2.いつか痛みが伴うとしても。
そのまま横になろうとする上司に、あ、とネリィは厳しい顔を向ける。
「先生、絶対食事とってないでしょう。軽くでいいですから、何か食べてください。起きた時くらくらしてしまいますよ」
「君の経験談は前にも聞いたよ。それに、寝る前に食べるのは良くないんだよ?」
「ですから、こちらのはっ酵乳を」
「おいしくないからやだぁ」
「そう言うと思ってはちみつ入れてありますから。これだけお腹に入れてから寝てください」
ほら、と長椅子の前にある卓に置くと、はいはい、と上司は肩をすくめながら手に取り、匙を使って食べ始める。その姿にほっと息をついて、ネリィは自分の論文の手直しを始めた。
やがて器を卓に置く音がして、顔を上げる。亜麻色の髪をした人の、不思議で優しい瞳と目があった。上司は柔らかく微笑んで、ひらりと手を振ると、今度こそ布団に潜り込んで目を閉じた。
ネリィはしばらく目を閉じた上司を見つめて、やがてその人が寝息を立て始めたのを見て身じろぎした。大きく息をして、椅子のもたれる。手直ししようと目の前に置いてある論文に、しばらく手がつきそうになかった。
やがて昼も回った頃、三十過ぎの男がやってくる。研究員の格好をしたその男は、寝癖の目立つダークブラウンの髪をかきあげあくびをしながら、研究室にやってきた。
「おはようございます、アガタ」
おそらく深夜に寮に寝に戻り、起き出してきた先輩に、ネリィは淡々と挨拶をした。おはよう、とアガタはそちらを見もせず、自分の散らかった机の前に立ち、ちょっと遠い目をしている。何を考えているのかわかる気がして、ネリィは呆れた目をむけるにとどめた。変に何か声をかければ、あの惨状を手伝えと言ってきそうだったので。
「先生、今日結局何時頃に寝たの」
「わたくしが来て少ししてからです。片付けをしてから眠りました」
上司は、ちょっとやそっとの物音では起きない。年明けすぐにボヤ騒ぎがあったというのに寝入ったままで、アガタに背負ってもらって避難したという記憶は、忘れようにも忘れられなかった。なのでアガタは足音を控えるわけでもなく、物音に注意する様子もなく、ガサガサと机の上の山をかき分け目当ての書類を探し出していた。
「あ、アガタ、先月の論文まとめた資料、どこにやったんです。先生が探してましたから、起きるまでに見つけてくださいね。あと、こちら今朝までの先生の研究記録です。目を通してから進めてください。それから、先日申し付けられていた資料はこちら。まだ不十分な点があるかと思いますが、ご指摘いただければすぐに付け加えますので」
立て続けの報告も、はいはい、とアガタは生返事をして、椅子に座り資料を眺め出す。そうするともう動かないことを知っていたので、ネリィは簡単な食事を近くの卓においてやった。
アガタはあまり、机に向かって書き付けたりということをしない。日がな1日大量の論文を読み続けて、ある時一晩か二晩で実験を行い論文を書き上げる。細かな訂正は必要にせよ、書き出すまでずっと脳内で思考しているらしい。研究の進捗が他人の目に全く見えないために、前にいた研究室では度々揉めたという話だった。
「すごいな、ネリィくん。これ十分だよ。助かる。ありがとう。あと先月の資料これね」
言葉少なにお礼を言われて、どうも、ネリィは返した。「資料は直接先生に渡して謝ってください」とつぶやくと、「いいの?」とよく分からない言葉を返される。
ネリィは瞬きながら、
「何がです」
と問いかけた。アガタはちらりと眠る上司を見て、別に、と囁く。なにがです、とネリィが眉を寄せながら論文の手直しに戻った。アガタももう何も言わず、別の資料に視線を落とす。
そうして研究室には、紙をめくる音と、書き付ける音、そして上司の寝息だけが響く。
「あ、アガタ。そろそろ先生を起こさないといけません」
「んー」
夕方、時刻に気づいたネリィがそう先輩に進言すると、アガタは資料に目を落としたまま、生返事しか返さない。
「アガタ、先生をそろそろ」
「んー」
「アガタ……」
だんだん小さくなっていくネリィの声に、ちらりと視線を上げて、
「今ちょっと中断できない。ネリィくん起こしてあげて」
言われることが予想できていたネリィは、それでも途方にくれたようにしてアガタと上司を見比べる。上司が目覚めた時にみんなで食べれるよう食事の準備を終えたばかりのネリィは、しぶしぶ前掛けを外して、上司の眠る長椅子横に膝をついた。
「……先生」
声をかけながら、軽く肩に手をあて揺らす。
「先生、起きてください。そろそろ時間ですよ」
眠るというなら寝かせておきたいけれど、これ以上遅くに起きだすとどんどん就寝時間がどんどん日中にずれ込むのがわかっていた。そもそも夕方に起きるというのもおかしな話だというのに。
上司はちっとも起きる気配なく、揺らす力を強くする。いつも、なんだかこのまま起きないような気がして怖いのだ。
「先生っ」
強く声をかけた時、ガバリと上司が起き上がる。いつもハッとしたように目覚めるので、ネリィはびくりと肩を震わせた。
「あぁ」
はぁ、と息をついて、上司は顔をこすり傍らのネリィを見る。困ったように笑って、「ごめん」とつぶやいた。
ネリィが心配そうな顔をしているとわかるのだろう。安心させるように頭を撫でて、「ありがとう」と続けた。いえ、とネリィは言って、そっと視線をそらす。頭を撫でてくるその手から逃れるようにして身をよじり、上司から布団を奪った。
「着替えてきてください。食事にしますよ」
「うん」
「簡単な野菜スープと牛肉の蒸し焼きの薄切りをパンに挟んだものを用意してます」
「そっかそっか」
上司は笑って、隣室へと消えていく。研究室長のための私的な空間であるため、アガタもネリィも、その部屋には立ち入らないことになっていた。去っていった後ろ姿を目で追って、扉が閉まった後も、しばらくその扉をじっと見つめていた。
手が、気づけば前髪あたりをぐしゃりと乱している。
先ほどの、名残を覚えておくように。
資料を見ているふりをしながら、アガタがそっと笑って、息を吐く。そのあからさまなそのため息に、ネリィは視線を向けられずぐっと俯向く。
「ネリィくん」
「なにも、言わないでください」
「いつものことだけどね」
「そっとしておいてください」
アガタは再びため息をついて、上司の消えていった隣室を見つめた。
「本当に、あの人、どこの誰なんだろうなぁ」
ネリィの返事を求めていない、独り言のようなつぶやきだった。
「名前も、多分偽名だろうし」
このアガタという先輩こそ、不審なツテを幾つも持っていた。半年前、まだ上司に反発していた頃弱みを握るためにあれこれ身辺を探ったようだが、何一つ出てこなかったのだと、後々になって聞いてもいないのに話された。
「ねえ、ネリィくん。ちょっと不毛じゃないかな」
「いいんです、今、こうしてお世話させてもらってるだけで」
それだけで。
それが、本心じゃないことなど、ネリィ自身がよくわかっていた。二十代もあと残すところ数年。ネリィは完璧な行き遅れだ。頭でっかち、研究者として自立した女に、貰い手などいない。
だから、何が悪いというんだ。ずっと年上の人を慕うことの、何が悪い。二十も離れたその人の、笑顔を見るたび、声を聞くたび、優しい手が、そっと頭を撫でてくれるたびに。死ぬまでこうして寄り添えたら、どんなに幸せだろうか、と。
今の所、上司の元で研究を続け、いつか自分の研究室を持つことが目標だった。けれど心のどこかで、あの上司のいくところにどこまでもついていけたらと願う自分がいる。つい、目で追って、その笑顔を待っている自分がいる。
上司の名は、ノア・ヘルクス。
半年前に突然前宰相の推薦で研究室にやってきて、ネリィとアガタを従えるようになった、謎の研究者。
亜麻色の髪は柔らかで、くすんだブラウンや暁色の混じる瞳は不思議な色をしている。
どこか寂しそうに、笑う人。
それでも、好意には素直に感謝を示し、優しい表情を見せてくれる、不思議な人。
時々遠くを見つめて、そっと目を伏せて。
ネリィの頭を、優しく撫でてくれるのだ。
ただ、この人のそばにいれるだけでよかった。




