3.喪失の自覚
引っかかったのは、ほんのわずか。少し前の自分なら、きっと気にも留めなかったようなこと。
雪が降る中、積もった白を踏みしめる。風は凍えるほど冷たく、庭の植物は眠っていた。最も寒さが厳しい季節。レオンセルクは何を思ってか室内着のまま外に居た。
ぼんやりと、空を見上げる。
「なにをなさっているんですか」
背後から近づく影に、なんとなしに微笑んで、振り返る。微笑みを向けられたスタシアは、近づく足を止め、ほんのわずか顔をしかめた。
「風邪を、ひきますよ」
「雪、やまないねぇ」
「ここは冬の大国ですから」
「春はいつ来るのかな」
「連れ戻さねば、戻りませんよ」
知った風な口をきく。それについて追求した所で、春が戻ってくるとは思わない。だから、気にせず肩をすくめるだけにした。
「ねぇスタシア。きみ、ここしばらく機嫌が悪いのはどうして?」
出し抜けに問えば、スタシアの目が細くなった。その視線を受けて、「なんとなくだけどさ」と言い訳がましく呟いてみる。気のせいだったなら、それでいいんだけどさ、と。重ねて。
「……別に」
「神聖王国の王子様が嫌いかい」
ぎっ、と睨んでくる気配に、ワーと内心、身体を捻って逸らしたくなる。雪はやまない。外にいるレオンセルクと、それを追ってきたスタシア。当然、スタシアも雪にふられている。そのくすんだ金髪に雪が積もって行く様を許しがたく思って、一歩近づいた。
そうして、スタシアは、一歩下がる。
おや、と思った。微笑を意識して口元に貼付けて、もう一歩近づく。そうすると、彼女はまた一歩下がった。
「……エリオ、ローウェンが、嫌いなだけ、です」
今度はこちらが、ぎっ、と固まる番だった。なぜ。と思う。嫌いというスタシアと、それに対して心臓が痛んだ自分自身へ。
「神聖王国も、あまり、好きではない、です」
だからです。とスタシアはモゴモゴと告げた。レオンセルクはそう、とだけ頷いて、スタシアに歩み寄る。今度は逃げられなかった。肩に手を添えて、反転させて、背中を押す。
「戻ろうか」
声をかけると、少女は素直に従った。レオンセルクと二人、城に戻るべく、ぎゅ、ぎゅ、と雪を踏みしめ歩く。目の届く距離であったため、ほんの少し歩けば辿り着く。なのに、レオンセルクの足は途中で止まった。シエラが思い詰めた表情で通りかかったからだ。
かりそめの皇妃は、回廊にさしかかった瞬間こちらに気がついた。
「へい、か」
立ち止まった彼女の顔が、目が合った瞬間謎の空白を置いて、徐々に見開かれて行く。やがて、憂鬱そうに歪んだ。何を考える暇もなく、レオンセルクは大股で彼女のそばまで辿り着き、身を翻そうとした彼女の手を取った。
「へいか」
顔を背け再び呟かれたか細い声は、聞いたことのない程堅苦しい。そんな風にシエラのことを考えて、レオンセルクははたと気づく。こんな風に、こんな近くで、この人を見下ろしたのはいつ以来だろうと。
言葉は交わしていた。けれど、その顔をちゃんと見ていただろうか。顔も、別にまったく合わせていなかったわけではない。でも、その言葉にきちんと耳を傾けていた?
分からない、でも、今、シエラは何か途方に暮れている。どうしたの、との問いかけは、無意識だった。
「なにか、あった」
「なにも!」
問いかけは、被さるようにして、強く否定される。どきりとした。久しく向けられていなかった拒絶に、鼓動が早まる。
「陛下を、わずらわせるような、ことは、なにも。何一つ」
「妃殿下!」
ありません、と言いかけたところへ、一人の男が現れる。回廊に姿を見せたその男は、シエラのことを呼んでいた。恐らく、走ってきたのだろう。肩で息をして。シエラを視界に入れた途端ほっと肩の力を抜いたかと思えば、レオンセルクの存在に身を強ばらせる。すぐに臣下の礼をとったことで、城の者ということだけが知れた。
背中に軽い感触。スタシアがレオンセルクの背中に触れ、警戒するようにその男を見ている。それに気付いてまた男をよくよく観察すると、なるほど、帯剣していた。レオンセルクは荒事にはからきしであるため、スタシアの懸念が杞憂であれば良いとしか願えない。
「皇妃に、何か用かい」
問いかけるでもなしに声をかければ、いえ、と面を伏せたまま男は否定する。名前を呼んで、そんな風に走ってきておいて? と思わなくもなかったが、レオンセルクは「ふうん」と呟くだけにとどめた。
「皇妃」
シエラに呼びかける。はい、と小さい返事に、うん、と内心で頷いた。
「部屋まで送ろう」掴んだままだった腕を引いて、シエラが抵抗せずについてくることを確認しながら歩き出す。スタシアは動くことなく、ただじっと男を見ていた。
腕を引きながら、その震えに心臓が痛む。
「何か怖かったの?」
「……いいえ」
「震えているのに」
「……この国は、寒いですから」
誤魔化すように、笑みを混ぜた虚勢を張られた。
あぁ、どうしてこんなに心臓が痛むんだろう。こんなこと、今まで一度だってなかったのに。
けれど理解する。シエラは、本心をレオンセルクに告げる気など一切ないのだ。何故だなどとは思わない。そんな、恥知らずな感情は抱かない。振り返ってみればいつだって、レオンセルクはシエラに酷いことをし続けてきた。
心を閉ざされているのだと、気付くのは簡単だ。
とぼとぼと足の遅いシエラの腕を引きながら、レオンセルクは前を見る。やがて背後で小さな嗚咽が聞こえだしたけれど、聞こえない振りをした。
問いかけた所で、彼女はきっと、その嗚咽さえも噛み締めようとしてしまうだろうから。
それは、レオンセルクが失った時間だった。エレオリアが失って、レオンセルクが補完すべき、空白の時間だった。
本当なら、レオンセルクがちゃんとその日々を過ごして、目覚めたエレオリアにうめてあげるべきなのに。
エレオリアを失って、茫然自失していた時間。目覚めたエレオリアが知ったらなんて言うだろう。
自分が眠りにつきさえしなければ、レオンセルクが、そんな時間を失うこともなかったのに、などと言い出すのではないだろうか。
そんなことを、一番近い場所に居たはずのシエラに拒絶され、ようやく気付いたのだ。
本来失うはずのなかった、恐ろしいほどの時間を、なくしてしまった事実に。




