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17.呼び声が、きこえたから。


 大陸歴 1524年 初春



 窓の外では、雪がやんでいた。

 いつだって降り続いている雪だというのに、まだ、雪の止む季節には半年近くも早いというのに。

 それは、数年してから思い返した時、何かの暗示のようだったのだと誰かが言う。春を呼ばないまでも、そのきっかけをもたらす予兆だったのだと。

 近い未来に、春がやってくるという、予兆だったのだと。

 暗い廊下を、進む。今夜なのだ。今夜、愛する人の未来が決まる。


 今日を乗り切れば、ずっといっしょにいることができる。


 だって、病はきっと治せるから。

 だから、今日さえ、越えることができれば。




 新しくこの世に生まれ落ちた魂の泣き声に、ルティーカは耳を澄ます。

 たらいの水を沸かし直し、主の部屋へ戻る途中だった。静かではあっても、確かに響いた歓声を耳にする。自然足は速まり、慌てすぎたあげくに音を立てて入室した。

「陛下! おめでとうございます!」

 後宮に勤める侍女の中でもさらに選び抜かれた人選、ほんの数人しかいない室内での、満ちる祝福の声を聞きながら、叫びだしたい衝動をこらえる。運んできたお湯のはったたらいを、誰ともわからず押し付ける。

「おめでとうございます!」

 祝福の声が響く。

 泣きわめく赤子を抱く産婆のすぐ傍ら、寝台に横たわる主の姿に、こらえきれず悲鳴をあげルティーカは駆け寄った。

「姫様、ひめさま!」

「どいて」

 普段柔らかい分厳しく聞こえる声音に、ルティーカははじかれたように飛び退いた。

 なんの知識も持たないルティーカは、レオンセルクの背中をただ見守ることしかできない。


『全てを話すから、全て覚えてくれるか』


 いつの日かの、穏やかな姫君の声が耳元でよみがえる。


『あたしに万一のことがあった時、全てをレオンセルクに伝えることができるように。ルティーカに全てを話すから』


 いやですわと、ルティーカは首を振ったのに。

 エレオリアは優しく微笑んで、全てを語った。


 信じなくても良いと、姫君は言った。

 ただ、伝えてほしいのだと。



「ひめさま」



 ルティーカには、祈ることしかできなかった。







 温かな暖炉の光、時々ぱちりと薪のはぜる音が響く。外は埋もれる程の豪雪の中、この部屋はまるで楽園のように温かな光に満ちていた。

 ルティーカすぐ側に控える中、エレオリアとレオンセルクは額が触れるほど顔を寄せて、くすくすと笑う。


「考えたんだけど」


 レオンセルクの言葉に、エレオリアは続きを待つ。皇帝は照れくさそうに唇をゆがめて、もごもごと続ける。


「女の子なら、『エルアン』なんて、どうだろう」


「なら、男の子なら『エルアンセルク』だな」


 エレオリアの即答に、レオンセルクは瞬いた。一拍後には、今は女の子の名前を考えているんだよ、とむくれてみせる。そうしてすぐに、「僕の名前に似せた?」と嘆息した。


「ろくな大人にならないから、なしだよ。なしなし」


「『エルアン』という名だって、あたしの名の音を拾っているだろう」


「女の子は母親の名前に似せる方が幸せなんだよ」


 どういう基準だ、と口では呆れて見せているのに、エレオリアは心底幸せそうな表情をしていた。


「エルアンセルク、良い名じゃないか。『エルアンセルク・ヴェニエール』」


「……それだと、エルアン、って。エル、って、呼んだ時、女の子みたいじゃないか」


「そうかもしれない。それなら?」


「……エヴァンシークがいい」


 エレオリアは瞬いた。


「……男の子なら、エヴァンって呼ぶ」


 照れ隠しだろうか。唇をゆがめたままの、けして素敵とは言えない表情で、レオンセルクは呟いた。なんとなしにその様子を見て目を見張り、エレオリアは破顔する。


「エルアンセルク。エルアンシーク。エヴァンセルク。エヴァンシーク。……エヴァンセルクじゃだめなのか?」


「くどいなー。そのまま僕の名をあげたらろくな大人にならないって言ってるでしょ」


 そう返されるのが分かっていたかのように、エレオリアはくすくす笑う。


「それなら、あたしはいつか言おうかな。『お前の名前は、父がつけた名前なんだよ』って。レオンがエヴァンって


呼ぶなら、あたしはセルクって呼ぼうかな」


「何言ってるの紛らわしい。言わなくて良いよ。決まってないし。エレオリアがいっしょに考えようって言ったんでしょエリだってちゃんと考えて」


「リオノレア、レオリエ、いろいろ考えていたけれど、エルアンの方が良い。あたしはそちらが気に入った」


 リオノレアもレオリエも、僕の音が入ってるじゃないか。

 そんなことにこだわるな。父親は、あなただろう。




 呆れた声、けれどやはり、幸せそうな顔で。

 見ているだけで、強く祈らずにはいられない。



 ルティーカの仕える主たちは、確かに幸せそうだったのだ。ルティーカが初めてレオンセルクに出会ったのは、二年前。その時関わったのはほんの数日で、側に仕えるようになった時間は、エレオリアに仕えるようになった時間とさほど変わらない。むしろ、エレオリアとの時間の方が長いだろう。

 けれど、あの頃、あの皇子様が、こんな表情を浮かべることなど想像もしなかった。




「エレオリア。聞こえる? エレオリア」


 赤子の泣き声が響く中、処置する手を止めることなくレオンセルクが呼びかける。


「エヴァンだよ。エレオリア。エヴァンシークだ」


 産まれた子どもは男の子だよと、レオンセルクが囁く。


「分かってる。境にいるね、エレオリア。早くこっちに戻っておいで。その腕で、はやくエヴァンシークを抱きしめて」


 消耗しているエレオリアの身体が、胸が、呼吸によって上下する。朦朧とした様子でありながら、声を発した。

「ぅ、は……」

エレオリア、とレオンセルクが希望を見たように瞳をきらめかせエレオリアの頬に手を添える。顔に張り付く髪をよけてやりながら、聞こえた続く言葉に、凍り付いた。


「まんぞく、か……」


「エレ、オリ……?」


 満足か、と、エレオリアは言ったのか。

 息を詰めて、先ほどのか細い声がレオンセルク以外の耳に入っていないか視線を巡らせる。

 産まれたばかりで泣きわめく赤子の世話のため、エレオリアの周囲を清潔に保つため、侍女たちは大わらわで、こちらに気がついた様子はなかった。

 ただひとり、見慣れた栗毛の侍女だけが、蒼白な顔をしてこちらを見ていた。


「エレオリアは僕が診る。皆は部屋を出てくれるかな」


 唐突な言葉にその場にいた数人の侍女は「は、」と動きを止め、高い声で返事をし、ぱたぱたと部屋を出て行く。その時赤子を抱いていた侍女が、どうして良いか分からず停止しており、それを目にしたレオンセルクは「あぁ」と声を上げた。


「ルティーカ、エヴァンシークを」


 退室しかけていたルティーカは、小さくうなずいてエヴァンシークを抱き、室内にとどまる。視線に促されるようにして、最後の侍女が部屋を出る。


「あなたは、ここで見聞きしたことは他言無用という約束で呼んでいるのだったな」


 産婆は深く頭をたれた。

 部屋に残ったのは、レオンセルクとルティーカと、産婆と、そして、寝台に横たわるエレオリアのみ。

 レオンセルクは、さらにそっとエレオリアへと顔を寄せる。

 うわごとのように、彼女は「まんぞく、か……、まんぞくだろう」と繰り返していた。エレオリア、とレオンセルクは呼びかける。


「それは僕に言っているの」


 ひどく静かな声で、レオンセルクは呟いた。ルティーカには、皇帝陛下が途方に暮れているように見えた。


「これいじょう、あたしに、なにをのぞむんだ……」


「エレオリア」


 お願いだから、僕の問いに答えて。

 エレオリアの目が開かれる。ひと筋、その頬を涙がつたった。

 瞳は虚空を見つめ、不吉なほどにはっきりとした口調で言葉を紡ぐ。


「伯爵家は、遠く神聖王国王家の血を継いでいる。遠くとも、それは間違いないんだ。その血がこの国の帝室と混ざった。あなたの望みはそれだったんじゃないのか。これ以上、なにを望むというんだ」


 レオンセルクが息をのむ。


「なぜ、そんな話をあたしに聞かせたりしたんだ。忘れていたのに、忘れていたかったのに」


 姫様、と寝台に取りすがったのはルティーカだ。


「信じます、お願いです。姫様、お願いです。帰ってきてくださいませ。姫様、ひめさま。わたくし信じます。あなたが見ているもの感じているもの全てをわたくしも背負います。だから姫様、どうか」


 気付けばルティーカの剣幕などおかまいなしに眠っているエヴァンシークを抱きしめて、この一年半の間エレオリアに付き従っていた侍女は呼びかける。



「神様、お願いです。エレオリア様を、どうか」



 エレオリアが、じっとルティーカを見つめる。焦点の合わなくとも、向けられている視線に気付いて、ルティーカが「あぁ」と片手で口をおおった。「エレオリア!」と反対側からレオンセルクが身を乗り出す。

 す、と、エレオリアの視線がレオンセルクを捉える。


「……れ、おん」


 一言、呟いた。そして、その唇が弧を描く。



「この腕に抱くまで、死なないと言っただろう」



 いつかと同じ言葉を紡ぎ。

 エレオリアは、微笑んだ。





読んでいただきありがとうございます!





 エレオリアは、強い娘です。

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