13.この人は、手足があることに気づいていないのだ。
あけましておめでとうございます。
君を知っている。君の名を、本当の君を。誰が知らなくても、自分だけは知っている。
誰もが偽りを演じている中、で知っていてなお、それを卑怯とは思わない。
演じて、演じ分け、それぞれの立場で、自身に及ぶ限りを成し、そして得る。その何が悪いというのか。
望んでその場所に立ったのだろうか。
望んでその役を演じることとなっただろうか。
それさえも忘れ、これが真実だと振る舞う人の、何が悪だというのだろう。
深夜の研究室に出入りする人影など、珍しくもなかった。しかし、何日も、何週間も続けて、となれば話は別だ。
「ネリィくん」
「アガタ? こんな時間に来たのですか」
びっくりですね。先生が消えてから、今までちっとも研究室に寄り付かなかったくせに。
先輩であるはずのアガタに向かって、恨み言のような言葉を投げつけながら、ネリィは何事か紙に書きつけていた。数字と式が並ぶその紙面を一瞥して、アガタは肩をすくめる。
「君こそ、何日ここに入り浸ってる」
「着替えに帰っていますよ」
「それでも、ずっとここでなにかしてる。身体壊すよ?」
アガタの言葉に瞬いて、ネリィは吹き出すようにして笑った。
「わたくしを心配してくれるのですか?」
くつくつと笑いまじりに、思わずと言った風に漏らす。珍しいこともあるものだわ、とひとしきり笑って、ネリィは息をついた。寂しそうに、手元に視線を落として、やっと、話す相手を見つけたというように、口を開いた。
「……ヘルクス博士はどこに行ってしまったのでしょう」
「さあ」
「アガタも知らないのですか?」
実のところ知っていたが、アガタは答えなかった。笑みの残るネリィの表情を、じっと伺いながら、言葉を探す。
「先生は、二ヶ月前、エラルベール伯爵から招待を受けて、数回赴き、何度目かの茶会へ行くと言ったあの日を境に、研究室に来なくなった」
そういうことにしてあった。ネリィもアガタも、そういう風に言われて、見送った。
「そうですね。なら、現在に至るまでヘルクス博士を拘束している犯人はその伯爵?」
「拘束されているとは限らないし、この国にそんな名前の伯爵位の家はない。隣国ニルヴァニア王国にあった家名だ。今はもうないけどね」
「失われている血統を、誰かが名乗ったということですか?」
皮肉げにネリィの顔が歪んだ。いい趣味してる、と。不快さを隠しもせずに。
「エラルベール伯爵……。以前、手紙を持って来ていた侍女が、何か知っているのではないでしょうか?」
「彼女の主人には、さすがにオレも探りをいれれないな」
「もうどこの侍女かわかっているのです?」
「皇妃ウィリアローナ様の、筆頭侍女だよ」
ネリィのまとめ上げた長い栗毛が、振り返る動きに合わせて一筋こぼれた。見開かれた瞳はまっすぐにアガタに向けられていて、アガタは無意識に口の端を上げる。
「……皇妃? 皇妃が、先生を何度もお茶に誘っていたというのですか? 失われた血統の名を名乗って?」
どうして?
ネリィの驚きに揺れる瞳の奥に、なにか底知れぬ感情が渦巻くのがわかる。ネリィがヘルクス博士を慕っていることは知っていたし、アガタが知っていることをネリィもわかっていたと思う。アガタが、ずっと気づいていた。甲斐甲斐しく世話を焼いて、その頭脳を認めてもらって、先生の頭脳に心酔して、あの人のために生きていくのだと、ネリィの全身が叫んでいるのを知っていた。
「皇妃が……。なぜ?」
ぽつりと呟くようにして、繰り返し疑問を口にする。その様子をじっと見つめながら、首を振った。慕うヘルクス博士が、皇妃となぜ通ずるのかと、受け入れがたいというように。
「オレにはさっぱり」
短く言っただけなのに、ネリィが向けてくる視線は苛烈だった。疑いの眼差しを、隠しもせずにアガタへと向ける。
「あの日、あなたは研究室を離れていました」
「君もね。先生がお茶会に呼ばれた日、昼間は研究室は解散状態になるのが通例になってた。まぁ、オレはもともと昼間はあまり来てなかったけど」
「アガタは、何をしていたんですか」
「別に」
あの日、アガタが城にいたと知ったら、ネリィはどんな顔をするだろうか。きっと今、アガタとネリィは同じことを考えている。消えてしまったヘルクス博士に何かあった場合、その直前の行動を知っていたのはアガタとネリィ、そして招待をしたエラルベール伯爵。
当の伯爵が皇妃だったなら、皇妃周辺の警備に疑う余地はない。
ネリィは皇妃本人がヘルクス博士に何かをした、ということを、どうやら考えていないようだった。なにかその根拠を持っているのかは、ともかく。
当時、ヘルクス博士の所在を知っていたのは限られていた、ということだ。
「博士に何をしたの」
「オレを疑ってるの? 先生がいなければ、拠り所を失うのはオレも君と同じだよ」
「なら、先生はいつ戻ってくるんですか。無事なら無事と、どうしてそう知らせがないの」
あなたが悪いことをするはずない、わかってます、そんなこと。そんな風に、アガタはネリィの信頼を勝ち得ていたことを今知った。意外だな、と瞬いていると、何ですか、その顔。と睨まれる。
ネリィは険しい顔に両手を当てて、広机横の丸椅子に座り込む。力が全部抜けたように、ぼうっと自分のつま先を見つめて、それでも呟くのはヘルクス博士のことだった。
「先生は、何者なの……。アガタは知っているのでは?」
ずっと溜め込んできたもの、考えないようにしてきたことを、アガタを前にしてやっと発散できたのだろう。
アガタはため息をつきながら、研究室に一歩入ったところで止まっていた足を、進める。ネリィが座るすぐ横の椅子に腰掛け、その顔を覗き込んだ。
「君は、何を見た」
覗き込んだ至近距離、ネリィが息を飲んで視線をそらすのがわかった。少しの沈黙の後に、目を伏せて、確信を抱けないままの言葉を口にする。
「アガタは、気づきませんでしたか? あの日、監査官がこの研究室に来た日。三人のうち何もしない人が、一人いたでしょう」
まさか、とアガタは笑う。ネリィが汲み取れるわけはなかったけれど、気づいたのか、と笑ってみせる。案の定訝しげな顔で、そのまま続けた。
「あの人は、エヴァンシーク皇帝だったのです」
確信を得られぬまま、断定する。それを笑うアガタに、ネリィは言い募る。
「それも、先生とごく親しいようでした。先生は皇帝をとてもよく知っているようで、あんな風に皇帝と話せるなんて、そんなの」
「もしそれが本当なら、一つ教えてくれるかな、ネリィくん」
遮るようにして、アガタはネリィへと問いを挟み込む。
「なぜ君は、陛下を陛下と知り得たんだ?」
言葉を詰まらせるネリィを、アガタはただじっと見ていた。アガタはそれをこそ知らねばならなかった。口を噤んで、答えまいと意思を示すネリィに、優しい笑みを向けたまま、視線を逸らさない。
その視線に耐えかねて、ネリィが口をゆっくりと開いたその時、
その時、大きな音で研究室の扉が叩かれた。しかし一度だけで、シンと静まった室内に、ネリィは狼狽え口を閉ざし、ため息をつきながら扉に向かったのはアガタだった。
扉を細く開けただけなのに、その人は滑り込むようにして入ってきた。
「せんせい?」
亜麻色の髪は見違えようのない、二ヶ月ぶりに目にする上司の姿だった。けれどその様子は見違えるようだ。ひどい顔色で、腕と腹部を庇いながら、足元もおぼつかない。ほとんど立っているのがやっとのようだった。ネリィはそんな上司の姿に言葉を失い、顔を蒼白にしている。駆け寄りたいと思ってもどう手を貸していいかわからないという様が手に取るようにわかって、アガタはネリィの代わりに、無言で上司を担ぎ上げた。わずかな力で抵抗するのを、問答無用に隣室を勝手に開け、仮眠用の寝台へと横たわらせる。寝台に横たわる段になっても抵抗するので、庇っている腹部を軽く押しやれば、呻くようにして気絶した。
「よし」
「よし、じゃありませんわ!? せんせい、ヘルクス博士! やだ、嘘でしょう意識がないんですか?」
「すぐ目を覚ますよ。ただ、ずいぶん弱ってる。あれだけいろんな人の病状を見ておきながら、自分がこんなになるまで、オレたちが見てなかった間何してたんだこの人」
監禁されていた、と言われれば信じそうだった。ふと、思うところがあってアガタはヘルクス博士の服に手をかける。隣で何を、と顔を背けかけたネリィも、気づいて一点を凝視した。アガタは、上司が庇っていた腹部の状態を、いとも簡単に暴いた。
「……外科的治療、研究は、一部の医療研究機関でしか認められてません。辺境や、南の片田舎ならともかく、帝都では……」
「そうだ。なら、これは刺し傷か」
腹部の、けして小さくはない傷に医療従事者として指を伸ばす。指の腹で、その傷跡をなぞった。
「これが、姿を消した二ヶ月の答え、かな」
アガタがネリィを振り返れば、否定の言葉は返らなかった。ネリィも、ただじっと傷跡を見ている。指を伸ばそうとして、ためらいに拳を作った。
「一体、何が……」
突然、ヘルクス博士が意識を取り戻した。体を起こそうとするのを、アガタが力づくで止める。「せんせい!」とネリィが悲鳴のように呼びかけて、ようやく抵抗が緩んだ。とろりとした、不思議な色をした優しい瞳が、今日ばかりは余裕なく険しい。
「……ごめん」
寝台に押さえつけられたまま、顔を歪めて、ヘルクス博士はそう言った。そんな顔でそんなことを言われれば、何も言い返せない。アガタは何度目になるかわからないため息をついて、押さえつけていた拘束を緩めた。また弱った体で無理をしないか、油断なく警戒しながら、ゆっくりと身体を離す。
ヘルクス博士は自由になった右腕で、ひどくゆっくりとした動作で、顔を覆った。
「なんでこんな時間にここにいるのさ……」
「真夜中はあなたの活動時間でしょうに」
「誰もいないと思ってきたんですか? いると思ってきてくださったのではなく?」
非難するようにネリィが声を上げる。ヘルクス博士は「ごめん、ごめん。悪かったよ」と、慌てたようにそう繰り返す。
「……見逃して、欲しいんだ」
それはきっと、じっと見下ろすアガタの視線を受けての言葉だったのだろう。アガタが答えないでいると、ネリィが返事してあげませんと、と急かしてくる。そうは言っても、アガタだって言葉を選びかねていた。
「必要なものがあるんだ、今すぐ。何も見なかったことにして、お願いだから、そこを」
「オレたち、いつから敵になったんですか」
ネリィがこちらを振り向いた。顔を隠すようにしていたヘルクス博士も、右腕をずらしてこちらを見てくる。ハッとしたように、ネリィが身を乗り出す。
「アガタは先生の部下です」
わたくしも、と真剣な顔で、ネリィは言い添える。だから、と祈るようにして続けた。
「使ってください。お役に立ちます」
ヘルクス博士の虚を突かれたような顔に、アガタはため息をついた。ひどく苛立つ気分に、自分でも意外だと思う。けれども、この博士の信頼を勝ち得ていなかったのかと思うと、情けなかったし、悔しかった。
「いつだって、お役に立ちます。オレたちは、博士を助けるために、研究室にいるんです」
ヘルクス博士はどうしてか呆然としているようだった。ただネリィとアガタを見比べて、途方にくれたような顔で何を言おうかと口を動かしている。ネリィは、固唾を飲んで言葉を待っていた。優しく、促すような瞳を博士に注いで、ただ、待っている。
おろおろと弱ったヘルクス博士は、アガタとネリィを見比べた。少しの間があって、何かを決めたように、一度強く目を閉じる。次に目を開けた時には、その瞳に、何か覚悟が見えた。
「たすけて、くれる?」
言うと同時に、ぐしゃりと年の割に精悍な顔立ちが歪んだ。目立って整った顔ではないけれど、でも、どこか目を離せないその顔が、堪えられなくなったように。
泣き言を。
「何も言わず、私を、たすけてくれる?」
もうじき五十になる大の大人の泣き言に、アガタは呆れを通り越して笑った。ネリィがアガタを見遣って、ちょっと、と驚いているが、気にしない。このしようのない人は、こうやって、何のてらいもなく、人に助けを求めることができる。そうして、傍にその声に応えるネリィがいる。それが少し羨ましい。
付き合いはたったの半年と少し。一年にも満たない期間を、けれど起きてる時間ずっと研究を通して接してきた。
「どうぞ、手足のごとくお使いください」
そう言って肩を差し出せば、対する博士はぐしゃぐしゃに顔が歪んだ。威厳も形無しで、それでも、自分の上司だと、間違いなく誇れる人だった。
後少しなんです。たぶん。頑張る。もー頑張るからね。
もしかしたらこの13話、話数の都合で後から小話とか幕間とか断章とかになるかもしれません。
次回14話は、12話の続きかな。




