16.不穏な空気と、抱く不安
夕暮れ時、まだ明かりも灯されていない薄暗い廊下を、人目を避けるようにして歩いた。誰にも見咎められぬまま、廊下を歩き目的の部屋に滑り込んだ。
そこで鉢合わせた人物に、スタシアはたたらを踏む。
「ロードロス」
榛色の瞳を瞬かせて名前を呼ぶと、ロードロスは人差し指を立て、唇に添えた。そして、その理知的な眼差しを傍らの寝台へと向ける。スタシアも口を閉ざして、そっとその視線を追った。
そこには、もう何年も長い間横たわり、眠るエレオリアがいる。
「なぜ、ここに?」
普段誰の目にも触れぬよう、独自のつてを使って城内に隠れ住んでいる彼がなぜこんなところにいるのだろう。
「お別れを告げに来たのだよ」
お別れ…?
言葉の意味が理解できず、スタシアはロードロスを振り仰ぐ。老いてもこの人は堂々と、大きく、泰然と佇んでいた。
「エヴァンシーク陛下がやろうとしていることを、君も知っているね?
これを機に、宰相の座を明け渡そうと考えている。帝室から与えられた身分をすべて返上して、私は、息子が納めている故郷に帰ろうと思っているんだよ」
そんな、とスタシアは首を振った。
「レオンセルク様を、置いていくのですか」
ロードロスは答えない。いやいやと首を振るスタシアをじっと見つめたまま、淡い笑みさえ浮かべて、何も言ってはくれなかった。
「だって、エレオリア様が目覚めた時、閣下がそばに、……そばにいてくれないと」
そうだね、とロードロスは目を伏せる。
「もう一度、会えたらいいと、思っている」
「そんな言い方しないでください!」
思わず叫んだ。悲鳴のような声に、口元を抑える。
ロードロスまで、いなくなってしまう。
「そんな顔をしてはいけないよ。顔を上げて、レオンセルク様のそばで、笑っておいで」
みんな、と口にする途中で、僅かにロードロスの表情が、痛みをこらえるように歪む。お礼を、言わせて欲しいと、絞り出すような声で囁いた。
「みな、レオンセルク様の隣に立つ何も知らぬ君の存在、そのものに、救われていた」
エレオリアの不在。それに対する痛みを、直接知らぬスタシアの存在。スタシア自身の佇まいや、有り様に。こうあるべきなのだという目印であった彼女に。どう、レオンセルクに寄り添えばいいかわからなかった者たちは、彼女に救われていた。そう語るロードロスの瞳は、優しかった。
「皇妃シエラも、救われていた」
告げられた名前に、スタシアは首を横に振った。
「シエラ様を、救ってさしあげれませんでした」
スタシアは、彼女に拾い上げてもらったというのに。あの頃、何者にもなれぬまま、埋もれていくであろうスタシアを見つけてくれたのは、シエラだった。
ひとり、また一人とレオンセルクの前から人々が姿を消してしまっている。もう、あの人の隣にい続けられるのは、スタシアだけなのだろうか。
「ところで、君は知っているかな。先帝陛下レオンセルクにまつわる噂を」
「噂? レオンセルク様に?」
そんな噂が流れるほど、レオンセルクは何かしただろうか。訝しげな表情を思わず浮かべ、ロードロスの言葉を待った。
「色狂いの先帝陛下」
「いっ」
いろ、ぐるい
あんまりな噂に思わず喉が引きつった。なぜ、どうして、なにがどうなってそんな言葉がレオンセルクにつけられる。足りない頭を全力で回転させるものの、繋がりが見えてこない。
「なんで……」
「一部の貴族たちの間で、囁かれているようで。表舞台に姿を現さない先帝陛下が、後宮で何をしているのか。というところから、端を発しているんだろう。
以前、エレオリアのために、貴族に関わりのない孤児を、遠方から侍女として集めたことがあってね。皇妃になる前のシエラも、その時集めた侍女の一人だったのだけど」
懐かしさに口が弾むのか、ロードロスは楽しそうに話す。
スタシアの知らぬ時代を、懐かしそうに、口にする。
「あぁ、北の領地で伯爵夫人をしているルティーカもそうだよ。あの子は、まぁ、行儀見習いで城に上がった商家の娘さんだったけれど」
その他は、ほとんど身寄りのない少女たちだった。ロードロスはその娘たちのすべての居場所を知っているけれど、きっと、もう会うことはないだろう。
とにかく、それらの出来事が原因で、現在レオンセルクにはそう言った噂が流れている。入ってきた娘たちが出て行ったことなど誰も知らないし、何よりその中の一人であったシエラが皇妃として経ったのだから、なおさらだった。
「ついでに言えば、姿を消したまま表に一切出てこない宰相も、それなりに噂になっている」
くつくつと笑うロードロスは、本当に楽しそうだった。
「とっくに宰相位は引き継がれ、側近の誰かが宰相なのだとか、侍女に扮した少女が、実は宰相なのだとか」
「それは……」
信じる人がいるのなら、両肩掴んで揺さぶってみたい。呆れ果てている娘を前にロードロスは、スタシア嬢なら一度くらい名乗ってもいいよ。などと冗談を投げかけてくる。なんとバカバカしい。
(いや、一回くらい、いいかもしれない)
場を和ませる冗句の一つとして、覚えておこう。使い所など、今の考えても全くないのだったが。
スタシアがそんなことを考えているなど、ロードロスには知る由もなかったが、さて、と老爺は顔を上げ、この辺で失礼するよ、と囁く。
「また、会えるといいんだけれどね。スタシア、元気で」
「……ロードロスもどうぞ、お元気で」
今度はスタシアも、引き止めようとはしなかった。そう言ってなんとか笑みを作ると、ロードロスは一つ思案顔になって、
「地位も全て返上するから、ロードと呼ばれるのはおかしいな」
などと言い出した。えっと、とスタシアが瞬く目の前で、構わず言葉を続ける。長年そばに居ただけあって、この人も大概人の話を聞かない。レオンセルクとそういうところはそっくりだ。
「ギルじぃ、とでも呼んでもらおうか」
(どうしてそうなったんだろう)
老爺の思考の飛躍に、スタシアは心中でひっそりと頭を抱える。そういえば、この人の本名をスタシアは知らない気がした。この国の宰相だというのに、ロードロスという通り名が有名すぎて。
「ギルベルト・ロス・ヴァイスマン、というのが名前でね。昔はよく、ギルと呼ばれていたのだ」
自慢げにロードロスは言った。なんでも、身分を伏せて平等に過ごさせるアカデミーというのが神聖王国にはあるらしく、そちらに留学していた頃の話なのだとか。
会話の切れ目を、ロードロスは退場のきっかけとしたようだった。これからレオンセルクがしようとしていることを相談しようかとも一瞬よぎったけれど、結局、スタシアは何も言い出せぬまま、老爺は部屋を出て行った。
「……」
ため息をついて、スタシアはエレオリアの眠る寝台に向き直った。足音は毛足の長い絨毯に吸い込まれ、無音のまま。エレオリアの傍までたどり着いて、膝をつく。
スタシアはこうして、頻繁に、エレオリアの寝台を訪れる。
城に戻って以来、一度もエレオリアを訪ねていないレオンセルクの代わりのように。
「エレオリア様」
その呼びかけに、今日も彼女は応えてくれない。誰も何もしていないのに、保たれる美貌のまま、瞼は閉じられていた。
「レオンセルク様は、ウィリアローナ姫に何をするんでしょうか」
あれから、レオンセルクはウィリアローナの情報を集めた書類を、熱心に眺めている。その書類をまとめて渡したのはスタシアだったけれど、そんなにも読み込む必要があるほど情報が多いわけではないはずだというのに。
何か一心不乱に書き物をして、考えに耽る。そんな日々が続いていた。
「エリが、ウィリアローナ姫のそばに居ないとわかっている、唯一の日なんです」
明確には、わかっていない。ただ、エヴァンシークのやろうとしていること、そこに必要な人員、あの皇帝陛下の使える手駒を考えていく。するとエリザベートと名乗るあの子が、ウィリアローナのそばを離れてエヴァンシークの方に行かざるをえないことは推測できた。
「直前に、はじめます。その直後に向こうのことが動くように。そちらが済むまで、こちらに手が出せないように」
もう一人、恐ろしいほど強く、若い騎士がウィリアローナ姫のそばにいる。あの若い騎士は、経験が浅い分簡単に引き離せると推測している。神聖王国の出身で、国いた頃は騎士見習い。といえば、帝国の城内がどんな危険地帯か、未だ実感できていないだろう。
何度か会話をしたこともあるので、ただの推測というよりは観察した結果の評価だった。
「……ウィリアローナ姫を護衛から引き離して、さらって、二人で話をする場を用意して」
そこまでのお膳立てを任されたスタシアは、それより先を知らない。
「レオンセルク様が何をどうするつもりなのか、私、何も知らないんです」
スタシアは、眠るエレオリアに、ただ囁くようにして言った。
それが、少し、怖いんです。




