12.まだ、この心は、こんなにも
突然、北の領地から帰還の命令が下った。厳密に誰が出したかわからないその命令に目を白黒させながら、スタシアは数日かけて、迎えによこされた馬車で北の領地に向かうこととなる。
そこは小さな、けれど賑やかな町だった。丘の上にお屋敷が立っていて、古くからある、由緒正しい田舎の領主そのもののようだった。スタシアがそう思っていると、馬車はその丘を目指してそのまま進み、屋敷の前で止まった。
スタシアの少ない荷物を片手に、馭者は馬車を降りようとするスタシアヘ手を差し出した。それを断り、スタシアは一人で地面に足を下ろす。そこに、走り寄ってきた貴婦人の姿があった。
「スタシア」
声は聞こえていた。近寄ってくる影も。広げたその腕をどうするか、見えていたのに予想がつかず、相手が相手だったせいでろくな抵抗もできなかった。
そのまま柔らかな体と、なめらかな衣裳に抱きしめられ、スタシアは息が止まったかと思った。
「あぁ、スタシア。無事? 怪我はない?」
「な、何が」
もがきながらなんとか返事をする。
「ルティーカ、様」
出迎えてくれたルティーカは、以前会った時と変わらず貴婦人然とした佇まいで、豊かな栗毛を結い上げていた。その上品な印象の貴婦人が、どうして今スタシアを抱きしめているのだろう。
「長旅疲れたでしょう。ひとまず中に入って、お茶を用意するわ。レオンセルク様も、それはあなたのことを心配してたんだから」
そうして、ルティーカは馭者に目配せをすると、馭者はスタシアの荷物を侍女へと預け、一礼し再び馬車に乗り込み来た道を戻っていく。
数日旅した道連れとの別れにしてはずいぶんあっけなかったが、特に惜しむこともなく、ただ馭者を目で追うスタシアに何を思ったか、
「あの方には、後でちゃんとねぎらうわ。それよりもスタシアを休ませないとね」
そんな風にルティーカは笑って、スタシアを屋敷へと促した。
スタシアはルティーカに促されるまま、黙って応接間へと足を踏み入れた。屋敷に入ってからずっと、あちらこちらへと視線を向け、人影を探したものの求めるものはなく、柔らかい弾力を返す長椅子に腰掛けて、ようやく深くため息をついた。
「すぐ持ってくるから、待っていて」
この屋敷の女主人だろうに、ルティーカ自らお茶を用意するらしい。そういえば以前レオンセルクと来た時も、そうだった。ルティーカは、皇妃シエラとともにエレオリアの世話をしていた侍女の一人らしい。振る舞いたい相手に手ずからお茶を入れることに、何の疑問もないのだろう。
ルティーカが応接間から出て行くのと入れ替わるようにして、待ち望んだ人がやってきた。
「スタシア」
名前を、呼ばれて。
スタシアの体が自然長椅子から立ち上がるように動いた。目とを閉じて、頭をさげる。一目見たその人は、ずいぶん、柔らかな表情をするようになっていた。頰もふっくらと張っていて、いつか見た時よりも、ずっと、顔色が良くなっていて。
スタシアは、エレオリアからこの人を引き離して良かったと、心底思ったのだ。
部屋に入るなり姿が見えて、思わず名前を呼ぶ。その途端に、長椅子から立ち上がって一礼したスタシアを見て、レオンセルクは足を止めた。会っていなかった間、スタシアのことを考えるときに思い浮かべていたのが、何故だか少女の姿であったために、美しく成長した姿を見て面喰らう。
そういえば、出会ってから、すでに五年の月日を共に過ごしていたのだった。
ふと、そんな、老人のような考えが頭をよぎり、自分も年かもしれないな、と思う。自然口元に笑みが浮かんで、止めていた足を再度動かし、スタシアの目の前まで歩を進めた。
「大変なことがあったと聞いて、呼び寄せたんだ」
「ルティーカ様に、熱烈な歓迎をしていただきました。少しの縁でしかないのに、あんな風に心配してくださるあのお方は、とても、素敵な方ですね」
そんな風に言って、スタシアは顔をあげ、ふわりと笑う。その面ざしに影を見て、レオンセルクは眉を寄せた。
「少し座って待つといい」
そう言って、踵を返して、入ったばかりの応接間を出て行った。数ヶ月暮らして勝手知ったる屋敷を歩く。目的の人物を見つけるとその場で呼び止め、用件を伝えた。快く引き受けてもらい、レオンセルクはそのまま来た道をまっすぐ引き返す。
応接間に戻ると、レオンセルクが出て行った時の状態のまま、スタシアがぽかんとこちらを見ていた。その眼の前では、かまわずお茶の用意をするルティーカがいる。そういえば、応接間を出て行ってすぐにすれ違ったかもしれない。
「わたくしも、レオンセルク様も、あなたのことをとても心配していたのよ」
おかけなさい、と促すルティーカに、レオンセルクも頷いて見せて、ようやくスタシアは腰を落ち着けた。その様子に安堵して、レオンセルクもルティーカの隣へと座る。肩肘張って背筋のピンと立ったスタシアを対面にして、ルティーカとレオンセルクは笑った。
「もう十分よ。お城の様子はもう十分わかったから、ずっとここにいなさい。危ないことは、もうしなくていいの」
ルティーカはそういって、たおやかな手つきでスタシアの前にお茶を出す。お飲みなさい、と促されてるままに、彼女は口をつけた。
わずかに目を見開いて、お茶の味と香りを楽しむ様子が見て取れた。力の入っていた身体が、弛緩していくのがわかる。
「……戻らなければ、なりません」
緩んだ身体で、それでも、スタシアは頭上を仰いでそう答えた。ルティーカが驚きをあらわにしているのに対し、レオンセルクはなんだか彼女がそういう予感があった。
「きっと、まだ、エリには助けが必要なの……。エヴァンシーク皇帝陛下にも、ウィリアローナ姫にも」
えりとは誰だろうか、レオンセルクが瞬いていると、スタシアがはっと顔をこちらへ向けた。ようやくレオンセルクの手元へお茶が置かれて、ありがたく手に取ったところだった。
「レオンセルク様、ハプリシア様ではないです」
その言葉に、わけがわからず言葉が返せない。もどかしい様子で、スタシアが卓に手をつき身を乗り出した。
「ですから、ハプリシアではないです。ウィリアローナ姫が、春を呼んだのです」
「……ウィリアローナ?」
知らない名前を復唱しつつ、レオンセルクは首を傾げた。聞いたこともない名前だった。けれどどこか、誰か、響きの似た名前の人が、いなかっただろうか。
かろうじてわかった事実は、ひとつだった。
「エヴァンシークのお嫁さんになったのは、ハプリシアじゃ、なかったのか」
ハプリシアとは、誰だっただろうか。
リンクィンの、ただ一人の妹姫が、春を呼ぶ聖女なのだ。
神聖王国の王女が、春を呼ぶということではなかったか。
あぁ、なんだか、とてもながい間、思い違いをしていたのかもしれない。
「春を呼んだ花嫁は、ウィリアローナ、というんだ」
ハプリシアとは、誰だったのだろう。
リンクィンの妹というのは、ウィリアローナ、だったのだ。
そうでなければ。
そうじゃ、ないと。
柔らかく微笑むレオンセルクに、スタシアは訂正ができなかった。
ルティーカはわずかに唇を噛んで、顔を背ける。
二人の視線にさらされながら、それでも何の戸惑いもなく、微笑むレオンセルク。
それが、心を守るために思い描いたものを壊すまいと、他を拒絶する、かつてのおうさまの姿だった。




