3.遠い明日のゆうまぐれ
「おはよう、二人とも」
研究室長ノア・ヘルクスは、身支度を整え再び部下二人の前に現れた。横柄なところなどまるでないその人は、鷹揚に振る舞い、いつも二人を労ってくれる。自分の研究などそっちのけで、二人の研究について考え込むその姿は、いい研究者かどうかは別として、いい上司だった。
それでいて、来月に迫る学会にはきちんと期日どおりに論文を仕上げてくるのだから、かなわない、とネリィなどはぼやくのだ。
頻繁に整理しているとはいえ、そもそもの部屋の許容量に対し物量が溢れかえっている室内なのに、頓着せずにヘルクスは伸びをしながら部屋を横切る。物が崩れそうになるのを、ネリィが慌てて支えるはいつものことと通り過ぎ、窓の外を覗き見やった。おや、とわずかに不思議そうな顔をしているのを汲み取ってか、ネリィが声をかける。
「先生は眠ってらっしゃって興味がないかと思いますが、本日は皇帝陛下の婚姻の儀なんですよ」
え、とヘルクスが振り返る。その驚いている様子に、アガタもネリィも、本当にこの上司は周りに頓着しないのだから、と呆れた。仮にも自国の皇帝の婚儀を、当日になって知ったと言わんばかりの顔をするのだから。
「……あの人が? ウィリアローナ姫と?」
「先生、皇帝陛下、ですよ」
なんて呼び方をするのだ、とネリィが呆れているのに反応はせず、ヘルクスは外に向き直ってじっと見つめたままだ。徐々に日が長くなりつつあるこの季節、太陽は傾いて落ちかけてはいるものの、明るい。遠く大聖堂の方で婚儀が進んでいるのだろうか。などと考えているのを見透かしたように、
「先生、大聖堂での式は朝にすんでます。多分今は、大広間で宴の真っ最中だと思いますよ」
夜にかけて、招待客などは飲み明かすのだろう。とアガタが付け加える。
「そっか……」
そっか、と繰り返して、ヘルクスはじっと遠くを見やる。動かない上司に、部下二人は顔を見合わせた。
「先生、お呼ばれされてないんですか?」
「先生なら、多分、今からでも覗けるんじゃないかな」
ネリィとアガタ、それぞれが口走り、声が重なった。きまずげにお互い見やり、後輩に譲ってもらう形でアガタがヘルクスに一歩近寄った。
「国立の研究所の室長である先生は、そもそも前宰相の推薦でいらしてます。おれは先生の身分を知りませんが、たとえ爵位がなくとも研究者としての学位で、男爵位相当の扱いは受けれるかと。となると、それだけのツテがあるなら宴の席で祝いの言葉をかけるくらいわけないでしょう。身分を保障してくださる方伝いに、今からでもご出席されてはいかがですか」
「しゅっせき……婚姻の儀の、宴に?」
もごもごと言葉を繰り返すヘルクスに、ネリィは不思議そうな顔でさらに言葉を付け加える。
「というか、先生、招待されてないんですか?」
この研究棟の各部屋を取りまとめる他の研究室長は、皆準備の上で出席しているはずだった。自分たちの上司にはその様子が見えないけれど、当のヘリクスがいつも通りの日々を送っているので、そういうものかと特に問うことはなかったのだが。
「行きたかったなら、今からでも。ただ、急いだ方がいいですよ」
主賓は早めに引き上げることがあるらしいので、とアガタが言って、そのまま卓の食事に手をつけ出した。こら、とネリィが咎めながらヘルクスに食事をすすめた。ヘルクスは考え込んだ顔をしながら、促されるままに起きて最初の食事をのろのろ始める。
「……ちょっと、行ってこようかな」
口に頬張ったままもごもごというので、え? と部下二人が聞き返す。二人の視線を受けて笑ってごまかしながら、ヘルクスは口にした食事を飲み下した後で、再度つぶやいた。
「宴の様子、ちょっとだけ見てこようかな。二人とも、今日は自由にしていいよ。」
そういうなり手早く用意された自分の分の食事を口に詰め込んで、スープで押し流すようにし飲み込んでいく。その素早さにぽかんとネリィは手を止めて、きき返す暇もなくヘルクスは立ち上がった。
「夜には戻ってくるからね。時間になったらネリィは先に帰っていなさい」
じゃ、と去っていく姿にかろうじて「お気をつけて」と言葉をかけて、ネリィははぁ、吐息を吐く。隣でアガタも同じような表情をしていた。
「あんなテキパキ動けるんだね、あの人」
「ちょっと意外でしたね。わたくし、やっぱり先生ってつかみどころがない気がします」
「皇帝陛下を身近にしている方なのかな」
すごく、気安そうな物言いをしていたと思わないかい、とアガタがいう。ネリィも、そうですね、と頷いた。
「どこの、誰なんでしょうね。知りたいような、知りたくないような、複雑です」
さて、上司がいなくなってしまったので、アガタもネリィもやろうとしていたことが止まってしまった。他にもやることは山積みなのだが、ああ指示を出されてしまうと今日みたいな日は好きに過ごしていいのかもしれない、と思う。好きに、というか。
ネリィはうず高く積み上げられた室内のものを見渡した。せめて、すぐに必要なものとそうでないものをもう少し選り分けて、広机を使えるようにした方がいいかもしれない。その作業を思うと、ネリィはため息をつきつつ頭上を仰いだ。
研究棟から一度外に出て、そのまま別の建物に入った。足は間違いなく宴の会場に向いているのに、そこにたどり着いてどうするのだという迷いが消えない。気づけば、隣を若い女性が歩いていた。赤みの混じる黄金の髪、榛色の瞳。彼女は素早い身のこなしで足音ひとつさせずに、ぴったりと同じ速度でついてくる。
驚いて、思わず声を上げた。
「スタシア」
「おうさま」
しぃ、と人差し指を立てるその表情ははっきりとしない。感情の浮かんでいない相貌で、ひたとその眼差しを向けていた。
「そんな風に呼ぶのは、もう誰もいないよ。きみこそ、しぃ。じゃないかな。今の呼び名、割と気に入ってるんだ」
スタシアと呼ばれた女性は、少しだけ不機嫌な色を浮かべた。
「ノア・ヘルクスなどという入替え言葉、気づく者は気づきますよ。私がレオンセルク様とお呼びすればいいんですか? いいえ、おうさまはおうさまでいいんです」
いやよくないよ、とヘルクス改めレオンセルクは亜麻色の髪を掻きつつ途方にくれた。数年引き連れているこの隠密の少女、思わぬところで頑固になるのだ。今回はその思わぬところに来てしまっているらしい。
しばらく浮かべていた不機嫌な顔を消し去って、スタシアがどちらへ? と問いかけてくる。わかっているはずなのに、どうして聞いてくるのだろうといつも不思議だ。このスタシアという女性は、レオンセルクのことなどいつだってお見通しだというのに。
「あの人は、しあわせになったのかな」
質問を無視する形でぽつりと呟けば、スタシアは無表情のまま、「ご覧になったらいかがです」と窓の方を指し示す。すっかり日も傾いて薄暗くなり始めた外を見るのに、少し躊躇した。
窓の外は、ちょうど大広間の窓が見える位置で、披露宴の明かりが窓越しに見えた。式の後の宴ということで、皇帝夫妻揃っての最初の催しだ。参加者は皇帝夫妻に祝福の挨拶した後は、いつもの舞踏会のように踊り、飲み、話して、夜も更けてから帰っていくのだろう。
あんな風に、レオンセルクが誰かと踊ったことなどない。
あんな風に、あんな場所で、あんな装いで、愛しい相手を腕の中に閉じ込めて。
「華やかなもんだねぇ、結婚式って」
息子が幸福を得たのなら、レオンセルクは喜ぶべきだし、祝福するべきなのだろうけれど
けれど。
スタシアは、レオンセルクの浮かべたその表情を、ただじっと見つめていた。レオンセルクがとめどなく吐露する言葉を聞きながら。
恨み言のような、泣き言のようなそれに、スタシアは返す言葉を持っておらず、彼女の唯一のおうさまであるレオンセルクは、やがて顔を覆ってしまった。エリオとは、誰だろう。その名をつぶやく主人を眺めながら、スタシアは窓の外へと目を向ける。
(もう、私たちはどこへゆけばいいのかもわからない)
ただ、老いることなく眠るエレオリアの傍ら、年を重ね、悲嘆にくれるしかないのだろうか。皇妃となったウィリアローナの春を受けながら。幸福を歓ぶ帝国中の歌を聞きながら。
半年ほど前、前宰相ロードロスの働きかけによって、レオンセルクは医学者として居場所を得た。研究室の一つを与えられ、主に子供の病状や薬効を専門に研究している。来月の学会に向けて、二人の部下と研究を進め、論文もすでに出来上がっているとのことだったけれど、レオンセルクがその学会に参加することはおそらくないだろう。
出てはならないと、ロードロスからも、ルティーカからも、きつく言い含められている。レオンセルクは、これでも先帝陛下なのだ。エヴァンシーク皇帝陛下とは違い、絶世の美貌などといった特徴ある顔立ちをしているわけではないけれど、覚えている者もいるのだろう。
今も、研究所に引きこもり、昼夜逆転の生活をしていることでようやく外を歩けているという状況。学会など、出られるわけがない。
レオンセルクは、医学者として、研究に従事することで、平穏を手に入れれたのだろうか。
こうして時々、目覚めぬ最愛のことを泣き言のように繰り返すことはあっても。
ずっとこのままでありさえすれば、レオンセルクは幸せで、いられるのだろうか。絶望を傍らに侍らせ見て見ぬ振りをして、偽りの安息など、長くは続かないとわかっていながらも、スタシアは祈らずにはいらなかった。
もう、何がどうなれば世界が変わるのか、誰も見当もつかなかったから。
「先生、起きる時間ですよ」
アガタの声に眠りから引き剥がされ、レオンセルクはガバリと起き上がった。こちらを見つめているアガタとネリィをみやって、また驚かせてしまったようだと苦笑する。
「おはよう」
いつものようにそう呟いて、隣室に着替えに行く。研究室に戻ると、ネリィが用意してくれた食事が出迎えてくれた。お腹が鳴るのに不思議な気持ちを抱きながら、アガタに促されるまま座り、三人で談笑を交えた食事が始まる。
人は、どんなに途方にくれていても、お腹が空いたと胃が訴えるのだと、いつも、毎日、思いながら、食事を摂る。生きているから、お腹が空くし、一人誰もいない場所で眠ることも、目覚めることも怖い。
これからずっと、こんな風に行きて行くのだろうか。少しの不備を抱えて、それでも、まぎれるようにして生きて行けるのだろうかと、思った時だった。
「あぁ、そういえば先生。先生が眠っている間に、手紙が届きましたよ」
はい、と反応する間もなくアガタから封筒を突き出され、反射的に受け取る。「宛名は?」と問いながらひっくり返し、手が止まった。
「そりゃさすがにみてませんよー。持ってきたのは可愛い女の子でしたよ。貴人の侍女ですかねあの子。栗毛がふわふわしててキレーな翡翠色の目してて。うん、可愛かった」
半分以上、その言葉は耳に入っていなかった。差出人の名前を凝視したまま、レオンセルクは身じろぎできない。
「先生?」
アガタが横から覗き込む、差出人を見ているはずだが、何も言わなかった。ただ、「開けないんですか?」と問うてくる。「開けていいよ」と差し出せば、ぎょっとするネリィを横目に、アガタは無言で手紙を開けてくれた。便箋を取り出す段で視線を向けてくるが、そのまま読んでと促せば、そのようにしてくれる。ノア・ヘルクス博士の部下というのは、本当にいい子ばかりだ。
「んー? 先生、これ、招待状ですよ。お茶のお誘い。ええと、
『前略、ノア・ヘルクス博士。
明日の夕刻のお茶の時間、紫陽花の間にてお待ちしております。』
挨拶とか色々抜きにすると、そういうことだそうですね。
先生どんな貴族に呼ばれてるんですか。差出人は……おれは聞いたことないな」
再度差出人名をみて、アガタは肩をすくめてレオンセルクへと手紙を返す。レオンセルクは受け取ったその手紙をじっと眺めて、ゆっくりと立ち上がった。手紙を持ったまま隣室に行き、戻ってくる時にはもう手にしていない。
そして、晴れやかな顔で食事を再開した。
そんな上司に、部下二人は呆れたものの特に何も言わない。レオンセルクがその誘いを無視するつもりなのは見て明らかだったけれど、誘いを受けるべきだと主張する根拠を何一つ持っていなかったので。
差出人は、家名しか書いていなかった。封筒に書かれていた差出人を思い浮かべながら、レオンセルクは心中でそっとため息をつく。
(エラルベール伯爵……)
それは、失われた血統。
その名を名乗れる人物を、レオンセルクは一人しか知らなかった。




