。


 多くの人手が、なぜレオンセルクを助けたのだろう。特に広く顔が知られているわけではない、いい噂も、今何しているのかも聞かない先帝陛下を? 見ず知らずの男を寄ってたかって助けるほど、城の住人はお人好しではないはずだった。


 けれど、レオンセルクが刺された直後に、皇帝陛下がその場にいたのだとしたら?

 レオンセルクが伸ばした手を、掴んで、その地位にふさわしい高貴な衣裳を血塗れにして、スタシアと襲撃者をとらえ、レオンセルクを助けるため人々に命じたのだとしたら。


 呆然と、エヴァンシークを見つめることしかできなかった。


 思考がもつれて、絡まって、何を言えばいいのか言葉に詰まって、結局、わがままを繰り返すことしかできなかった。


「大切な部下なんだ。解放して、私の研究室に返して欲しい」


 レオンセルクは愚かだ。自分でも、心の底からそう思う。


「旗印など、ネリィくんが望んだことではないよ」


 できない。とエヴァンシークは繰り返した。その菫色の瞳や、立ち姿はもう、皇帝陛下のそれになっていた。


「けれど、あなたの申し出に免じて、不当な扱いをせぬよう厳命しよう。身の回りの世話や処遇についての監視も、あなたの侍女に命じるといい。ハイマールの残党に接触されると面倒なので、城内の一角に軟禁する形になるが」

 見張りと護衛をそれぞれ、エヴァンシークとレオンセルクから人員を配せば文句もないだろう。

 てきぱきと話をまとめられて、レオンセルクはちょっと待ってと慌てる。


「ネリィくんの監視に、私の侍女だって?」

「いるだろう、山のように」


 心当たりがなかった。エヴァンシークには、レオンセルクにそんな手駒がいるのが見えているのだろうか。幻覚でも見てるのなら誰に相談するべきなのだろう。


「かつては後宮に出入りさせ、今は自分の客間近辺に何人もいるだろう。ふた部屋にあれだけの人数は必要ない。あなたが命じれば動く」


 手短に言って、エヴァンシークは自分の影へと目配せをした。背景に溶け込むようにして気配を消していたエリが、音もなく動いてエヴァンシークの退出を手助けする。

 引き止める言葉もなく、レオンセルクはただ出て行く後ろ姿を見送った。

 一方的すぎる終わりだったけれど、相手は大国ヴェニエール帝国の皇帝陛下だ。どちらかと言えば、長時間会話してくれた方だろう。


「スタシア」


「はい」


「私に、黙っていたことないかい」


 ポツリと問えば、スタシアはふんわりと笑った。


「だっておうさま、聞かなかったでしょう」



 あぁ、そうだね、と額を抑える。


「自業自得ですよ」


 追い討ちのように、スタシアが言葉を投げてきて、頭を抱えた。そう言えば、目覚めてすぐにエリにもそんな言葉を投げかけられた気がする。本当に、レオンセルクは何にも見えていなかったのだと思い知った。

 本当に、たった一人の息子の気持ちさえ、真反対の意味に見誤っていたのだと。




「ところで、私の侍女って誰のことだい?」


 続けて振り返りつつ問えば、呆れた笑顔で肩をすくめるスタシアの姿があった。




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