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暗転.北の領地《ルティーカ》

 豊かな栗色の髪を揺らし、婦人が一人、こじんまりとした台所でお茶の準備を進めていた。

 手ずからお茶を入れているにもかかわらず、その身なりや仕草、佇まいは、貴婦人のそれであったが。それを裏付けるかのように、その台所の出入り口には、侍女らしき姿がおろおろはらはらと見守っていた。

 二人分のお茶の準備ができた所で、婦人は盆の上に載せ運び出す。慌てふためく侍女を横目に、ニコニコと応接間へと入った。

 待ち受けていた客人は、盆にお茶セットと貴婦人を交互に見やり、困ったように笑う。

「僕は、君の夫君に怒られないかい」

 特別身なりの良いその客人は、肩をすくめて怖いなぁと大げさに怖がる。あらあらとそれに答える声は暢気な様子だった。

「そんな人じゃありませんから、ご安心ください」

 わたくしと一緒で、自分で出来ることはさっさと自分でやってしまう、貴族らしからぬ人ですよ。ふふふ、と婦人は笑い、客人はふうんと微笑んだ。

 それで、と婦人は客人の真向かいに腰をおろし、少女のように可愛らしく首を傾げてみせる。ティーカップを片手で持って、しばしその赤い水面を見つめ。

 独り言のように、呟いた。

「今頃お城は、大変な騒ぎではないですか? レオンセルク上皇陛下」

「そんなことはないよ」

 答えは早かった。

 その、心情をまったく読ませない柔らかな笑みの表情に、婦人は一つ、ため息を吐く。声を潜めるような仕草で、ポソリと言った。

「まったく、姫様ったら、この男のどこが良かったのかしら」

「聞こえているよ、ルティーカ侍女長」

 あら失礼、と微笑むルティカーは美しく、レオンセルクはそれ以上怒らなかった。ただ一言、聞こえないよう呟く気もなかっただろう、と指摘する。

「先触れに少女一人で、突然やってきた陛下を、わたしくしども、急ごしらえでもてなすために知恵を絞ったんですのよ。そろそろ今回この北方を訪れた理由を教えてくださいな。即位したてのエヴァンシーク皇帝陛下には、まだ、お父上である上皇帝の力添えが必要でしょう」

「だから、そんなことはないよ」

 僕がいなくても、あの人は立派に王様やるよ。むしろ、いない方が良いほどだよ、と。自分をないがしろにした物言いをするのは、今に始まったことではなかったけれど、皇帝と言う位を退いて、それが加速したように思えるのはルティーカの気のせいだろうか。どうしようもない不安を抱いて、ルティーカは、レオンセルクから視線がそらせなかった。

 そんなルティーカの視線に気付いているのかどうなのか、レオンセルクはルティーカの淹れてくれた紅茶を一口飲んで、おいしい、と一つ頷く。それでもまだルティーカが見つめていると、

「あの人は、僕と違って強いからね」

 そう呟いた。

「では」

「もちろん、ずっとここにいるつもりもないよ。それに、あそこにはまだ、」

 言葉を切る。レオンセルクはそっと目を伏せた。

「ただ、一度、城を離れてみたかった」

 十年以上、閉じこもっていた場所。一度、外からその場所を見たくなった。そうして、その場所に戻ってみたかった。


「それから、君に一言、直接会って言いたいことがあったんだ」


 それが理由。レオンセルクはそう言って、目を開き、椅子に深く腰掛け、背もたれに身体をあずける。

「ずっと、気にかけてくれてありがとう」

 レオンセルクの柔らかな眼差しに、ルティーカはにっこりと微笑んだ。レオンセルクと同様、年を重ね、刻まれた皺はあっても、その笑みだけは、昔と変わらぬままだった。

「君の息子は、あの人の味方になってくれたよ」

 エヴァンシークはその頃、もう一人、味方を作って引き入れていたけれど。さすがのレオンセルクもそこまでは把握していなかった。

「オルヴィス、辿り着いたのね」

 良かった。祈るように、手を組んで、物音に扉の方を振り返る。少女の姿にもう一度微笑んだ。

「陛下の、味方は、ずいぶん可愛らしい女の子ですわね」

「側に置けと、言ってきかない人がいたんだ」

 ルティーカは、それが誰か分かっていた。そうですか、と微笑むだけにとどめて、少女の方に視線を合わせる。

「初めまして。わたくしはルティーカ。あなたの名前は?」

 高貴な婦人から名乗りとともに告げられた問いかけに、少女は背筋をピンと伸ばす。

「スタシア」

 じっと視線を合わせたまま、小さく名乗った。良い名前ね、と続いて言われ、わずかに頬を上気させるのが分かった。

 この少女は、自分の立場と、その名に、誇りを持っているらしい。そのことが分かり、安心した。彼女は間違いなく、レオンセルクの味方である。

「いずれ、城に戻るのですか」

「いずれ?」

 きょとんと瞬くレオンセルクを、ルティーカは息を詰めて見つめる。だってルティーカは思うのだ、あのお城、あの政治の中枢。大陸最大の帝国ヴェニエールの、その頂点に、この人はまったく似合っていない。

 鋭くも彼女の考えは当たっていた。ルティーカが知る由もないことだけれど、レオンセルクという人物は、皇帝になるべくしてなった人ではない。片田舎で医学者をして皇子だと言うこともおおっぴらにしないまま、研究漬けの人生を送るはずだった男だ。

 そんなこと知る由もないルティーカは、それでも、レオンセルクがいつか城に戻るというのは、考えるに辛いことだと思った。目を伏せて、この問いを最後にしようと、心に決める。

「……あれから、エレオリア様は?」


 目を伏せていなければ、ルティーカにだってレオンセルクの顔が見れただろうに。ただ、じっと、その目を床に落としたまま、ルティーカはレオンセルクの返事を待った。


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