12.これはけして、悲劇なんかじゃないはずだ。
「雪原にこぼれたしずくを、すくいあげたかったんだ」
最初は、ただ、それだけだったのだと。
エレオリアが眠っていると思っているのだろうか、亜麻色の髪の男は、そう言ってエレオリアの髪をすいた。
閉じている目を開くことも出来ずに、エレオリアはただ男の声を聞いていた。
レオンセルク。最中に問いつめてようやく教えてもらえた名前も呼べぬまま。
エレオリアの同意をもなく傷つけたことを、この人は許せないだろう。きっと今、後悔している。
馬鹿な人だな、と思いながら目を閉じる。あらがうことも出来ぬほどあっさりと。エレオリアの髪を撫でる手の、その心地よさに意識を落とした。
次に目覚めた時は、自室の寝台の上だった。「なんてこと……」侍女の悲鳴に視線を向ければルティーカが身体をわなわなとふるわせ、怒りの表情をしているのがわかった。るてぃーか、と名を呼ぶと、目覚めたエレオリアに気付いて、彼女は寝台の傍らに膝をついた。
「ああ姫様!! あのコウテイヘイカさま、なんて、なんてことを。わたくし、そんなつもりでは」
いいんだ、とエレオリアが言うのに、よくありません! ルティーカはと叫ぶ。こんな、つもりでは、とルティーカが顔を覆った。
「わたくし、陛下は、陛下は本当に、お医者様として姫様についているのだと」
軽率でした、なんとお詫びをしていいか。
そう言ってひれ伏すルティーカにどんな言葉をかければよいのか、エレオリアには判断がつかなかった。
気にしなくて良い、と言ったところで、この娘は受け入れない。それはそうだろう。たしかに、侍女がしたことによってエレオリアの身に起きてしまったことは取り返しのつかないことだ。
身体はだるく、恐らく発熱もしている。きっと、これからしばらく寝込むことになると思いながら、考える。ここにきてから半年、側に仕えてくれている侍女は、ルティーカとシエラの他にもう数人。その中で主だって仕えてくれているのが、先にあげた二人だった。
ルティーカはエレオリアの心情を読み取りすくいあげてくれることが多く、シエラはエレオリアの顔色を読み取り体調を伺う事に長けている。
この熱っぽさも、シエラと顔を合わせてしまえばすぐに気付かれるに違いなかったが、生憎ルティーカはそちらの機微には疎かった。
身体はだるく、熱っぽい。けれど、このまま目を閉じるのはどこか拒まれた。心のどこかが、それを強く拒否している。
シエラに見つかれば、厳しい視線で制されるだろうなぁと思いながら、エレオリアはルティーカを話し相手に定め、そっと唇を開いた。
「……初めて、あの人にあった時」
呟きは小さく、ルティーカの返事はなかったが、彼女は伏せていた頭をおずおずとあげ、エレオリアを見つめた。
昔話を、聞いてもらおう。あの時、あの瞬間、エレオリアがどんな気持ちを抱いたか。
そうすれば、今のこの気持ちも、ルティーカはきっと納得してくれる。
彼女が気に病むことは何一つないのだと、分かってくれるだろうから。
初めてエレオリアがあの人に会った時。言葉をいくつも交わさぬまま、抱き上げられて外に出て、外の世界を、見せられて。
覚えているのは、雪の降っていない美しい雪原と、それ以上に心に残っているのは、この国に注がれる男の眼差しだった。
あの男は、この国を愛しているのだと知った、あの瞬間。
エレオリアは、自身が何を思ったのか、うまく思い出すことが出来ない。ただ驚いて、ただ、楽しくて。
そうして、毎日のように男が顔を出すようになって。
最初は会話もなく、けれどしばらくして、言葉を交わすようになって。あぁ、あれはいつだっただろうか。男の大したことのない問いかけに、エレオリアがなんでもないことだと答えたら、男が持っていた書類を落としたのだ。それを拾ってやって、目が、あって。
不思議な色をしたあの瞳から、目がそらせなかった。
あの時、心の中で何かが音を立てて落ちたのを、エレオリアは覚えている。
部屋を出て行こうとする男に、またくるか、と尋ねずにはいられなかった。
明日もあいたいと、あいにきてほしいと、エレオリアは思ったから。
面白かったよ、とエレオリアはルティーカに微笑む。
「あの男は、まるであたしに恋しているみたいに振る舞うから」
心を寄せている相手のその態度というのは、何とも愉快なものだった。それはとても心地よく、安らかで、世界のすべてがよりいっそう愛しくなった。
何も語らない男だったけれど。
何を考えているのかも、どんな風に生きてきたのかも、なにも。名前さえも問うことの出来ぬまま。
言葉を交わして、時折抱きしめられて。そうしてある日突然、エレオリアは男の手でここへ連れてこられることとなって。
「ここにくることになった時は、どうとでもなれ、と思った」
研究対象かなにかにしか見られてないと知った時は、それなりにがっかりしたけれど、求められていると思えば、大した違いではなかった。
男がいれば、それでいいか、とさえ思った。
「あたしは、普通と同じように生きていくことはもう、できないから」
例え病が治ったとしても、ニルヴァニア王国貴族の娘としての人生は、もう歩めないから。だから。
「あの人は、あたしだけのものには、けしてならないだろう。けれど、でも、あたしの全部は、あの人のものになれる。あたしの残りの人生は、全部、あの人のものにできる」
そう思うと、胸がいっぱいになった。そんな人生があるのかと、何の価値もなく、終の住処で消えることもないのかと。
言葉を切って、エレオリアは苦笑した。
「こんなことを言えば、あたしの人間性が疑われると分かっているけど、伝えなければあなたはずっと気にやみそうだな……」
疑問符を浮かべるルティーカに、エレオリアは苦く笑う。こういうことは、あまり口にするべきではないのだけれど。と、もぞもぞと上体を起こし、寝台の上で膝を抱えた。膝頭に手をおいて、自分の指をじっと見ながら、エレオリアは小さな声で言う。
「幸せだったよ」
ルティーカは瞬いた。
「とても、幸せだった。死にたくなるくらい、泣きたくなるほど」
「ひめさま」
侍女の声は震えていて、何か問いかけを抱えているのが分かったけれど、エレオリアはそっと人差し指を立て沈黙を求めた。
「あの人にされたことで、あたしは傷ついてなどいないんだ。あなたの働きかけであの夜、あの人に会いにいけたことは。そこで起きたことも、あたしにとってむしろ、幸いでしかなかった。あたしの身に起こるはずのない、幸福な出来事だった」
だって、あたしはあの人のものになれたから。
嘘ですわ、とルティーカは首を振る。たとえそれがエレオリアにとって結果的に幸福感を抱かせたことであったとして、恐ろしくなかったはずがない。
現に今、エレオリアは震えている。
恐ろしかったに、決まっているのだ。起こるはずのなかった出来事だと言って、だからそれは幸いなのだと本人は言うけれど。そんな単純なものであるはずがない。
ルティーカの眼差しに弱く笑って、ただ一つの心苦しさは、と呟く。
「あの人に、何一つ告げることができないのが、少し辛い」
「何をですか」
告げるルティーカの声音は厳しかった。なぜ、なぜ、なぜ、とルティーカは目の前の姫君を怒鳴りつけたくなる。
それは自分がしたことで仕える姫君の身に起きてしまったことの後悔で、八つ当たりだったけれど。だからルティーカには、思うままエレオリアを怒鳴ることなど許されなかった。
分かっているくせに、とエレオリアは微笑む。エレオリアがこの城にきて半年。ルティーカは、ずっと側に控えていたのだ。
何を告げることができないのか、という問いかけに、エレオリアはわかっているくせに、と微笑んで。
そうして、問いかけには答えずに。
「あたしはどうせ、すぐにここから姿を消してしまうのだから」
「いいえ」
間髪入れぬ応えに、エレオリアは何の反応も示さない。まるでルティーカが即答するのを分かっていたかのように。言葉を交わすようになったのは、ここ数日の話であるというのに。
それでもルティーカは、エレオリアを否定した。
「姫様の病は、皇帝陛下が、治します。かならず」
「だとしても」
どこを見るでもなく、宙を見つめるエレオリアに、ルティーカの背筋が寒くなる。
ふんわりと微笑んで、エレオリアはそっとまぶたをおろした。
「神様が、いるのだと言ったら、あなたは困るだろうなぁ」
何を、仰るのです、と笑い飛ばそうとしたルティーカの言葉は、かすれ、言葉尻も地に落ちるように消えてしまった。
そう、神様。
誰かを探している、神様。
その神様は、死を司ると自分で言った。
だから、そんなの、逃れられるわけがなかいんだ。
読んでいただきありがとうございました!
無事帰ってこれたので、更新です。
つい侍女をひいきしてしまいます。ルティーカについてはまたこれから掘り下げたい。
ところで私これジャンル文学にしてたんですね。恋愛のつもりでした設定ミスでした。
今更感もある上に、恋愛ものというにはちょっとお話の成り行きに不安が残りすぎるので、変更無しでこのまま行きます。
お話もちょうど中頃でしょうか。あと少しでかな。ぽつりぽつりと頑張っていきます。




