16.捨てられた王女
出口がないことはわかっていた。いつか、いずれ、この身は破滅するのだろうと。
たとえその気は無くとも。
この血は、この地に、必要ないが故。
部屋から出る時、先生の顔は、見れなかった。
助けてと、言ってしまいそうだったから。けれど、負担になるわけもにもいかなかった。先生は優しい。優しすぎて、磨り減って、人の善意や優しさに、どこまでも報いようとする。
そんな先生の、重しになるわけには行かない。
ネリィは知らない部屋で一人、小さくため息をついた。
宰相に腕を掴まれあの女性が眠る部屋を連れ出されたのち、宰相の護衛騎士へ預けられた。そしてまた別の兵に預けられ、人を次々と介して、ネリィは今いる部屋へと案内された。
小さな部屋だ。独房というには清潔で内装も明るい居心地のいい部屋かもしれないけれど、高い位置にある窓は小さく、部屋は狭い。いや、狭いのだろうか。ネリィが普段寝起きしている部屋に比べると、ずいぶん広いと言える。
寝台は大の字になって眠れるほどあるが、頭の方と向かって右手側は壁に接している。小さな窓は左手側の壁にあって、お茶をするのに困らない十分な広さの卓と、ふかふかの長椅子が置いてあった。
(のんびりとお茶をする時間があればの話だけれど)
ひとまずは長椅子に腰掛けて、ふう、と息を吐く。ともかく、人を通して向かい合って話す場所と、帳で隠されるとは言え寝台が同じ部屋にあるのは落ち着かなかった。家具の格と部屋の広さが噛み合っていないのだ。
変な部屋、とネリィが思っている時、扉が外から叩かれた。とっさに立ち上がり、身構える。返事もないまま解錠の音がして、赤髪の男が入ってくる。
「どうも。お目にかかれて光栄です」
にこりと笑うその姿に、抱いた印象は『優男』だった。ネリィがじっと見つめていると、その笑顔をはりつけたまま、傍の侍女を部屋に通す。通された侍女は、手押し台にお茶の用意をしており、目を丸くするネリィの前に、黙々とその準備を始めた。
「……これは?」
「お茶の時間だからね。せっかくだし、一緒にどうかと思って」
見た目通りの言い分に、ため息をグッと飲み込む。どういう意図を持っているのかがわからない今、軽率な態度は身を滅ぼすだろう。
ネリィの向かい側に腰を下ろし、お茶の用意を黙って見守る。侍女からすると、いい迷惑だろうなと思いつつも目の前のこの、正体不明の赤髪の優男と口にする話題がなかった。一度だけ、「座ったら?」と軽く声をかけられ、言われるがまま腰を下ろしてしまう。予想外の軽やかさに、なんだか力が抜けてしまった。
侍女の手で淹れられたばかりのお茶を出され、侍女が手押し台と共に壁際に下がるところまでを見届けて、赤髪の優男は「さて」と切り出した。
「確認して置きたいんだけど、君は『ハイマール王女 エレオノーラ』で間違い無い?」
唐突に気軽な口調でそんなことを問われ、ネリィの顔が固まる。聞いてくるのは答えを得るためでは無い。とっくに答えは出ているのだ。ただ、こちらが知っているぞ、その上でネリィが何を語るのか、と試している。
それなら、とネリィは居住まいを正し、微笑と共に男を見る。
「その身分は捨てたものと思っていましたけれど」
けれど相手が、その身分を踏まえて接すると言うのなら、エレオノーラとして、ネリィは問いかけに答えなければならないのだろう。
そっと目を伏せ、膝の上で組んだ両手に力を込める。
「わたくしは、ハイマール王国の末姫にして、大司教の孫娘、エレオノーラ。ハイマールを取り戻すため、レオンセルク先帝陛下、エヴァンシーク皇帝陛下を亡き者にしようと、動く者共の、」
望んだわけじゃないわ、と、エレオノーラの胸の真ん中にいるネリィが叫んだ。
「旗印ですわ」
お人形の、旗印。大義名分。人を集めるには、行動するには、理由がいるから。
気が付いた時にはもう遅く、エレオノーラは、その理由にされてしまっていた。きっとエレオノーラが何を知っていたとしても、知らなかったとしても、関係ないのだろう。エレオノーラは存在自体が毒で、この世界に、何もなさない者だった。
「……せい、せんせい! 先生!!」
呼びかけに、はっと顔を上げる。目の前に、両肩を強く掴んで揺さぶるアガタの姿があった。心配そうな眼差しが、レオンセルクを見つめている。
「……大丈夫ですか?」
「あぁ、うん。だいじょうぶ」
「嘘ですね」
問われるままに答えていた。嘘と言われて初めて、確かに、とうなずく。たった今、何があったのか理解が追いつかない。ネリィが部屋から連れ出されて、いなくなって、宰相からは、もう、彼女は戻ってこないものと思えと言われて。
「なんで、ネリィくんが」
「……ハイマールの、王女だったと言っていました。先生も聞いたでしょう」
「王女?」
ハイマールとは、エヴァンシークの初陣。当時、レオンセルクが命じ、奪った国。
「……その頃、って、ネリィくん、この国にいたんじゃないの」
片田舎のアカデミー。そこで、学んでいたはずだ。ネリィはその研究室からやって来たはずなのだから。ハイマールを攻め落とした頃、すでにネリィは二十歳前後。その年頃といえば、アカデミーを卒業して研究員として働いていたはずだ。
そんな彼女が、敵国の王女? まさか。
「勘違いだ……。宰相に、問いたださなければ」
「いいえ」
レオンセルクの肩を掴んだままだったアガタが、低く呟いた。
「……いいえ」
二度、固く目を閉じて、レオンセルクの言葉を否定する。何が、とアガタに問う声は掠れた。
「彼女は、エレオノーラ姫は……。ハイマール王国がこの国へ、一方的に差し出した、友好の証のはずでした」
エレオノーラは、幼い頃、故国から帝国へと差し出された人質だった。
ハイマールは独自の文化、宗教観、階級制度に縛られた、閉鎖的な国。国王は後継のために何人も妃を娶るが、彼女たちは妃として宮に入ったその時から、俗世との関わりを絶たれる。国王の所有物となるのだ。
国王の所有物として、道具になる。政治の、外交の、各部族への牽制として、盤上の駒のように配置される。
老いた国王の、末娘として生まれたのがエレオノーラだった。母の身分は高く、彼女を手に入れたものこそ、次期国王となるとまで言われていた。その姫が、周囲の反対も押し切って、国王のものとなった。
そして、エレオノーラ姫が生まれた。
ちょうど、とある王国で、よくできた王太子との結婚が数年後に控えている姫君ににあやかって、似せた名前をつけられた。
エレオノーラ
けれど、エレオノーラの母は早くに亡くなり、くだんの王国の姫は、婚約を解消の末亡くなったと、遠い噂に聞こえてくる。
誰からも祝福されぬ婚姻だったために、エレオノーラの後ろ盾はなく、しかしその尊い血を欲する親族から末姫を守るため、国王は他国へと遠ざけることに決めたのだった。
寄る辺を失い、捨てられた王女。それが、エレオノーラの身の上だった。
幼いエレオノーラは帝国に売られ、何一つ不自由ない生活を与えられた。異なる文化、異なる宗教、異なる階級制度。人と学問が行き交う、雪に飲み込まれてなお熱を放つ開放的な国。それが、この異郷に対する最初の印象だった。
与えられた人々は皆ことごとく親切で、エレオノーラの望みは全て叶えられた。国の文化を学び、生きかたを学び、エレオノーラはやがて、ネリィとして生まれ変わる。
幼い少女から年頃の娘へ変わる過程で、文字通りほとんど別の人間として生まれ変わることとなったのだった。
自分がとある国の王女であったことさえ忘れかけていた頃、事情が変わったのは、今の皇帝エヴァンシークが、皇太子として立ったときだった。
当時の皇帝、レオンセルクの命により、ハイマールへの侵攻が、決定したのだ。
国王崩御の一報があったのは、いつのことだっただろうか。以来、次期国王の座を巡って、ハイマールは内乱に明け暮れた。十数人いたはずの王子王女たちが何人も暗殺され、仰いでいた主人を失った者たちは仇討ちに立ち上がり、国土は荒れ、混乱を極めた。
残る王位継承者は数人となった時、ネリィを抱える帝国が動いた。王位継承権の順位は低くとも、残った継承者のうち、最も尊い血を持つのが、ネリィだった。
そのネリィを理由にして、帝国はハイマールと交渉を重ねた。秘密の取引があったのだと人々は語る。
最後にはエヴァンシークが初陣として兵を率いて、城を焼き払ったと。
そうして、ハイマールは帝国の領土となり、永遠の冬に閉ざされたのだ。
本人のあずかり知らぬところで理由にされたネリィは、片田舎のアカデミーではなく、お城の研究棟へと居場所を移すことになる。宰相の監視の元、ハイマールの残党の動きを探るためだった。
「何もかも忘れて、好きなことをして、幸せに生きて、この国で死ぬつもりだった娘なんですよ」
ずるずると座り込むアガタに合わせて、レオンセルクも膝をつく。ほとんど床に這いつくばるようにして、アガタはレオンセルクに懇願した。
「なんでもいい。なんでもいいから、エレオノーラ様を助けてくれませんか。こんなことに、ならないようにずっと、俺は」
「君は」
突然のことにレオンセルクは混乱していたし、戸惑っていた。ネリィがハイマール王国の末姫、エレオノーラであること。その姫が、20年も前にこの国に来ていたこと。大切な部下の祖国を、レオンセルクが滅ぼしたこと。いろんな事実が交錯して、うまくまとまらない。けれど、今は、このもう一人の大切な部下の話を聞くことが一番だった。
「そんなことを知っている君は、いったい誰だい」
優しく、静かに、這いつくばる男の正体を問いただす。震える肩に、そっと、手を伸ばして。
「俺は……エレオノーラ姫の監視役でした。ハイマール人です」
「……国は君も監視してたんじゃないの? どうして、君たちが、よりにもよって私の部下に?」
そんなこと、宰相やスタシア、ルティーカたちがもっとも遠ざけそうな出来事だというのに。
「俺も、ハイマールが帝国領になり、別の自分になっていました。ネリィは俺を知りませんし、俺もネリィの行方は知りませんでした。俺たちハイマール人が揃ってあなたの部下になったのは……偶然、だと思います」
「そっかそっか」
くつくつと笑う。
「ほんとうに、偶然かなぁ」
ため息とともに、吐き出した。仕組んだとすれば誰なのだろう。疑いを向けられたアガタは身を固くしているが、レオンセルクは構わないことにした。そもそも、正体を問いかけはしたけれど、それによって態度をどうこう変えるつもりはないのだ。
アガタの背中をポンポンと叩きながら、立ち上がる。
なんにせよ、レオンセルクがするべきことはたった一つだ。
「ネリィくんを取り返そう」
レオンセルクができることも、たったひとつだ。
「幸い、私にはそのわがままが許されるだけの力が、あるはずだから」
理由は後付けでもなんでもいい。最悪、前宰相に頼んで理屈をつけてもらう。レオンセルクは不向きなことが多いので、それを補ってくれる人に頼るしかすべがない。
とにかく、ネリィをこちらに戻す。
スタシアが今、城にいないのが惜しかった。最近のあの子はしょっちゅう城を出ていて、仕事が増えるとエリが文句を言ってくる。直接乗り込むとするならエヴァンシーク皇帝の元だったが、そう簡単に会えるわけはない。
なら。
「ウィリアローナ姫に、会えるだろうか」
彼女から、エヴァンシークへ繋いでもらうしかない。ウィリアローナへ手紙を送るくらいなら、できるはずだった。急ぎの用件なので、日時はこちらで指定して、可能であれば出向いてもらう形にするしかない。
ネリィが酷い目に遭っているとは考えたくないが、事態がどういう動きをしていくか見当がつかなかった。早く取り戻すに越したことはない。
アガタとレオンセルクが祈るように過ごした数日後、約束の日が来て、レオンセルクは自分で指定した一室で、ウィリアローナを待っていた。傍らにはスタシアがいて、お茶の用意を整えてくれている。
「きてくれるでしょうか」
スタシアは目を伏せて囁いた。
「これでだめなら、次の手を考えるしかないよ」
数日、ネリィの様子を探らせてみたものの、スタシアの力では歯が立たないほど厳重に守られているようだった。酷い目に遭っている様子はないとのことだけれど、それなら、なんのために拘束しているのか。
考えにふけっていると、扉が叩かれ、するりとこの部屋に入り込む影があった。瞬くと、それがエリだとわかり、心臓に悪い子だと苦笑する。もしかして、エリがウィリアローナを連れて来てくれたのだろうか。
立ち上がって出迎えようとすると、続いて現れた大きな人影に、体が固まる。スタシアもこわばった表情で、とっさにレオンセルクをかばう位置に立った。
「……エ、ヴァン」
言葉尻はかすれて途切れ、結果として親しげな呼びかけとなったそれに、皇帝エヴァンシークは不機嫌に眉を顰めた。なんでこんなところに。レオンセルクの顔など見たくもないだろう人が、なぜ、わざわざ、こんなところに。
(そこまでして、ウィリアローナと私を関わらせたくなかったのか)
思い至った発想に、一人で納得する。けれどこれは好機だ。順番が早まっただけで、レオンセルクはネリィのために、エヴァンシークに会うつもりだったのだから。
「……ウィリアローナ姫は?」
つい、聞いてしまう。レオンセルクが刺され、その見舞いに来て以来会っていない。最後に会ったのはひどく具合の悪そうな姿で、元気にしているだろうかと気にしていた。
「……」
何気なく聞いたはずなのに、エヴァンシークは沈黙したままだった。居心地が悪くて、つい、身ぶりで長椅子を勧める。意外にも素直に従うので、レオンセルクはなんだか調子が狂ってしまう。出されたお茶に、手をつける。そういえば、息子とこんな風に向かい合ってお茶をしたことなど、あっただろうか。
こんな光景を、エレオリアは喜んでくれるだろうか。
「ウィリアローナは、こない」
出し抜けに、エヴァンシークが呟いた。レオンセルクは顔を上げる。
エヴァンシークはレオンセルクの方を見ないまま、ただ繰り返した。
「あなたにどんな用があるのかは知らないが、ウィリアローナは今、あなたに会わない」
ふと、気づく。伏し目がちのエヴァンシークの面差しに、心痛の影が濃いことに。その表情は、痛いくらいに、かつてのレオンセルクに重なった。
「なにがあったの」
答えが得られる確証もなく、問いかけていた。エヴァンシークは、ここでやっとレオンセルクの目を見る。菫色の瞳が暗く濁っているように見えて、思わず身を乗り出した。
「姫は」
言いかけておいて、口をつぐむ。
いいよどむエヴァンシークを、レオンセルクはじっと見つめ、視線で先を急かした。
観念したのか、やっと、エヴァンシークは先を続けた。
「臥せっている。もう、ひと月以上だ」
返す言葉が、思いつかなかった。
春を呼んだ姫君が、一ヶ月もの期間、臥せっている。
その事実を聞いた瞬間の恐怖は、きっと、帝国の人間なら誰もが抱くものだった。




