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「お帰りなさい。……何かわかった?」
期待を込めて言ったマリエールに、ユリシスは申し訳なさそうに眉尻を下げる。そうして、首を軽く横に振った。
「何も。知らない人ばかりだったよ。ごめんね、せっかくマリエールが教えてくれたのに」
言いながらキッチンに入ってきたユリシスは、甕から掬った水で手を洗う。その整った横顔を眺めながら、マリエールは肩を落とした。
「そう。旅人さんなら、何かわかるかと思ったんだけど……」
ユリシスと暮らし始めて数日。マリエールとヘルは、村人に事情を話し、ユリシスを見知ったものがいないか、あるいは何か知っていることはないか、尋ね聞いてまわった。けれどいまだ有力な情報は得られておらず、ユリシスの記憶も戻る気配はない。
今朝は裕福そうな旅人が隣村の宿屋に泊まっているときいて、ユリシスはひとり向かってみたのだけれど。結果は現状通り、芳しくなく、マリエールは頭を悩ませる。
「やっぱり、私もついていけばよかったわ。他に聞けることがあったかも」
「僕が道を覚えたかったんだよ。気にしないで」
ユリシスが柔らかく微笑んで、マリエールの差し出したハンカチを礼を言って手に取り、丁寧に拭いていく。そんな仕草さえもどこか洗練されていて、マリエールはやはり、彼はきちんとした教育を受けたお金持ちの家の子なのだと確信した。なのにそれらしい人に聞いてみても、みんな彼を知らないと言う。どうしてだろう。
「……森の向こうからきたんじゃないか」
ぽつりと言ったヘルの言葉に、ユリシスが微かに目を細める。彼のうつくしい灰藍色の瞳は、黒く長いまつ毛で縁取られていた。
ヘルはポケットから取り出した隣国の金貨に目を落とし、言う。
「おまえのそばに落ちてた。フェゴール国の金だ。おまえ、きっとこっちの人間じゃないんだよ。だからいくら探したって見つからない」
フェゴールといえば、深い森を隔てた先にある、歴史ある国だった。何代も続く王家が政権を掌握していて、けれどここ数年は治安がよくないとも、旅人の噂で耳にしたことがある。王家が贅沢をするために、多すぎる税を民に課しているというのだ。
マリエールは自分の考えをまとめながら口にする。
「でも、ヘルさん。フェゴールはとても遠いんでしょう? いくらなんでも、ユリシスひとりじゃ来られるわけがないわ。それに森には獣もいるのよ」
「ひとりじゃなかったとしら?」
ヘルはマリエールを見つめ、それからユリシスにも目線を向けた。
「おまえはひとりじゃなくて、誰かといて、森を抜けようとした。その理由まではわからないが、俺も子供がひとりきりだったとは考えにくいと思っている」
しかしそこでヘルは言葉を切り、迷うように片手で首筋を掻いた。
「でもな、だからって、森を探索するのは簡単なことじゃないし……ましてやフェゴールなんて、俺も行ったことがない」
苦々しそうに言ったヘルに、マリエールは唇を噛み締める。
フェゴールとこちらの国――シェノア王国を隔てる森は、海のように深く険しい。
奥へ行くほど鬱蒼としていて、昼間ですら薄暗いのだ。
稀に薬草を探して、マリエールはヘルと森に入ることがあるのだが、そのときも絶対にそばを離れてはいけないと厳しく言いつけられていた。
ユリシスは、そんな森に倒れていたのだ。
「迷惑をおかけして、申し訳ありません」
力なく言ったユリシスに、マリエールは目を向ける。
その育ちゆえか、ユリシスは、村の同じ年頃の少年たちに比べ、背も高く、物言いも大人びていた。
粗野な男の子ばかりの村で、だから彼は物珍しく、村の女の子たちからも好意を向けられるのだろう。
同じ〝よそもの〟だと言うのに、えらい違いだ。
記憶がないという儚さ、憐憫も相まってか、村人はユリシスには友好的だった。
――よそもの。
『ほんとうは村の子じゃないのだし』
そのときマリエールはふと、さきほどのティティの言葉を思い出して、また心を揺らがせた。
そういえばあのあと、ユリシスは彼女たちになんと返したのだろう。
どう思っただろう。
「別に、迷惑とまでは言ってない。手伝いも増えて、助かってる面もあるしな」
ヘルが注文表をまとめて立ち上がる。
午後からは大量に薬草を煮る大仕事が待っていた。
「だからそう落ち込むな。できることからしよう」
「……はい」
ユリシスははにかみ、頷いた。
その心のうちがわからなかった。