第4章 取引
宰相府の執務室で、クラウス・ベルシュタインは調書を閉じた。
卓上の燭台が静かに揺れていた。深夜の執務室には他に誰もいない。クラウスはひとりで働くことを好んだ。部下が揃っているときは決裁と指示に時間を取られるが、夜中は純粋に考える時間を確保できる。
二十八歳の宰相は、感情を顔に出さないことで知られていた。
周囲はクラウスを「石の宰相」と陰で呼ぶ。
怒らない、喜ばない、褒めない。
そういう男だった。
若くして宰相の座に就いたのは情実でも名家の後ろ盾でもなく、純粋に結果を出し続けたからだ。感情を排し、数字と論理だけで政を動かす。それがクラウスだった。
しかし今夜は、眉間に僅かな皺が刻まれていた。
調書をもう一度開く。
被疑者:リュシア・アストレア。
十七歳。
卜部付き占星術師。
王宮勤続半年。
身分:アストレア子爵家。
同僚なし。
宮廷内における人脈:なし。
後ろ盾:なし。
なし、なし……。
「なし」が並ぶ調書は、クラウスの経験では二種類に分かれる。本当に何も持たない無力な者か、あるいは驚くほど巧みに痕跡を消した者か。
暗殺計画とは、金と人脈の産物だ。誰かに依頼し、経路を確保し、情報を流す。半年前まで占星術の修業をしていた十七歳の娘が、いつそのような人脈を構築したのか。王太子を殺して何の利があるのか。動機の欄は「婚約妨害による地位維持」と書かれていたが、暗殺によって地位が維持できるという論理は、どこにも繋がっていなかった。
クラウスは調書を机の端に置き、別の書類を引き寄せた。
三日前、王都の外れで不審な馬が十頭以上確認されたという衛兵からの報告書だ。馬の所有者は特定できていない。用途も不明。しかし逃走経路の準備と考えると、規模と時期が妙に合う。
さらに一週間前、宮内府から出た不審な金の動きについての内部報告。受取人は特定されていないが、経路が通常の経費処理と異なっていた。
リュシア・アストレアには、このいずれとも繋がる接点がない。
では、誰が繋がっているか。
クラウスは燭台の炎をしばらく見つめ、立ち上がった。外套を手に取り、燭台を消す。
疑問は、一つ一つ納得するまで調べるしかない。
* * *
地下への石段を降りながら、クラウスは牢番に松明を持たせて先を行かせた。
冷えた空気が上着の内側に滑り込んでくる。石の壁は湿気を帯び、松明の光が不規則に揺れていた。
ここを訪れた目的は単純だ。
リュシア・アストレアが調書通りの人物かどうかを、直接見て確かめる。
それだけだ。
牢の前に立ったとき、クラウスは歩みを止めた。
格子の向こうで、少女は床に膝をついていた。
暗闇の中に、青みがかった静けさが漂っていた。少女の周囲だけ、空気の質が違うように見えた。
吐く息が白く、規則正しく流れていた。目は閉じられ、唇が微かに動いている。両手は胸の前で組まれ、まるで祈りの形をとっているが、祈りとは少し違う。もっと能動的な、何かを読み取ろうとしているような緊張がその細い背中に宿っていた。
松明を持った牢番が格子を叩いた。
金属音が地下に響き、少女の肩が小さく揺れた。ゆっくりと目が開く。
クラウスは少女の顔を観察した。
静かな瞳だった。
しかし、その中に戸惑いとも怯えともつかない揺れを秘めていた。
「宰相閣下」
少女の声は、震えていなかった。
それだけで、クラウスは評価を一段階上げた。
「アストレア嬢。夜分に失礼する。少し話を聞きたい」
「明日が処刑の朝なのはご存じでしょう。夜分もなにもないかと」
皮肉を言える余裕がある。あるいは余裕があるように見せているのか。クラウスには判断がつかなかった。それだけで、この娘は調書の印象とは異なっていた。
「手短に済ませよう」
クラウスは格子に歩み寄り、少女を正面から見た。「今、何をしていた」
少女は一瞬だけ躊躇い、それから真っ直ぐに答えた。
「占星術を」
「道具も星図もなしで?」
「本当の占星術には、必要ありません」
自信、ではなかった。しかし確信があった。その差は大きい。自信は他者への誇示を含むが、確信は内側から湧くものだ。クラウスはこれまで多くの人間と対面してきたが、この区別を十七歳の娘に感じるのは珍しいことだった。
「何が視えた」
少女の目が、真っ直ぐにクラウスを捉えた。
「王太子殿下が、明後日の夜に暗殺されます」
* * *
沈黙が落ちた。
クラウスは表情を変えなかった。しかし内側では素早く計算を走らせていた。この発言の意味するところは三つ。
第一に、この少女が本当に暗殺計画の共謀者であり、内部から情報を持っている。
第二に、精神的に追い詰められており、妄言を言っている。
第三に——
「根拠を話せ」
第三の可能性を、まだ排除しないために、クラウスは問う。
少女は語り始めた。
「ソルムが隠の宮でクロノスに封じられております。王権を持つ者への死の予兆です。イグニスが栄宮で燃え——権力への直接的な攻撃を意味します。日付は明後日の夜。場所は王太子殿下の寝室、北向きの窓から。侵入者は五名ほどかと」
クラウスは聞きながら、記憶と照合した。
占星術は専門外だ。しかし王太子の寝室の構造は知っている。北向きの窓は確かに存在する。そして三日前に掴んだ不審な馬の報告——逃走経路の準備と考えると、時期が合う。宮内府の金の動きも、規模から考えると五名以上の人間を動かす費用に相当する。
占星術の結果と、自分が別々に集めていた情報が、奇妙な形で重なっていた。
クラウスは、その一致を論理的に整理した。
可能性その一。この娘が実際に暗殺計画を知っており、それを「占いで視た」と偽っている。しかしその場合、計画の共謀者がなぜ自ら告発するのか。自分の命が翌朝に尽きるからか。あり得なくはないが……弱い。
可能性その二。偶然の一致。しかし複数の情報点が一致している状況を「偶然」と片づけることは、クラウスの論理には馴染まない。
可能性その三。この少女の占星術が正しい。
クラウスは長いあいだ、正面の少女を見つめた。
少女は視線を逸らさなかった。
「信じない、とは言わない」
クラウスは格子越しに言った。「検証する価値はある。しかし確かめるには時間が必要だ。明日の処刑を延期するには、それ相応の条件が要る」
少女は頷いた。まるで、この展開を予期していたように。
「私を、王太子殿下の囮にしてください。そのために、明日の処刑を延期にしてください」
クラウスは僅かに眉を動かした。
「聞き違いか」
「お聞き違いではありません。殿下の寝室に私を置いてください。暗殺者が忍び込んだとき、あなたの騎士たちで取り押さえればいい。実行犯を生け捕りにすれば、私の無実が証明されると同時に、首謀者への道も開ける。双方にとって得のある取引かと」
クラウスは少女を見つめた。
隠しているが、目の奥が微かに揺れていた。恐怖はあるのだろう。しかし声は乱れず、論理は整っていた。
十七歳の少女が、自分を囮にすることを条件として宰相と交渉している。
「殺されるかもしれないんだぞ」
「処刑されるよりはましです。少なくとも、意味のある死にはなる」
意味のある死。
クラウスは少女から目を離さないまま、短く息を吐いた。
この少女は怖いのに、論理を手放さない。感情を隠しているのではなく、感情と論理を同時に持っている。それが、クラウスには珍しく感じられた。多くの人間は、極限の状況では論理か感情のどちらかを失う。
「……わかった。条件を飲もう」
クラウスは格子から一歩引いた。「処刑は延期する。騎士の手配は私がする。ただし、君は私の指示に従ってもらう」
「はい」
少女は頷いた。それから少し間を置いて、付け加えた。
「信じていただけるとは思っていませんでした」
「信じたわけではない」
クラウスは外套を直しながら答えた。「検証に値すると判断しただけだ」
少女は何も言わなかった。
クラウスは踵を返し、石段へ向かった。
一段、二段と登りながら、頭の中で計算を続けた。騎士の配置、時間、想定される人数——整理すべきことは山積みだ。
しかし計算の端に、どうしても収まらないものがあった。
格子の向こうで少女が膝をついていたとき、あの青みがかった静けさは何だったのか。
松明の揺れのせいだ、とクラウスは結論づけた。
それ以外の答えを、今の自分には持てなかった。




