15.冬のはじまり
心の平穏を抱いて、そうして生きていく。
その道行きに、出口はなくとも。
庭園の樹々が、徐々に葉を落としていく。
これから長い冬がきて、北の帝国は二度目の雪に閉ざされるのだ。
国民は、いまだ、終わらない冬を恐れている。春に兆しを得るまで、城の奥、春を呼んだウィリアローナ姫に祈りを捧げるのだろう。
さらにその最奥で、春を望むレオンセルクのことなど、知りもしないまま。
「おはよう。アガタ、ネリィ」
早朝、エレオリアの寝顔を見つめていると、いつも決まった時間に二人の部下がやってくる。
ネリィは片田舎のアカデミーで優秀で、だからこそ持て余すようにされていた。研究室で女性が珍しいこともあってか、随分好奇の目に晒されてきたらしい。栗色の長い髪をいつもきつくまとめ上げ、長めの前髪を右に流している。凛とした表情がキツく見えることもあるけれど、世話好きの優しい女性。
普段の振る舞いやちょっとした所作が美しくて、時々、大事な人を思い出す。
アガタは頭の回転が速くて、論文の書き方が他と違いすぎた。前の研究室では室長と衝突が絶えず、レオンセルクの研究室にやってくることとなったらしい。ぶっきらぼうだけれど、頭の中で色々考えている本当は思いやり深い青年だ。茶褐色の髪はいつも寝癖で跳ねていてーー、いつも、優しい目で、ネリィを見る。
思いもよらない瞬間に、鋭い眼や、機敏な動きをすることがあるから、もしかすると騎士の家系なのかもしれない。
二人に出会ってから、もうじき丸一年になる。最初の半年こそ距離を計りかねて他人行儀だったけれど、少しずつ、一日ずつ、その距離は近づいていった。あの頃のレオンセルクは、誰かのいるところでしか眠れなくて、二人が研究をしているところで眠り、帰った後に自分の研究を進める日々だった。
『あんたなんで、こんな時間に起きてるんですか』
いつの頃か、アガタが昼夜逆転しているレオンセルクに気づき、時間をずらしてやってきて遅くまで一緒に研究するようになった。何か話をしたのか、ネリィはいつも通りにやってきて、その食生活を嘆き、食事を用意するようになった。
『先生……、霞を食べて生きてるわけじゃありませんよね……?』
いつしか二人は自分の研究にレオンセルクの指示を仰ぐようになり、レオンセルクの研究を手伝うようになる。少しずつ少しずつ、毎日が重なって、その場所は温かくなって行った。後宮の最奥、あの冷たい部屋を、胸の奥に押し込めて。
場所は変わって、後宮手前の客室に通うようになっても、その温もりは続いている。
「この状態になってからだいぶ経ちますけど、変わりませんね」
「治療も済んで、体は随分健康になったはずだが」
状態の変わらないエレオリアを前に、ネリィとアガタはうーんと腕を組む。それを眺めながら、レオンセルクは微笑む。すでに二十年以上待ったのだ、いつ目覚めるかなんて、もう、関係ない。
「いつか目覚める。そう思って、願って、こんな風に毎日を送れることが、奇跡みたいなものだよ」
私の研究はいいから、君たちは自分の研究を進めなさい。そう言うと、ネリィもアガタも困ったような顔をするけれど、何も言わずに頷いた。そうして目覚めないエレオリアを見つめていると、ネリィからの視線を感じて振り返る。何気無く振り返っただけなのに、ネリィは驚いたような緊張したような顔をして、視線をそらしてしまった。
「……?」
不思議に思いながら、エレオリアに視線を戻す前に、アガタを見る。アガタは、優しい目でネリィを見ていた。
優しい場所に、いると、思う。
叶うのなら、ずっと、このままでいればいいのに、と。
「とか考えていそうでムカつきます。目の前の眠るエレオリア様という現実を、見て見ぬ振りをしているの、ご自覚ありますよね」
本来貴人の陰に控える隠密らしい姿、金髪に、整った顔立ちで言われると、返す言葉が出てこなかった。
時刻は真夜中、ネリィやアガタがいなくても夜眠れるようになったレオンセルクは、時々夜にエレオリアの眠る部屋を訪れる。
誰の手配か、ウィリアローナ姫とのお茶会の後襲われて以来、レンセルクは研究室から城内の客室へと居室を移していた。そこからほど近い距離にあるエレオリアの部屋を、昼夜問わず訪れる。医療行為はほとんど必要としていなかったエレオリアだったけれど、ある日を境に人の手による生命維持が不可欠となった。
やはり誰が手配したのか、気がつけば四十代前後の女性たちが多く出入りするようになり、ネリィやアガタ、レオンセルクといった専門家にしかできないこと以外のほとんどを、彼女たちが担っている。レオンセルクがここにこうしている今も、不寝番として交代で、女性が部屋に控えていた。
「……聴いてますか?」
ハッとして振り返る。『エリ』だ。『エヴァンの味方になってくれた、エリ』。エレオアリアの部屋にやってくると、時々音も立てずに窓から入ってくる。今日もそうして、レオンセルクがいるのを見て小言を告げに来たのだろうか。
「聴いてるよ」
勝手に椅子に座るエリに、そう言って笑ってやると無表情で見つめ返され、居心地が悪かった。でもそれが心地いい。以前エリが言ったように、レオンセルクの周りは誰も彼もが優しくて、ひょっとすると、レオンセルクはエリのように怒ってくれる誰かを待っていたのかもしれない。
エレオリアも、レオンセルクには怒ってくれたから。
「エレオリア様が目覚めたら、どうなさるおつもりですか」
ポツリと聞かれて、どきりとした。これまで、『目覚めなかったら』を考えたことはあったけれど、その逆は考えたことがなかった。意図して考えてこなかったとも言えた。
「めざめたら……? そんなの」
決まってる。
笑ってそう答えたのに、エリは不機嫌そうな顔で片膝を立てて両手で抱え、顔を乗せる。苦虫を噛み潰したような顔で歯をむき出しにした。
「ほんと嫌だこの人……。誰も幸せにする気のない感じが死ぬほどムカつく……。私、あなたのこと嫌いです」
エリがそんな風な物言いをするのは極めて珍しいことなどレオンセルクが知るはずもなく、ただ困ったような顔をする。
「君が私を嫌いになろうと、私が君に嫌われようと、好きにしたらいいと思うよ?」
「それおんなじ意味ってわかってて言ってますよねムカつきます」
がるがると唸りそうなエリを笑って放置し、エレオリアに手を伸ばす。髪を撫で、頰を撫で、口元に触れ、呼吸を感じて手を引いた。
「おやすみ、エリ」
かつてエレオリアに向かってそう呼んだことを思い出しながらエリに告げ、控える女性にあとを託す。何か異変があれば人を介さず自分に直接知らせてほしいことも、くるたびに念を押す。
このままで、いい。
そう思い、願い、祈る。
押しつぶされてぺたんこになった心は、もう、これ以上どうしようもないので。
レオンセルクはまだ、この温もりの中にいたかった。
「先生。関連資料と論文です。時間があるときでいいのでご確認いただけますか?」
レオンセルクは一日のほとんどをエレオリアのそばで過ごすので、論文の執筆を進める上でも必要な確認をするために、アガタやネリィもやってくる。エレオリアの寝台横に置いてある長椅子に座って、レオンセルクは差し出された論文を受け取った。
その顔を、ネリィがじっと、見つめてくる。「時間はたくさんあるからね」と言って頷くレオンセルクの姿を。
「どうかした?」
あまりに真剣に見つめてくるので思わず問えば、いいえ、とネリィは首を横に振った。
「今日は研究室に帰りますね。先生、暖かくなってきたとはいえ、油断しちゃダメですよ」
今年も春が来ますね、と嬉しそうに笑って、ネリィは部屋を出ようと踵を返した。そこへ、外から扉が開かれる。
「失礼します」
普段この部屋で見かけることのない男の姿に、レオンセルクは瞬いた。なぜここに、と思わずこぼしてしまう。アガタもネリィも困惑したように男を見ていた。
柔らかく波打つ茶色の髪に、翡翠の瞳。柔和な顔立ちだが、政敵を前にするとたちまち物騒な言葉しか口にしなくなる、その、男は、
「宰相閣下」
囁くネリィの声が、震えていたような気がした。なぜだか胸騒ぎがして、二人を向かい合わせたくなく、レオンセルクはするりと長椅子から立ち上がり宰相の前へと立った。
「ええと、たしかフォル……」
言いかけて続きが出て来ず、そのまま口ごもる。宰相の顔が徐々に呆れ顔になり、ため息とともに額をおさえられた。これがあれの父親かなどと苦々しげに呟かれていたたまれなくなる。
つい、救いを求めてアガタを見ると、無表情で下がるように手を振られ、ネリィもろとも後ろに下がり、アガタと宰相が向かい合うのを黙って見る。
「フォルトナ・エルド・フィリップバーグ宰相閣下」
アガタは言いよどむことなく宰相の名を告げた。あぁ、そんな名前だったな、とレオンセルクは心中で頷く。
「なぜここに、あなたが?」
アガタが口にした質問はもっともで、今までこの部屋に宰相フォルトナが現れたことはなかった。エヴァンシークのことや、他のいつだってスタシアが間に立って、情報を運んでくれていたのに。なぜ。
フォルトナは一度寝台を見て、ため息をついた後、視線を隣室へと向けた。
「親しくもない女性の眠る部屋に入る趣味はありませんので、こちらで話しませんか」
そう言いながらやや眉を顰めて、半身下がる。生真面目な男だなと驚いていると、アガタもネリィもきょとんと瞬いていた。これだから医者や医学者は、患者に対して配慮がないとぶつぶつ言いながら、フォルトナはさっさと居間へと引っ込んでしまう。慌ててついていけば、例の女性たちがものも言わずにお茶の準備を整えていた。
掛け布が用意され、花がいけられ、女性の喜びそうな茶菓子が並ぶ。ひょっとして先触れがあったのかと伺えるほどの用意周到ぶりに、唖然とした。
その様子を馬鹿馬鹿しそうに眺めながら、宰相は立ったままの三人に席を進めるでもなく、問いの答えを返事をする。
「あなたに会うにはここに来るしかないでしょう。呼び立てるわけにもいかず、下手な人間を使いに出せないともなれば、わたしが直接出向くしかないと思いませんか? あなたの……侍女は、姿が見えませんし。まぁ、……収穫はあったので、いいですが」
目の前に置かれたカップをくるりと回しながら、一口含み、ふと、突然その翡翠の瞳がレオンセルクではない誰かを射抜く。
「探したよ。研究棟のどこかの研究室で大人しくしているかと思えば、こうしてうまく城に入り込んでいたとは」
不穏な響きの言い方だった。レオンセルクは背後の部下二人を振り返ることができず、冷ややかに嗤うフォルトナから目が離せない。
「城に自由に出入りし、この方のそばにいたというのなら、見過ごすわけにはいかないな」
おもむろにフォルトナが立ち上がり、レオンセルクへと距離を詰める。その目はレオンセルクを見ておらず、腕が伸びるのを、気づけば止めていた。
「宰相フォル、トナ。何をするんだい。二人とも、私の大事な部下だよ。もうすぐ出会って一年になる。君に、どんな関係があるんだ」
「……疑惑があるものは、すべてその身辺を改めよという指示ですよ」
「誰の」
「決まっているでしょう」
エヴァンシークの、なんの、指示だというのか。
レオンセルクが反論できないまま、フォルトナは、その人物の腕を掴んだ。
「先帝暗殺未遂と、故郷ハイマール隠密の疑いがあるため、身柄を一時拘束させていただきたい」
掴まれた腕をそのまま引きずられるようにして、レオンセルクの前に引っ張り出されたのは。
「元ハイマール王族、エレオノーラ。いや」
蒼白な顔で、唇を震わせた、
「ネリィ」
お久しぶりです。ペースが読めませんが、最後まで頑張っていきたいと思います。
おって細かい文章の訂正とかしたいですが、ひとまずこれで……。




