2.協力関係と与えたもの
深く、深く、雪が降る。積もって行く。音は白銀の大地に吸い込まれ、静寂が、その国を覆っている。
ただ、他国との境で、雑音が、熱が、うごめいていた。
まだ名前のない少女は、毎朝レオンセルクを起こしにくる。朝議の場へと促したり、庭でのお茶に連れ出したり。服装は高価なものではあるが、令嬢が着るような衣裳とはまた違う。どちらかと言えば動きやすいものを好んで着ているようだった。
「この間居た子どもと君は同郷なの?」
ふと浮かんだ疑問を、口にする。少女はきょとんと瞬いて、首を横に振った。
「エリとですか? ちがいますよ」
「ふぅん」
気軽にエリ、と呼ぶ割に、その返答は素っ気ない。しかも、その先を告げようとしなかった。だからレオンセルクも、重ねて問うことはしない。それよりも、本当にこの少女をどうしよう、と思う。正直扱いに困っていた。
「私のことを守るだなんだと言っていたけど、本当にそれだけの能力があるの」
「なければここにいません」
少女は取りつく島もなく、考えてみれば分かることでしょうと言わんばかりに、丁寧な言葉を返してくる。ため息とともに、どうしたものか、と途方にくれる。正直に言って、まったく当てにしていないというのが本音だった。
呼び名をどうしようかと考えるけれど、上手く思いつかない。
「……エルアン、は、だめか」
さすがに。
独りの室内で、ぼんやりと呟いて、首を振る。自分でもよく覚えていたなと思うくらいには、古い記憶。それは、第一子がもしも女の子だった場合、候補に考えていた名だ。仮にも我が子に考えていた名前を、隠密に与えるのはどうだろう。
(養子にするわけでもあるまいし)
あの子どもも、そんなことは望んでいないだろう。
『ご飯の分だけ働くよ!』
猫を被って明るく言ったあの言葉。きっとアレが真実だろう。ジッと観察していると、色々と納得する。
あの少女は別に、レオンセルクに対して、温かな繋がりを求めているわけではない。信頼も優しさも。とりあえずは、生きるために、従う相手、と言った所だろう。
「なら、なんにも関係のない、名前が良いな……」
どうせ呼ぶなら、誰も連想しない名前が良い。エレオリアも、エリオローウェンも、エヴァンシークも。
誰も。
つい思いついた端から並べてみて、似通った響きに何とも言えない気分になる。無意識の繋がりに、こうして人は呪われて行くのだろうか。
白い花が、視界にうつった。
「……」
レオンセルクはその花をじっと見つめ、一つ頷く。
「次に会った時で、いっかな」
うん、とまた独りで頷いて、ふらりとその場をあとにした。
「陛下、夕食の時間です」
少女がきてから、レオンセルクの食事はだいぶ規則的になった。一日三食、少なくとも二食は正しい間隔で食べれている。
向かいの席で、もぐもぐと食事をとっている少女を眺めながら、レオンセルクは切り出した。
「君の呼び名を考えたんだけど」
そもそも、仕える主と一緒に食事をとる隠密など聞いたこともない。やはりこの娘向いていないのでは、と思っていると、少女が停止していることに気がついた。
「……?」
「……ほんとうですか?」
心底驚いている様子で、少女が問いかけてくる。何がそんなに珍しいのだろう。
「ないと不便でしょ」
ひとまず正論を述べてみる。少女が停止したままなので、首を傾げてみせた。
「それとも、いらない?」
「いります」
間髪入れぬ返事に瞬く。この場にシエラさえいれば、通訳を頼めたのに、あの皇妃はいったいどこで何をしているのだろう。
この時間であれば、執務室で皇妃の仕事をしているはずだった。レオンセルクがやるべき仕事を肩代わりしてくれているのだ。皇妃は悪くなかった。
停止したままの、自称隠密少女に、呼びかける。
「スタシア」
びくりと、少女の方が揺れた。
双眸を見開いて、こちらをじっと見つめている。ここで、あぁ、彼女は榛色の瞳をしていたのかと知る。金の虹彩が美しく、複雑な色味に魅入る。
「君を今後スタシアと呼ぶ。構わないね」
返事はなかった。スタシアは停止したまま、じっとレオンセルクを見つめている。何か気に入らなかっただろうかと黙って見ていると、か細く何か音がした。
「…………はい」
声と同時に、少女のあごがわずかに引かれる。
噛み締めるように。宝物をもらったかのように、両器の形にした両の手をゆっくりと重ねて、まるでそこに名前がのったかのように、ぎゅっと胸に押し付けた。
「大事に、します」
ただの呼び名一つに、大仰なことだった。真実の名前くらい、あるだろうに。本当に大切そうに大切そうに、その名前を治めたらしい両の手を見下ろすから、何となく、ふうんと思う。
子どもというのは、こんな風に、人の言葉を聞くのかと。
一音一音を、こんな風に、真に受けるのかと。
大変なことだ、と思う。
たまったものじゃないと思った。
エヴァンシークを手放して、よかったと。この手一つで育てなくて、よかったと。
こんな風に、自分の言葉に振り回される生き物なのだと。スタシアの様子に思い知るのだった。
大陸歴 1540年
エヴァンシークを戦場に送り出してから、三ヶ月。年が明け、遠く国境から一報が届く。
曰く、エヴァンシークが功を成し、ハイマールを手中に収めたと。
「へぇ」
もともと、アカデミーの成績次第では、騎士団の幹部候補もありえたという話だ。信じられないとは言わないけれど、武術はからっきしのレオンセルクからすると、我が子が何故とは思ってしまう。
先代の昏君、レオンセルクの父親、つまりエヴァンシークの祖父も武に長けた方ではなかったし、エレオリアだってそうだ。ではレオンセルクのこの性質はいったい誰から受け継いだのか。
突然変異という説もあるけれど。あとは育った環境だとか。しかし頭は良いとのことだったから、そこはちゃんとレオンセルク似らしい。
そこに、また別の書状が届いた。
神聖王国の王太子、リンクィン第一王子。
彼が、レオンセルクに会いたい、と。
へぇ、とレオンセルクがその書状を眺めていると、どこからわいて出たのかスタシアが後ろからそれを覗き込んでいた。
険しい表情で、眉をひそめる。
どうしたの、とレオンセルクが問うのに、少女は何も言わず首を振った。




