冬の帝国 黎明期 ①
「姫様は、なぜこんなところにいるのです」
私の問いに、祭壇に向かって祈りを捧げていた姫様は振り返り、きょとんと瞬いた。
「なぜ、と言われても」
そうおっとりと首をかしげる様子に、ため息をつきそうになるのを、かろうじて堪えた。そんな私の反応に口を尖らせる。
「声に出さなくても、わたくしに呆れていることがばればれですよ。わたくしに対し、敬意が足りないのはあなたくらいなものです。何ですか、わたくし、祭壇に祈りを捧げているだけですよ」
そうむくれつつ小言を言ってくるけれど、肩をすくめて見せるしかない。物心つく前、幼い頃から側に仕えていると、あまりに抜けたところのある女神に、敬意も憧憬もあったものではなかった。
(大好きなことに、自信はあるんですけどね。)
そんなことより、とそれた話題を戻す。
「もう地上に残る神様は、あなただけです。なぜ、姫様はまだ人の世にとどまっているのです? 冬の神様とともに、戻らなかったのはなぜですか」
具体的に指摘して見せれば、姫君は困ったように笑った。なんといってごまかすか、迷っているような視線に、誤魔化されませんよ、とジッと睨んで見せる。波打つ金の髪は、室内の照明に照らされて柔らかく輝き、淡い古代紫の瞳は、優しげに細められる。
「あなたの不満は、前にも聞きました」
彼女こそ、この神殿の主。この国に春の加護をもたらした春を司る少女神。
たった一人を待っているのだと、そう言って三〇〇年もの間、囚われの身となっている、女神様。
「でも、それもうすぐ終わるわ」
そう言って微笑む姫様は、幸せそうだった。
「以前、彼は見つけてくれた。一生をかけて、彼とわたくしが共に生きられる道を。それなら今度は、一生をかけて、それを実現してくれるでしょう」
信じているのです、と、姫様は笑う。なんの曇りなき眼差しで。憂いなど、なに一つない風に。
神殿の外が、今、どうなっているのかも知らずに。
「……ベルギウムが、姫様に会いたがっていましたよ」
私の言葉に、姫様は「またなの?」と笑う。
「本当に、宣言通りに頻繁に会いにきてくるのですね。わたくし、身の回りの世話を一手に任せているあなたを除けば、ここ最近ベルギウムにしか会っていませんよ?」
他の方々は、もう、わたくしのことなど忘れてしまったのかしら。そう、つぶやくようにつけたして、姫様は祭壇に向き直り、中断していた祈りを再開した。
その様子を見ながら顔を背けて、私はため息を吐いた。
忘れたわけではない。遠ざけられているのだ。
神殿内の神官や巫女の行動を制限できるだけの地位に、ベルギウムは辿り着いた。
そのことに気づいていないのは姫様だけだ。世話をする者が必要なので、私だけが側にいることを許されている。けれど、本来補佐としてつくべき巫女は、徐々に遠ざけられ、今はもういない。
ベルギウムは最初、姫様のただの信奉者だった。他の信奉者と同じように、家の事情で神殿へ入り、女神の話を聞いて、女神に祈りを捧げながら暮らしていた。やがてその地位があがり、直接姿を拝めるようになると、もともと深かったその信仰に狂気が孕んでいく。
若く、美しく、無邪気であどけない、不可侵の姫様を、独占したいと願うようになった。私はそのことに、ずっと気づいていた。知っていて、ベルギウスの目が変わっていき、姫さまの周囲の人間を排除していく様子を、姫様の一番近くで見ていながら、なにもできずにいたのだ。
それが、この事態を招いたというのなら。
私も、許されることなどないのだろう。
日課の朝の祈りを終えて、私は姫さまとともに、姫さまの自室へと移動する。周囲に注意を払いながら、姫さまには緊張を気取られぬように、軽口を叩いた。
「姫様、本当は誰に忘れられても、たった一人がくれば良いんですよね」
そんなことを、つい非難するように言ってしまった。そんなことにも気づかないで、姫様は正直に、そうね、などと微笑む。
「本当にきてくれるかしら。もう、ずいぶん長い間待っているけれど」
神様というのは恐ろしく気が長く、300年もの間、ただのんきに待っていられるほどだった。そろそろ奮起して自ら探しに行っても良い気がするのに、姫様はそんなこと考えたこともないようだった。
「エレオラウファンは、もう、わたくしのことなど忘れてしまったかしら」
ポツリと呟く。その名前。
神聖王国、初代国王の、息子。エレオラウファン。
「この国が誕生したと同時に、生まれた方なんですよね」
「そうよ」
そう答える姫さまは、どこか誇らしげだった。
「冬の神様と、あの子の、子どもの、子ども。孫にあたるというのだったかしら。混乱する世界に大神の神託を受け、あの子と冬の神様が出会って、二人が愛しあって生まれた子どもは、世界の救済者となり、戦いの最中で運命と出会って、最愛と世界の双方を、同時に救ってみせたわ」
「初代国王の、建国譚。ですね」
私の相槌に、ええ、と姫様は嬉しそうに頷く。大切な大切な、思い出なのだろうと察せられた。
「冬の神も、あの子も、お互いが一番大切で、わたくしや子どもは二の次だったけれど。
それを、わたくしたち、さみしく思ったこともあったわね。けれど、子どもはやがて大人になって、最愛を見つけて、王国と、宝を手に入れた。幸せそうに、宝が増えてもなお、この幸いが永遠に続くのだと、信じられた。でも、人というのは本当に一生の短い生き物ね。あの子の命が刻限に迫った時、冬の神様はその喪失に耐えられなかった」
この続きを、私は知っている。姫様は誇らしげに語るけれど、許しがたい、彼らの行いを、知っている。
「あの子が永遠の眠りについて、冬の神様は嘆いて天へと帰っていった。突然置いていかれたわたくしたちは、それでも彼らを失った穴を、埋めなくてはならなかった」
大変だったのよ、本当に、と姫様は頰に手を当てる。人の世のことはわからないけれど、わからないなりに必死だったのだと。
「人々にとって、王様のための後ろ盾、というものがとても大切だったの。それを別に作り上げる前に、後ろ盾だった冬の神様はいなくなってしまったから、わたくしが代わりを務めなければならなかったのです。わたくしは後ろ盾となるために、神殿の長として高みに立って、支えたのだけど」
以前にも聞いた話だった。要は、冬の神と母親を失った初代国王が、春の女神である姫様の存在を持て余し、象徴として神殿に閉じ込めた、とも捉えられる話だ。そうでなければ今ここに姫様はいないのだとしても、私はどうもそのことを許せそうにない。
「必要な時に表に立つ以外は、神殿にずっといて、退屈で、でも、そんなある時、エレオラウファンが会いに来てくれたの。わたくしが神殿に入った頃はまだ小さかったエレオラウファン。神殿の奥深くにいるという女神を一目見たいといって、やって来てくれた。素敵な男性となった、エレオラウファン」
幸せな思い出で、言葉を締めくくった姫様は、そうして当時の記憶をなぞるのだろう。幸せそうに微笑みながら、そっと瞼を閉じる。
その様子を、痛ましく見るのは、きっと不敬なことだろう。
その出会いには、もちろん続きがあるのだ。決して幸いなままで終われない、続き。
姫様とエレオラウファン。甘やかな逢瀬を重ねて、二人は真に愛し合うようになる。俗物的なふれあいはなくとも、心を通わせ、手を取り合い、ともに歩むことを祈るようになった。
第一子であったエレオラウファンは、多くから婚姻を望まれ、初代国王もそれを願ったけれど、とうとうエレオラウファンは首を縦に振ることはなく、生涯独身を貫いたのだそうだ。
王位は第二子に受け継がれ、神聖王国は続いていく。けれど血縁者である国王を真に支え、国を導く手腕に長けていたエレオラウファンは、いつ王位を脅かしてもおかしくない存在だった。彼を慕う派閥が、勢力を増す一方であったことも一因だろう。
人払いをし、春の女神に足繁く通うその時を、狙われたのだった。
姫様の目の前で、壮年に差し掛かったエレオラウファンは血だまりに倒れる。
その、今際の際に、言ったのだそうだ。
『いずれまた、会いに来る』
エレオラウファンが何を思ってそう言ったのかはわからない。けれど、姫様はその言葉を信じた。待っています、と。ずっとずっと、待っていますと。その言葉を受けたエレオラウファンは、最期に姫様と口づけを交わし、事切れた。
冬の神は最愛を失うことで天へと帰ったけれど、姫様はそれからずっと、神殿でエレオラウファンを待ち続けたのだという。いずれまた、会いに来るから、と人の身で大それた約束をしたエレオラウファンの言葉を、姫様は何十年も待ち続けた。
ここから先は、もう、真実かどうかわからない。人の身であれば、狂ってしまったのだと考えても仕方がないほどの長い時間を、姫様は、ただ待ち続けることで消費したのだ。
幾たびか、姫様はエレオラウファンに巡り合って、共に歩める道を探し、そして、次に会った時にこそ、ともに歩める手段が見つかるはずなのだと喜んでいる。
本当に?
私はついに、その問いを口にすることができぬままだ。
少し続きます。




