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10.春

 春は、それでも帝国に訪れた。


 帝国全体が、歓喜に沸く。

 この素晴らしい出来事を、誰が喜ばないのか。誰もが思う奇跡の訪れは、雲がはれ渡り、青空が広がるその光景として明確に表れた。それを、誰が呪うのだというのだろう。

 これから各地で起こるだろう、雪解けによる災害には、その地の担当官が頭を悩ませているものの、帝国の民の多くは、春の訪れを喜んだ。

 祭りのような騒ぎだったのは帝都だ。人々が青空を求めて街を埋め尽くし、便乗して出店された屋台などに大人から子供まで、集まっていく。

 飴売りの屋台を目指し、駆け込んで眼の前でこけた少女がいた。泣きそうになる少女に、差し出されたのは、飴売りの飴だった。綺麗な飴細工に、泣きそうだった少女は笑顔になり、慌てて追いついた母親が、少女の笑顔に、飴売りへとお代を渡す。

 そんな風に、誰もが笑顔に満ちていた。


 その、中心。


 レオンセルクは一人、私室に立ち尽くしていた。

 誰も、彼を呼びには来ない。誰も、彼を探しには来ない。


 春がきたその日、レオンセルクは最奥の部屋を訪れなかった。


 立ち尽くして、動けないまま。エレオリアが目覚めたなら、一番にその顔を見れるようにと、つい先日まで思っていたはずだった。

 室内は暗い。神聖王国からやってきた春を呼ぶ姫君は、昼間のうちに城に来ているはずで、昼間のうちに、この国に春が訪れたはずで、どうしてこの部屋は暗いのだろう。

 どうして、誰も私を呼びに来ないのだろう。

 夕刻を過ぎても、レオンセルクの部屋には誰も来ない。ただ一人、影のようにじっと息を潜めて、見守るスタシア以外には、誰もいない。


 なぜ、なのか。


 その答えに、レオンセルクは決してたどり着いてはいけなかった。

 決して、彼は、気づいてはいけなかった。気づいたとしても、頭に浮かべてはいけなかった。


 扉が廊下側から叩かれ、何者かの訪れが知らされる。その音に、レオンセルクは哀れなほどビクついた。

「レオンセルク陛下」

 現れたのは、ロードロスその人だった。表情は読み取れず、レオンセルクは無感情で、ただじっと見つめる。

「城内は、これから荒れるでしょうなぁ」

 意識して作ったとわかる、それでもレオンセルクの心を緩ませるようなお穏やかな笑みを浮かべ、ロードロスは囁いた。レオンセルクも同意する。これから、この城内は荒れるだろう。だって、エヴァンシークが皇帝になってからこちら、国内の端々を整備してきたのを知っている。鎮圧に赴いたり、書類を通して働きかけたり、いろいろだ。

 そこに、春を取り戻した姫君を花嫁に迎えた。ということは、今度は後手に回っている城内の整備をしなければならない。機能していない議会で、5年もの月日をしのげたのは、ロードロスの手腕もあるだろうが、エヴァンシーク本人の資質も大いに関係しているだろう。けれど騙し騙し凌いでいたことに変わりはない。

 花嫁を迎えた今が、城内の整備に取り掛かる最大の機会だった。

「私は、ここに残りエヴァンシーク陛下を助けようと思っております」

 その言葉に、レオンセルクはただ頷いた。そんな先帝を、ロードロスは痛ましいものを見るかのように見つめて、視線を外した。

「あなたが拒絶するなら、無理は言いませんが……。一つ、提案があります」

 ロードロスの背後から、一人の貴婦人が進みでる。優雅にに一礼をして見せて、強い眼差しでレオンセルクを射抜いた。

「わが屋敷へ、ご招待させてくださいませ、レオンセルク陛下」

 またたくレオンセルクの目の前で、豊かな栗色の髪を結い上げ、隙なく着飾った貴婦人は、そう言って手を伸ばす。

「あなたがここにいれば、無用な争いの火種になり兼ねません。わたくし、あなたがそれに巻き込まれるのを、見たくありませんの」

「ルティーカ」

 かろうじて動いた唇が、その貴婦人の名を語った。はい、とルティーカは紅の引かれた唇で、艶やかに弧を描く。優雅な一礼は、以前会った時と変わりなく、本物の貴族の立ち振る舞いだった。

 立ち尽くし、レオンセルクの体の両脇でだらりと下がった両手を、ルティーカは目の前に跪きすくい上げる。跪いたルティーカの視線の高さまで上げられて、ようやく、ルティーカの柔らかなぬくもりを感じた。

「北の領地へ、お越しくださいませ」

 意思の強い声と、その眼差しに、拒絶するだけの気力がなかった。

 春が来たのに、ただ一人佇むしかなかった自分。その理由を知りたくて知りたくなかった、体全部が石になってしまったかのように、腕や足の付け根からキシキシと不吉な音がする。きっと、ここに何か衝撃を加えられれば、レオンセルクはたちまち砕けて粉々になってしまうだろう。


 あなたが壊れて、しまう前に。


 ルティーカが、目の前でそう言っていた。

 伏した目でなお、ロードロスが全身で叫んでいた。

 背後にいながらにして、触れてもいないのに、スタシアから促されるような気配があった。


 両手を引かれて、きしりと心が軋む。足が一歩、ルティーカの方へ近づいた。自分よりもずいぶん小柄な女性。お互いずいぶん年をとったというのに、レオンセルクの心は子供のように行き場がなく途方に暮れているようだった。

 そんなレオンセルクを、ルティーカが母親のように抱きしめる。

 春が来た。

 それがなんだというのだろう。

 レオンセクル自身にはきっと、関係のないことなのだ。


 そう思うことにした。心が壊れてしまう前に、そうやってきつくきつく蓋をして、何も、感じないように。



 レオンセルクは、目を閉じた。








 レオンセルクがルティーカの屋敷に招かれたと聞いて、どこかで安堵を覚えていた。これ以上、あのおうさまを、壊してはいけない。取り返しがつかなくなる前に、引き離すべきだと誰もが話したのは少し前のことだ。

 幸いが転じて、呪いと成ってしまった。

「……どうして」

 先帝に負けず劣らずのうめくような言葉。みっともなく震えた声に、彼女は唇をかんだ。

「……エレオリアさま」

 まるで泣いているかのような声で、彼女は、皇妃シエラは、寝台に突っ伏する。窓の外からは、この最奥にまで響く歓喜の声、晴れ渡った空。そのどれも、この部屋の空気を和らげることなどなかった。

 春が訪れれば全ては転換する。冬が、春に。闇が、光に。

 眠りが、目覚めに変わるのだと、誰もが信じていたのに。寝台に横たわるその人は、若く、美しいまま、その閉ざされた瞼が、開く気配はなかった。ただ、呼吸だけを感じさせる。


「なぜなの」

 泣いているかのような声が、エレオリアと皇妃ただ一人、その他には誰もいない室内に、問いを投げかける。

「なぜ、姫様はめざめてくださらないの」

 皺になるほどきつく敷布をつかんでも、こたえはない。誰もいないその場所に、皇妃シエラはただ繰り返した。

「春が来れば、目覚めるのではなかったのですか。以前は、あの時は、確かに目覚めたじゃないの!」


 つれて、いくつもりなのですか。


 敷布に突っ伏し、虚空を見つめるその青い瞳で、シエラは笑った。あきらめたような、笑い方だった。結局あなたは、姫様を連れて行くおつもりなのだわ。真綿で首を絞めるように、希望を見せて、長い時間をつかって、私からこの方を奪うおつもりなのでしょう。あなたはこの方を、自分のものにするおつもりでしょう!

 囁くような独り言に、答えるものは誰もいない。かえして、と喘ぐようにシエラはこぼした。

「レオンセルク様に、このかたを、かえしてください」

 あの方の隣に、このひとを、かえして。

「そうでなければどうして一息に奪ってくれなかったのですか!」

 弱々しい喘ぎから一転し、激するように怒りを交えた言葉を発する。どうして、とシエラがいくらつぶやいても、叫んでも、最奥の部屋に、誰も来ることはなかった。

「つれていかないで」

 そう言って、泣き濡れた顔を上げる。どこか虚空を見つめて、笑った。

「このかたを連れて行くというなら、わたしをつれていってください。かわりに、私がいきます。どこへでも、いくから」

 だから。


 誰もいない部屋で、シエラは一人、空へと手を伸ばした。

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