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雨は朝方まで降り続いた。
ヘルに言われ床についたはいいものの、結局マリエールは、雨の音と少年のことが気になって中々眠りにつくことができず、翌朝、空が薄明るくなるのと同時にベッドを出た。
髪を整え歯を磨き、いつもの仕事着――白い長袖のワンピースに赤いチェック柄の前掛けを着て、音を立てないようにして居間に入る。
暖炉の炎はきちんと消され、ヘルは食卓にうつ伏せて寝ていた。ずっと看病をしていたのだろう。
あの子は。
思ったマリエールの目に、長椅子から身を起こした少年の姿が映る。
癖のない黒髪に灰藍色の凛とした瞳。
すっかり具合はよくなったのか、顔色は悪くないように思えた。
と、少年がマリエールに気づき、小さく息を呑む。
「……君は」
わずかに顔をこわばらせた少年に、ここは危険な場所ではないと伝えたくてマリエールは笑顔を作った。
「私はマリエール。ここで薬師のヘルさんの手伝いをしているの。昨日、あなたが森で倒れているのを見つけて、ヘルさんが連れてきたのよ。……覚えてない?」
少年は困ったように眉を寄せる。
「……何も。とても苦いものを飲まされたような気はするんだけど」
言いながら少年は、思い出したように口元に手を当てた。その時。
「解熱剤だ。苦くて悪かったな」
まだ眠そうにしているヘルが欠伸をしながら起き上がった。少年が目を丸くする。
「この人がヘルさんよ。とっても腕のいい薬師さんなの」
マリエールの紹介に、少年はヘルを見つめた。
「……あなたが僕を助けて下さったんですか」
「あのままじゃのたれ死んでただろうからな」
言ってヘルは、億劫そうにしながらも少年のそばまで歩み寄り、額に手をあてた。
「熱は引いてるな。他に痛いところは?」
「ありません」
「よかった」
ヘルはもう一度欠伸をすると、のろのろと寝室の方へ向かう。
「悪いマリエール、朝食ができたら起こしてくれ。俺はもう少しだけ寝る」
「わかりました」
「あとおまえ…………名前なんだっけ」
ヘルに問われ、少年は「ユリシス」と答えた。この辺りでは聞かない名前だった。
「ユリシスか。ふうん。……おまえももう少し安静にしてろ。あとで事情は聞くから」
言いたいことだけを告げると、ヘルは寝室へと姿を消した。
ふたりきりにされたマリエールは幾分緊張しつつ、キッチンへとまわる。
「あ、あの、何かあたたかいものでも飲む? それとも眠る?」
「ううん、起きるよ。水をもらえるとうれしいんだけど……」
「水ね、わかったわ」
マリエールが汲み置きの水をマグに注ぐ間、ユリシスは昨夜、マリエールが彼にかけた毛布を丁寧に畳み、長椅子の背にかけた。
そうして腕まくりをしながらマリエールのいるキッチンにはいってくる。
「お礼にもならないけど手伝うよ」
「え、いいわ。大丈夫よ」
「恩は返すように言われてるから」
マリエールから水を受け取ったユリシスはそれをゆっくりと飲み干すと、生き返った、と微笑んだ。その柔らかな笑顔にマリエールもつられて笑う。
「昨日は死にそうな顔をしてたから安心したわ。もう平気みたいね」
「うん。ヘルさんの薬がすごく効いたみたいだ。ほんとうに腕のいい薬師さんなんだね」
「多分、国一番だと思うわ」
「それは光栄だ」
ユリシスは言って、そっと笑顔を潜めた。
「……夕べはごめんね。僕、君にひどいことを言ってしまった気がする。親切に身体を拭いてくれたのに、『触るな』なんて……」
「いいのよ。知らない人にいきなり触られたら、誰だって嫌に決まってるもの。私だったら叩いてたかも」
「……君もヘルさんも、いい人だな」
これはほんとうにきちんとお礼をしないと。と、ユリシスは呟き、それからマリエールが朝食を作るのを手伝った。
野菜のダシでとったスープ、メインはスクランブルエッグと干し肉。付け合わせにサラダも盛り付ける。
それらを食卓に並べる間、ふたりは身の上話に興じた。
「君はずっとヘルさんと一緒にいるの? 親子……には見えないから兄妹かな」
「ふふ、ハズレ。私、親がいなくてずーっと街の隅で野良猫みたいに暮らしてたんだけど、二年前、ヘルさんとたまたま知り合って。それから手伝いをさせてもらえることになったの」
「へぇ」
「ユリシスは? どこからきたの?」
「それがうまく思い出せないんだ。なんだか全部、ぼんやりしてて。……僕どこに倒れていたんだろう」
「ええ。大丈夫? 自分の名前は思い出せたんでしょう? 歳は? 家族のことは?」
「……たぶん十三、かなぁ。家族は、いたと思うんだけど」
マリエールは言葉をなくす。
こんなことってあるのだろうか。
他にも幾つか質問をしてみたけれど、ユリシスはそれ以上のことを思い出すことはできなかった。
マリエールは藁にも縋る思いで寝室で眠るヘルを起こし、状況を伝えた。
「ヘルさん、ヘルさん大変なの! ユリシスは何も覚えてないんですって」
「マリエール……耳元で騒がないでくれ」
「!……ごめんなさい」
ヘルは起き抜け、それでもまだ眠たそうに扉の前で佇むユリシスを眺めた。




