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1.冬の帝国、2年目の春。


 その日は朝から城中が大わらわだった。厨房では前日から料理人たちが下ごしらえをはじめ、真夜中すぎまで人が絶える気配がない。夜明けもまだ遠いうちから別の料理人たちが集まり、交代していくようにして同じだけの人数が厨房を後にする。城勤めの女官たちは人の絶えた廊下から掃き清めて水をまき、藁で磨き上げていく。隅々まで水気を拭きとり乾いたところから、今度は別部署の女官たちが花や布などで飾り付けをしていった。


 今日は早朝から深夜まで、城中の誰もが息もつく暇のない大切な日なのだ。


 1年前、建国当初から冬が続くこの北の大国ヴェニエール帝国に、若き皇帝陛下の婚約者として、一人の姫君がやってきた。

 名を、ウィリアローナ・ヘキサ・シュヴァリエーン。

 隣国神聖王国の筆頭貴族シュヴァリエーン公爵家の養子として育てられた彼女は、この国に春をもたらした。春先にやってきたその姫君は、数ヶ月をかけ雪を溶かし、種を芽吹かせ、花を綻ばせ、恵みをもたらした。奇跡だと誰もが言うのは、最初の年の秋、誰も種をまいた覚えのない場所にもわずかな恵みを生み出したからだ。特に困窮していた北方の民から、聖女信仰が静かに広がり始める。

 その日の太陽を、聖女に感謝する祈り。

 ささやかなその信仰は次第に帝国中に広まり、その影響力は強大なものとなっていった。すべて、ウィリアローナのあずかり知らぬところでの話だ。

 冬が訪れ雪が降るようになり、民は毎日祈りを捧げた。たった一度の春で終わるのではないかと恐怖を抱きつつも、ウィリアローナが来たことで永遠の冬は去ったのだと信じるために。


 そしてやってきた、二度目の春。

 その事実を証として今日、ウィリアローナは帝国皇帝エヴァンシークの正式な伴侶となる。

 婚姻の儀が、執り行われるのだ。

「給仕の手が足りないんだ! だれか手の空いてる女官はいないか!」

「警備態勢で確認したいことがあるんですけど! 責任者の隊長って今どこにいるんでしょうか!」

 粛々と進められるべき準備が、あちらこちらで声が響いてくる。まだ貴人が目覚めていない時間のこととはいえ、誰もが忙しなく動き回る姿は今後の段取りに不安を抱かせる。

 横目にその騒ぎを眺め、ネリィは大変大変、と他人事のように呟きながら、早朝の城内を一人喧騒とは無関係に歩いていた。二十代のネリィにはあまり実感はなかったが、今回のこの騒ぎ、婚姻の儀が久方ぶりに執り行われるということで、誰もが手探りの中準備を進めている、ということらしい。先帝はついに皇妃と婚姻の儀を執り行わなかったし、先々代には皇妃という存在がいなかった。多くの女性を後宮に召し抱え、色欲の限りを尽くしたというのは有名な話だが、とうとう皇妃の位を与えたものはいなかったという話だった。さらに前の皇帝の婚儀ともなれば、五十年以上昔の話ということとなる。

 帝国の習わしや儀式の手順をまとめてある文献を当たればある程度の過去の段取りは得られるだろうが……。

「女の人が、とにかくずっといなかったものねぇ」

 朝の早い時間から、何も持たず歩いているネリィの姿というのは目立つようで、すれ違ったり追い越したりする女官や侍従の誰もがネリィに一瞥を投げてくれる。その忙しそうなすべての人々に、ネリィは満面の笑顔を返して喧嘩を売っていた。栗色の髪を頭の後ろにまとめ上げ、右に流した長めの前髪を耳にかけながら。不躾に見つめてくるのはそちらで、そんなことをしている暇があるなら作業に戻れというように。

(まぁ、なんにせよ、わたくしには関係ありませんけどね)

 皇帝陛下の婚儀? そんなの、ネリィの日常には何も関係ないことだ。雲上人が結婚したって、劇的に生活が変化するわけでもないし。そもそも花嫁であるウィリアローナ姫は1年前からこの城に滞在している。変化というなら永遠の冬が終わったことくらいで、それくらいと一言で済ませるには奇跡が過ぎる事象ではあったが、皇帝陛下その人に対して別に何の感慨も抱いていなかった。

 ただ、ひたすら、ウィリアローナ姫を春を呼んだ奇跡の聖女だと、崇める気持ちはわからなくもないと、思う。

 徐々に喧騒が薄らいでいく中、ネリィは一度建物を出て、別の棟へと入っていった。お城の敷地内の隅っこにある研究棟。そこは、帝国でも最高峰の頭脳が揃う、研究者のための一角だ。その一員として、アカデミーを卒業してからこちら、ずっとそこで過ごしてきた。唯一の女性研究員として、男性と同じ条件、環境下で、日々研究に邁進する。彼らと違う点があるとすれば、男性研究員は寮があるが、ネリィだけ女官の寮に一部屋借りているという点くらいなものだった。

 男性寮に比べて行き帰りの距離が長く、それだけが不満といえば不満だ。結局は研究室で寝泊りすることもあるわけだが、ネリィにだって最低限、人としての守りたい一線がある。それで時折部屋に帰って女官に混じって熱いお湯を浴びたりするわけだけれど、この移動時間だけはなんとかできないものかと頭を悩ませる日々だった。結果としての早朝起床であるわけだが、時間の有効活用という点においては何も解決していない。

 ため息をつきつつ、研究室を目指す。研究室に住み着くわけにもいかないのが、そもそもネリィはまだ若く、研究を主導する立場にないということだった。

 上司の指示や助言の元、研究を進めるしがないヒラの研究者。それがネリィである。研究室は、上司のものなのだ。

 研究棟は静かだった。けれどどこからか物音が聞こえてくるから、起きて活動している人もいるんだろう。この研究棟には、昼も夜も関係ない。ただ、夜型が多いために朝は比較的静かと言うだけで。夜通し寝ずに実験している人もいるので、全く物音がしないというわけでもないけれど。

「おはようございます」

 そして、ネリィの上司はここのところ、朝まで研究し、ネリィが来た頃に眠り、夕方過ぎに起きる、という生活をしている。挨拶とともに職場に入ると、おはよう、と柔らかな声がした。

 ごちゃごちゃと散らかった室内に、上司の姿を探す。資料の山の奥に、亜麻色の髪を見つけて、ネリィは小さく笑った。

「先生、そろそろ寝てください。片付けはわたくしがやりますから」

「ん〜……」

 机に伏して書き物をしたまま、一向にこちらを見ようともしない。返事はするのでネリィが来ているのに気付いてはいるだろうが。

 ネリィたちの専門は医学者で、特に子どもの病状を中心に扱っている。大人には適量でも子どもには多すぎ、他により適した治療法はないか、というのが基本的な考え方だ。そもそも特効薬が見つかっていない病気がいくつもある中で、子どもの病状を専門に研究するというのは珍しく、上司が来てからこちら、ネリィは毎日が発見の連続だった。

「だめだ」

 上司がそう呟くや否や顔を上げ、椅子に反るようにしてもたれかかる。ネリィが目を見張っているのに気づくと、おはよう、と二度目の挨拶をして、ゆっくりと伸びをした。

「根を詰めすぎです」

 呆れ混じりにネリィが言うのにも、うん、と曖昧に笑って見せるだけで、まったく改める気配などない。もう、とネリィがため息をつくと、上司はゆっくりと立ち上がった。がちゃがちゃとものを片付け始めるのを見て、ネリィは慌てて手を貸そうと駆け寄る。

 二人は何も言わず片付けだした。上司が積んでいく本を、ネリィが本棚に片付けていく。まだ研究に使うものは散らかしたまま、必要ないものは片付けていくのだ。あとは散らばった筆記用具だとか、紙だとか。裏がまだ使えるものは、専用の篭に積んでいく。正直言って、ここまでキチンと片付けをする研究室長は珍しく、上司のこの朝の習慣のおかげで、この小児医学研究室だけは魔窟になるの防ぐことができている。ネリィ自身この人の元に配属されてよかったと心から思っていた。

「ネリィくん、君、これからここ使う?」

「え、えぇはい。先日見ていただいた論文の手直しと、先生の研究の引き継ぎと、あとアガタが来た時のための資料作りを」

 基本的に、ネリィがするのは雑用ばかりだ。一応、個人的な研究論文は年に数本まとめてはいるものの、あとは上司や先輩のための細々としたことを、日々こなしてる。ネリィが手伝う先輩の研究を材料の一つにして、上司がさらに進んだ研究をするのだ。

 いつもごめんね、と上司は言って、長椅子に向かう。上司はいつもそこで寝る。自宅や寮があるはずなのに。いつ帰っているのだろう。湯浴びは夕方起きてからするため、不潔なところはないし、着替えはいつの間にか洗濯に行っていて、いつの前にか戻ってきていた。研究の傍ら、夕方孤児院を訪ねたり往診に出かけていく上司には、自宅に戻る暇もないように思えた。

(結婚、も、多分、してないのよね)

 もぞもぞと布団をかぶる上司を眺めながら、ネリィはぼんやりと思う。上司は、半年前突然現れた。突然この研究棟にやってきて、突然研究室を与えられて、突然研究員を育てるようになったのだ。そこに配属されたのが、ネリィと、先輩のアガタ。どちらも所属していた研究室でごく些細な問題を抱えていて、研究室の異動を検討されていた時期だった。

 どう見ても不慣れに研究員を扱う様子に、どこかのアカデミーや研究所からやってきた人ではなさそうだった。突然そんな身分を与えられたくらいだから、きっと権力ある家の人なのだと思う。そう、例えば貴族とか。

 その貴族の人が、こんなところで室長として研究に人生を捧げているということは、お金持ちの道楽で、四十後半の独身ものが放り込まれたということなのだろうと思う。


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