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月がくだり、空はだんだんと明るくなり始めていた。
マリエールはウベロの額に手のひらをあてると、ほっと息をこぼす。
――よかった。熱は少し下がっている。
この調子なら、昼前には平熱に戻るだろう。
薬の効能に自信はあったものの、ほんとうに効くまでは不安でたまらなかった。
マリエールはひと安心しつつ、そばに用意してもらった布巾を桶の水に浸して絞り、ウベロの方へと身を乗り出した。
「失礼しますね」
ウベロは深く眠ったまま、微動だにしない。けれどその表情は心なしか和らいでいた。マリエールは薬学院で習った通りに、ウベロの額や頬、首筋などを拭いていく。何日も湯浴みをしていないウベロの脇や背中には、皮膚の荒れも見え始めていた。明日――もう今日に近いけれど――は軟膏を作ろうとマリエールは決心する。その時だった。
「まだ起きていたのか」
突然低い声がかかり、マリエールは飛び跳ねるように振り向いた。
「……殿下」
「ウベロの具合はどうだ?」
言いながら、灯りを片手にしたアルノルトが、そっと近づいてくる。起きたばかりなのだろうか。白く裾の長い夜着の上に、黒いガウンを羽織っていた。別れた時には整えられていた前髪も今は下ろされ目元に降りかかっている。それが余計に思い出の少年――ユリシスを彷彿とさせ、マリエールを動揺させた。
「薬がどうにか効いたようで、熱は下がってまいりました」
口にしながら、マリエールは腰をあげる。
「……そうか」
ベッドの反対側に回り込んだアルノルトが、幾分柔らかな口調で囁いた。そうして、燭台を持っていない方の手の甲で、ウベロの頬に触れる。彼も安堵したように息をこぼしていた。うっすらと明るくなり始めている部屋の中で、アルノルトと視線がかち合う。低い声がした。
「ありがとう、きみのおかげだ」
「……完治とは、申し上げられませんが」
「いや」
アルノルトはマリエールに座るよう目配せし、自身も引き寄せた椅子に腰を下ろした。揺らめく燭台は床に下ろし、ゆっくりとウベロを見やる。
「これまでは、どんな対処法も薬も効かなかった。――きみのおかげだよ」
「……もったいないお言葉です」
もう一度言われて、マリエールは恐縮する。
一国の王子、それも国民からの評判も高いアルノルトに手放しで賞賛され、けれどウベロの熱がまた上がらないとも限らない状態であることに変わりはなく――マリエールは、素直に言葉を受け取ることができなかった。ぬか喜びさせていけない、きちんと説明しなくては。
そう思い、口を開こうとした、瞬間、しかしアルノルトに先を越されてしまう。
「……万が一再熱しても、きみのせいじゃない。病はそういうものだと、それくらいは知っている」
「……」
「……何か?」
マリエールは心中を読まれたような気分になって、アルノルトを見つめてしまう。こちらを向いたアルノルトは、不思議そうに首を傾げていた。
「……いえ、殿下は病状にお詳しいのですね」
「調べたんだ、自分でも。できることがないか」
言ってウベロへと戻した視線は、慈愛に溢れている。
彼にとって、ほんとうに大切な人なのだろう。
マリエールはどう反応すべきか迷い、見るとはなしに壁にかけられている肖像画に目をやった。
看病に集中していて気づかなかったけれど、それは、とても立派な油彩画だった。マリエールでも抱えられそうなほどの大きさのカンバスの中に、こちらを向いた十歳頃の少年が繊細なタッチで描かれている。
モデルは、大変に可愛らしい男の子だった。
髪は艶やかな黒。瞳は翳りのある灰藍色で、無愛想に引き結ばれた唇は林檎のように甘く赤い。
白いシャツに黄色のネクタイを締めたその少年はどこか不満そうにこちらを見つめていて――――それは、ユリシスそのものに見えた。マリエールは、目を逸せなくなる。
「……あまり見るな」
と、アルノルトの発した掠れた声に、マリエールは我に返る。
アルノルトは難しい問題にでもつきあたったかのように、苦々しく顔を歪めていた。それで確信する。これはアルノルトの子供時代を描いたものなのだと。それを私室に飾っているなんて。マリエールはほんとうに思い合っている主従なのだと、素敵な関係だと思った。
「……失礼しました。あんまり可愛らしかったので」
そして懐かしかった。まるで、彼と再会できたみたいに。
ベッドの向こうで、腕を組んだアルノルトが深い息を吐いた。
「いい加減外せと言っているんだが、聞かないんだ」
「お気持ちはわかりますわ」
幼少期のアルノルトは、きっと天使のように愛らしかったのだろう。それをいつだって見ていたい、飾っていたい気持ちは手に取るように理解できた。
「子供の頃から、ご一緒だったんですね」
いよいよ白み始めた空が、部屋中を、そうして肖像画をはっきりと照らし出す。
見るなと言われた手前、マリエールはもうそこに顔をあげられなかったから、代わりに、アルノルトへと視線を向ける。
「……ああ。ずっと世話になっている。ウベロには剣術だけでなく、礼儀や作法、処世術も教わった。感謝しても、しきれないほどだ」
凛とした眼差しは、静かにウベロに注がれていた。そこに確かな信頼関係を見た気がして、マリエールは憧憬を覚える。
アルノルトにとってのウベロは、マリエールにとってのヘルなのかもしれなかった。
「……殿下は、どうして私を信用してくださったんですか」
緩んだ空気に、ふと尋ねてしまう。
けれど気になったのだ。そこまで大切な臣下を、切羽詰まっているとはいえ、なぜ一介の薬師などに任せてくれる気になったのか。
アルノルトはすっと視線を上げて、それから、少しだけ困ったように眉尻を下げた。
「それは……」
「……?」
その目線の動きや声の出し方が、また〝彼〟を彷彿とさせた。マリエールは再び、ひょっとして、とアルノルトを見つめてしまう。しかしそこで時間は尽きてしまった。
「殿下」
扉をノックする音が室内に響く。
「お時間です」
届いた声に、アルノルトは困り顔をしたまま立ち上がった。マリエールも見送りのため腰をあげれば、アルノルトに見つめ返される。
「……きみの持っているカバンは誰よりも使い古されていたし、エリオ・フィガーの助手だとも聞いていたから、あの場の誰よりも信頼できると思ったんだ。それだけだ」
マリエールは息を詰める。
「…………わかりました。教えてくださって、ありがとうございます」
「いや。……それより寝ていないだろう? 今日一日は必ず休むように。これは命令だ」
「……かしこまりました」
それ以上言うことはなかったのだろう。アルノルトは足早に部屋を出ていく。
廊下の向こう、彼の気配が遠のくのを確認して、マリエールは背後を振り返った。
――ほんとうに、違うの?
肖像画の中の少年と目があう。
もちろん彼は、答えてなどくれなかった。




