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誤字脱字報告ありがとうございます。
「覚えてない?」
「はい、何も思い出せないんです」
どこからきたのか、何をしていたのか。
靄がかかったようにしか思い出せないと、ユリシスは言った。
ベッドから降りたヘルは、ユリシスを見下ろし、困ったように眉を寄せる。
「……そういうこともあると、聞いたことはあるが」
「ほんとうですか? ヘルさん」
「ああ」
聞き返したマリエールへと、ヘルが視線を移す。切れ長の碧い瞳は、凪いだ湖のように穏やかだ。
「事故や精神的なもの――心の傷とかで、一時的に記憶を失うことがあるらしい。ただ、それは全てではなくて、日常的な記憶……たとえば空が空であることや言語機能なんかに異常はないのが一般的なんだと」
「それは、どうしたら治るんですか?」
ヘルは視線を外し、嘆息する。
「わからない。まあ、すぐに思い出せることもあると聞くし、気長に待つしかないだろう」
そんな。
しかし、驚愕するマリエールとは対照的に、当事者であるはずのユリシスは不思議なほど落ち着いていた。落胆も狼狽も見せず、ヘルの話を受け止めている。
ヘルが寝癖を押さえつつ、言った。
「差し当たっては、こいつを知っている人間がいないか近隣の村に聞いて回るしかないな」
「わかりました」
マリエールはこくりと頷き、ユリシスを振り返った。
「あ、安心して。きっとあなたの家族を探し出してみせる。協力するから」
「……ありがとう、マリエール」
微かな笑みを浮かべて、ユリシスが言った。
――人は真実を隠す。
ときには自分のために、ときには誰かのために。
平気そうに見えるからと言って、そうだとは限らない。
だから今、目の前で微笑んでいる彼だって、胸の内にはたくさんの不安を抱えているかもしれないのだ。
マリエールはその心許なさを想像してたまらなくなり、思わずその手を取った。
誓うように握る。滑らかな感触に、労働を知らない手だと悟った。おそらくユリシスは、昨夜マリエールが予想した通り、どこか、裕福な家の子供なのだろう。
それならやっぱり大丈夫だ、と思う。
この国に裕福な家などそうありはしないのだから。
*
困ったことになった。と思った。
ユリシス――これはとっさについた偽名なのだけれど――は、自分の手を握るマリエールの指先を見つめた。雪のように白い手は、水仕事のせいかカサつき傷ついている。熱を測るため、額にあてられたヘルの手もそうだった。働き者の賞賛すべき手。自分とは何もかもが違う。
ユリシスは本来の立場を思い、憂えた。
こんなことになるなんて。
早く戻らなければ。
けれど、しかし――焦りばかりが募り、なのにどうすることもできない。
マリエールたちに身分を明かせないことを心苦しく思いながら、小さく息をついた。
ユリシスは、隣国の王子だった。
ただし十一番目の。
ユリシスの父――好色な王は正妃以外にもふたりの恋人を持ち、その女たちが身籠ると、生まれた全てを我が子と認めた。結果、王子が十一、姫が三人も在籍することとなり、王宮は混沌を極めた。今このときも王宮は、王位継承権を争う者たちでひしめいている。
かくいうユリシスも、そのうちのひとりだった。
正妃を母に持つユリシスは、幼い頃から厳しい教育を受けてきた。次期王となる長兄を支えるため、自身を律する術を学ばされたのだ。
早朝から深夜まで勉強漬けで、身体を鍛えることも疎かにしてはならず、そうしてユリシスはだんだんと、子供らしい無邪気さをなくしていった。
けれどユリシスは、そんな生活を辛いと思ったことはなかった。
将来、敬愛する兄に仕えられることが、うれしくてならなかったからだ。
十歳年上の長兄は、とてもやさしくおおらかな人で、家臣たちからの信頼も厚い、尊敬に足る人物だった。
会えば剣の稽古をつけてくれ、勉強も教えてくれた。
ユリシスがまだうんと幼い頃、肩車もしてくれた、夕焼けが落ちていく、あの景色はいつまでも忘れられない。兄の無骨で、丸太のように大きな腕は、なによりも安心できる支えだった。
大人になったら、僕が兄上の一番の側仕えになるんだ。
それだけを誇りに、ユリシスは、過酷な環境を耐え抜いてきた。
しかし先月、事態は一変した。
兄が殺されたのだ。次兄と、その一派に。
次期王となる者の暗殺。
それはこの国でひそかに繰り返されてきた、暗く、珍しくもない歴史の一幕だ。
次兄はすぐに捕まり国外追放となり、彼に協力した者は全て処刑された。
けれどすべてが終わってもユリシスは、愛する兄を殺した者を許すことができなかった。
悲しみよりも怒りが湧き起こり、苦しくて眠れなくなった。
だから戦うことにした。
腐敗した王宮を正し、自分がこの国の王になることを決めたのだ。
幸い、同士はすぐに集まった。
正妃の息子はユリシスと長兄のふたりだけで、兄に仕えていた家臣たちもまた、次期王はユリシスだと訴え始めたのだ。
必ず自分が王位について、こんな悲しい結末を起こさないようにする。
そう決心していた。けれど。
敵も決して甘くはなかった。




