最後のブレーキ、水の音読
Kもまた心の中に宿るCの健気な仕事ぶりや
Jの面影に感情を支配されつつあった。
彼は”Jの葬式に行ってない”という不義理から
彼女に詫びなければという罪悪感に苛まれ
夜中にトイレに起きた時など
もしやこの暗闇の中に…とJの姿を探すほどに執着し始めた。
用を足し終えてダブルベッドに戻ると
頭の中にはJの幻影とCの姿が渦巻いて寝つきが悪い、
そうした日々が続いていた。
そんな時、隣で寝ているはずのTは決まって
夢と現の間のような気だるい声で
「K……愛してるよ…..」
と言う。
この言葉を聞いたKはもうひとつの大きな罪悪感を感じながら
「俺もTを愛してるよ…お互い明日早いから…おやすみ…」
と言って、優しくTの肩をポンポンと叩いた。
Tは美人なだけでなく謙虚にして高潔な女性で
そのことは、K自身により一層自分の罪深さを感じさせた。
彼女はどいういわけか、しばしばベッドの上で
Kに老子経の本の音読をせがんだ。
中でも第八章の、”上善水如”の話は彼女のお気に入りだった。
”真の善は水に似ている…”
KとTは共働きだがそんな中でも彼女はよくKに尽くす頑張り屋で
Kは感謝と同時にいたく申し訳ないとも思っていた。
Tは黙って淡々と家事をこなし
それを当然と考えているかのような平然とした顔をしている。
愚痴や不満を一切漏らさず、恩に着せることもない。
Tの人徳は慈雨のように彼を潤し自分を主張することなく
Kを癒し、生かし続ける水のようだった。
水や空気というものはとてもありがたく
またなくてはならないものだが
それが当たり前になってくると有り難みを忘れてしまう。
彼女がせがむ老子経の音読は激しく揺れ動くKの心の
最後のブレーキなのかもしれなかった。
2026年の仕事始めの日
オフィスで顔を合わせたKとCは
お互いに丁寧な年始の挨拶をして当日の業務をこなした。
まだまだ関係先の企業が年始休みの所も多く
この日は部署の多くのメンバーが定時で帰れそうだった。
CとK以外の全てのメンバーが退社し
オフィスには二人だけになった。
本当はCを夕食に誘って話がしたい。
だがKは自分の衝動を必死に抑えた。
もし最初の1歩を踏み出したらその歩みを止められなくなるだろう。
そうなってしまえば”水徳の人”、Tを悲しませることになる。
Kにとって、Tのような心の奥底まで美しい女神に背くことは
自然の摂理や宇宙の法則に対する冒涜であるとさえ思えた。
『Cさん、残りは俺の方でやれるから先に上がっていいよ』
さまざまな思いが複雑に行き来する中で
自分自身を振り切るようにKはCに退社を促した。
『Cさんは、ここから遠いんだっけ?』
「錦糸町なのでそこまで遠くはないんですけど・・・
駅からが遠くて…..帰り道にすっごい暗くて怖い道があるんですよ〜…
守 っ て く れ る 人 も…い な い の で …. . . . . . . . . .」
“!?…守ってくれる人がいない…?!”
この一言にKの心は再び
暴風雨に煽られた幟のように大きな音を立てて揺れた。
幟を張った竹の竿がいつ真っ二つに割れてもおかしくないほどに…。
意味深な言葉を発してしまった照れ臭さに
少しだけ顔を紅潮させて
Cはそそくさとオフィスを出ようとバッグを肩に掛けた。
出入り口のところまでささっと進んだところで
急に踵を返し神妙な顔をKの方に向けると
右手の人差し指と親指で
自分の顎を左右から摘むような動作を見せた。
この動作をするCを見たKは
自分の身体からスーッと血の気が引いていき
一瞬貧血のような眩暈に襲われた。
”私はあなたが好きです”
Cが見せた動作はこの言葉を手話で表した動作だ。
KとJの高校時代
他の生徒があちこちにいる校舎で
お互い違うクラスにいた二人は
廊下ですれ違ったり
向かいの棟のベランダにいるのを見かけたりする事があった。
その時に声を出さずに
この”顎を摘むような動作”をお互いにすることを
二人の決まりごとにしていた。
「お先に失礼します!」
Kの頭がクラクラしている間に
Cは深々と一礼してオフィスをあとにしていた。
Kは自分の席に座って首を激しく左右に振り
必死に我に帰ろうとした。
Cと自分の現在の関係性で、この動作をするはずが無い。
冷静さを失ったKは
『J!!、いるんだろう?!、見てたんだろう?!この一部始終を。。。』
Kの咆哮が空っぽのオフィスに響いた。




