第5章 囮
牢から出されたのは翌日の昼だった。
衛兵に連れられて沐浴室へ行き、囚人服を脱いで、用意された部屋着に着替えた。鏡の中のリュシアは、思っていたより顔色が悪かった。目の下に薄い隈があり、頬が少し削げていた。五日間、ほとんど眠れていなかったのだから当然だ。
クラウスとは、昼に一度だけ作戦の確認のため顔を合わせた。
簡潔で、無駄がなかった。騎士は七名、客間の外廊下と窓の外の植え込みに潜む。侵入者を確認次第、合図とともに踏み込む。リュシアは合図が鳴るまで寝台の上で動かないこと。
「怪我をさせるつもりはない」
クラウスは地図を畳みながら、付け加えるように言った。
「……はい」
「しかし、万が一の状況が生じた場合は、床に転がれ。頭を抱えて動くな」
「わかりました」
「怖いか」
クラウスの唐突な問いに、リュシアは目を瞬いた。
リュシアは素直に答えた。
「怖いです……でも、濡れ衣のまま死ぬよりはましです」
クラウスは何も言わなかった。しかし、視線が少しだけ変わった気がした。何が変わったのかは、リュシアには言葉にできなかった。
* * *
暗殺の前夜、リュシアは眠れなかった。
当然だ、と思う。明日の夜、本物の暗殺者がこの部屋に入ってくる。自分はその間、寝台に横たわっていなければならない。騎士たちが間に合えば助かる。間に合わなければ——
考えるな、とリュシアは自分に言い聞かせた。
考える代わりに、星を読もう。
窓に近づいた。北向きの窓の鍵を静かに開け、外の夜気を顔に受けた。月は細く、星が多い夜だった。雲ひとつない。星を読むには、良い夜だ。
窓枠に手をかけ、夜空を仰いだ。
目を閉じる。
処刑前夜の牢とは違い、今夜は窓がある。外の空気がある。星の声が近かった。瞼の裏に夜空が広がるまで、時間はかからなかった。
星が動いている。
ソルムの光が、今夜は昨晩よりわずかに明るい。クラウスが騎士を手配したからだろうか——そんなことを、リュシアはぼんやりと思った。星は術者の知っていることと繋がる、と母は言っていた。知識と星の声が交差する場所に、本当のことが見える、と。
しかし次の瞬間、リュシアは息を飲んだ。
自分が、見えた。
寝台の上に横たわるリュシア。北向きの窓から滑り込む影。廊下から踏み込む騎士たち——しかし、そこに一瞬の齟齬があった。ほんの数秒、刃が先に動く。
消える未来ではなかった。
変えられる未来だった。
リュシアは目を開けた。冷たい夜気が頬を撫でた。心臓が速く打っていたが、頭は妙に冷静だった。
騎士の踏み込みが、数秒遅れる。
そうならないようにするには——合図をもっと早くする必要がある。侵入者が全員窓を越えてから合図を出す手はずになっていたが、最初の一人が越えた時点で出せばいい。クラウスに伝えなければ。
リュシアは窓を閉め、扉へ向かいかけた。
しかし廊下には衛兵がいる。深夜に勝手に動けば、警戒させてしまうかもしれない。
どうする。
考えろ。
リュシアは寝台に腰を下ろし、膝の上で手を組んだ。震えていた。怖い。怖いのは当然だ。だからこそ、怖さに任せて動いてはいけない。
夜明けまで待って、クラウスが確認に来たときに伝える。それが確実だ。
合図の変更、伝えられるか? 伝えられなかったら?
——そのときは、自分で早く出す。
リュシアは顔を上げた。
星が視えたということは、変えられるということだ。自分が殺される未来を視たのではなく、変えるべき一点を視せてもらったのだ。
母が言っていた。星は運命を告げるのではなく、道を示す。どう歩くかは、いつも人間が決める。
ならば、動く。
怖くても、自分で動かなくてはダメだ。
リュシアは布団を被り、目を閉じた。今夜は眠れなくてもいい。ただ、明日に備えて体を横たえて、少しでも休ませよう。
リュシアは、心を落ち着かせるために深呼吸を繰り返した。
すると、眠れないと思っていたが、不思議と意識が遠のいていった。
星に委ねると、こんなにも楽になるものか——そう思いながらリュシアの意識は沈んでいった。
* * *
翌朝、クラウスが確認に来たのは早朝だった。
リュシアは扉が開く音で目を覚ました。薄明かりの中でクラウスの顔を認識し、すぐに起き上がった。
「合図の時機を変えてほしいのです」
おはようございます、という挨拶より先に、言葉が出た。クラウスは一瞬眉を動かしたが、すぐに「話せ」と言った。
リュシアは昨夜視たものを説明した。侵入者が全員揃ってから合図を出す手はずでは、踏み込みが数秒遅れる可能性がある。最初の一人が窓を越えた時点で合図を出してほしい。
「残りが外にいれば、逃げるかもしれない」
「窓の外の植え込みに潜んでいる騎士が押さえます。少人数でも、実行犯が捕まれば首謀者への糸口になるはずです」
クラウスは腕を組み、しばらく考えた。
「……昨夜、もう一度占ったのか」
「はい」
「そこまで視えるのか」
「視えました」
断言した。以前の自分なら、「視えた気がします」と言っただろう。しかし今は違う。
クラウスはリュシアを見た。値踏みするような視線ではなかった。別の何かを確かめているような、静かな視線だった。
「わかった。合図の手はずを変える」
それだけ言って、クラウスは扉へ向かった。
ドアノブに手をかけたところで、足を止めた。
「よく眠れたか」
振り返らずに、問うた。
「少し、眠れました」
「そうか」
それだけだった。しかしリュシアは、その短い言葉の中に、何かが含まれていた気がした。何かが、とは言えない。
ただ、クラウスの目は冷たくはなかった。
* * *
夜が来た。
リュシアは寝台に横たわり、布団を顎まで引き上げた。目を閉じている。しかし眠っていない。全身の神経が、部屋の隅々にまで張り巡らされていた。
廊下の物音。窓の外の風。遠くで鳴く夜鳥の声。
どれが騎士の気配で、どれが風の音か、暗闇の中で聞き分けようとしていた。
時間が経った。
どのくらい経ったか、わからなかった。深夜の時間は延びる。一刻が一晩のように感じられた。
そのとき。
窓の外で、微かな音がした。
布を擦るような、人が動く気配。
リュシアの全身が強張った。
来た。
窓が、静かに開き始めた。
鍵は、昼のうちに緩めてある——クラウスの指示だ。外から開けやすくして、侵入者を引き込む。リュシアはそれを知っていたが、実際に窓が動き始めると、胸の奥から冷たいものが這い上がってきた。
息を、ゆっくり吐く。
最初の影が、窓枠を越えた。
今だ。
リュシアは布団を蹴って起き上がり、寝台の頭部に取りつけられた紐を引いた。廊下の外で鈴が鳴る——作戦の合図だ。
一瞬の静寂。
そして扉が蹴破られた。
* * *
松明の光が室内を満たした。
「王宮騎士団だ、動くな!」
声が轟き、重い靴音が床を叩いた。リュシアは寝台から転がり落ち、床に伏せた。頭を両手で抱え、クラウスに言われた通りに動かなかった。
剣戟の音。誰かが叫ぶ声。何かが倒れる音。
どのくらいの時間だったか——数十秒か、あるいは一分か——やがて室内が静かになっていった。
「終わったぞ」
低い声が言った。
リュシアは顔を上げた。
部屋の中に、覆面をした男たちが五人、騎士に取り押さえられていた。全員が床に伏せさせられ、手を縛られている。窓から入りきれなかった二名は、外の植え込みで別の騎士に捕まったと、騎士のひとりが報告した。
リュシアは立ち上がろうとして、膝がガクガクと笑うのを感じた。
座り込みそうになるのを、なんとか踏ん張って自分で立った。
* * *
騎士たちが暗殺者を連行し、室内が片付いた後、クラウスがリュシアに歩み寄ってきた。
「怪我は」
「ありません」リュシアは答えた。
「予言通りでしたか」
「ほぼな」クラウスは短く言った。「合図の手はずを変えたのが功を奏した。全員捕縛できた」
リュシアは口の端が緩むのを感じた。笑いたいのか泣きたいのか、どちらかわからなかった。
「これで、私の疑いは晴れますか」
「審問にかける。しかし、実行犯が捕まった以上、首謀者への道は開ける。君が無実であることは、遠からず立証される」
遠からず。
今すぐではない。それでも、出口が見えた。リュシアにとっては初めて見える出口だった。
「……ありがとうございます」
「礼には及ばない。検証に値すると判断しただけだ」
昨夜と同じ言葉だった。しかし声の質が、少し違う気がした。昨夜より、わずかだが——柔らかかった。
気のせいではないといいな、とリュシアは思った。




