3
***
「ねえ、エリオ」
麗らかな春の夕暮れ。
往診先から戻った医師エリオ・フィガーは、カバンを下ろす隙すら与えられず、同僚の薬師マリエールに詰め寄られていた。
「これでもう十件目なの、どう思う?」
「どう思うって……」
診療録の束を手にしたマリエールに、エリオ片眉を持ち上げた。何のことかと渋々受け取り、中身を確認する。そうして、彼女の焦りを理解した。
「ああ、これは俺も気になってた」
言いながら、カバンをデスクに下ろし、診療録をめくる。
数週間に及ぶ咳、続く発熱、そこで治れば幸いだが、重篤化する例もあり、最悪は永遠の眠りにつく流行病――。その症例は、ここひと月で倍にも膨れ上がっていた。
「これなあ」
診療室のソファに腰を下ろし、エリオは眉間に皺を寄せた。今日彼が訪問した貴族家の男性も、まさにこの症状に冒されていたからだ。
「何でか、薬が効かないんだよなあ」
咳止めも、解熱剤も。効果の強いとされる薬を投与しても、症状は一向におさまらず、どころか副作用として嘔吐や頭痛を引き起こしてしまうケースもあった。
マリエールはぎゅっと拳を握りしめる。
何か、いい方法はないかと過去の診療録や薬学書を漁ったが、どれも似たような治療方法ばかりで、効き目も薄かった。
マリエールは迷い迷い、ここ数日思い悩んでいたことを打ち明ける。
「あのね、エリオ。試してみたい薬があるんだけど……」
「? 試せばいいじゃないか」
ソファに腰掛けたまま、エリオは不思議そうにマリエールを見上げる。
さらりとした薄茶色の髪、猫を思わせる吊り目がちの青い瞳。
この街で唯一、同年代の医師であるエリオは、気さくで、あっけらかんとしていて、マリエールにとってとても話しやすい相手だった。
治療方針でも気が合う上に、彼の淡々として肝の据わった処置は、敬愛する薬師ヘルを彷彿とさせ、マリエールの心を解した。
エリオは、マリエールが目を背けたくなるような縫合でさえ冷静にやってのける男だった。
しかし薬学に関しては自分の方に知見があるはずだ。
マリエールはわずかな希望と自信とを持って、用意していた薬草辞典の一頁を彼に見せた。
「試したいんだけど、材料がどこにもないの。欲しいのは、〝ニナ〟の根っこなんだけど」
「ああ……なるほど」
マリエールが広げた辞典を片手で受け取り、エリオは頷いた。〝ニナ〟の項目を読み込みながら早口に呟く。
「確かにフェゴールにはないだろうな。すぐに取り寄せよう」
〝ニナ〟は、シェノア王国の西域に根付く大樹の名だ。長寿のニナは樹齢五百年にも及び、その葉や根は、薬の材料としてシェノアではよく重宝されていた。
しかし、長く国交が途絶えていたため、フェゴールにはまだ伝わっていないようだった。
「……十七時か。役所は、まだ間に合うな」
エリオは辞典を閉じるとカバンに入れ、早速出かける準備をする。
「とりあえず、どのくらいあればいい?」
「一抱えもあれば」
「了解」
往診から戻ってきたばかりで疲れているだろうに。
エリオは苦言も否定も口にすることはなく、ソファから立ち上がり、診療室の扉に手をかけた。
マリエールは申し訳なさでいっぱいになって、その背を負う。
「エリオ、ごめんなさい――ありがとう」
振り返ったエリオの澄んだ青い目を視線がかち合う。
――ほんとうは、自分が役所に向かうことができればいいのだけれど。
しかし薬の取り寄せは、新米のマリエールの名前では申請に時間がかかる上に、必要な根拠が足りないと却下される恐れがあった。
そこでマリエールはエリオを頼ったのだが、まだ効くかどうかもわからない材料のために、こんなに俊敏に動いてくれるとは思っていなかった。
マリエールは謝罪と感謝を込めて、エリオを見つめる。
彼は人好きのする笑みを浮かべ、片目をつぶった。
「こんな時の〝身分〟だ。気にしなさんな。俺だってアンタの提案にはいつも助かってる」
マリエールに気を負わないように、空気を軽くしてくれたエリオに、自然と口元が綻ぶ。
ああ、だからこの人は女の子に人気があるのだと思った。
「いってらっしゃい、気をつけて」
「ああ、アンタも遅くなり過ぎないように。結果は明日、伝えるから」
「ええ」
パタンと閉じられた扉を見て、マリエールも腕まくりをし、診療室の片付けに取り掛かった。
――エリオは医師であると同時、フェゴールの貴族家の一つ、フィガー伯爵家の次男坊でもあった。
しかし、『どうせ家督は兄が継ぐから』と、自分の手に職をつけるため、早々に医師を目指したらしい。けれど、今のようにその身分をうまく活かしているところもあって、世渡り上手というか、生きるのが上手い人だと、マリエールは短い付き合いの中で感じていた。
ニナの取り寄せには、早くても五日はかかるだろう。
マリエールはその間にできる準備を進めておこうと、戸棚から薬を精製するための道具を取り出した。
これ以上病が広がりませんように。そう願うことしか、今はできなかった。
しかしてその数週間後。エリオは無事、課せられた役割を十二分に果たしてみせた。
その行動は早かった。
まずは腰の重い役人どもを、フィガー家の名を使いせっつき、早馬を走らせることに成功。先んじて届いた一抱えのニナの根っこを元に、マリエールの指示を受けつつ、薬を精製。早速、患者の青年に投与した。
その効果は覿面だった。
ひと月近く症状が続いていた青年に薬を飲ませたその日、診療所で一晩を明かしてもらったのだが、翌日には嘘のように熱は引き、顔色も良くなっていた。
その薬は元々、ヘルがよく作っていたものだった。
味がひどく苦いのと、見た目がヘドロのようなことが欠点だが、解熱剤としての効果は抜群で、マリエールはその効能を思い出し、なんとかこの症状にあった薬を作ることができないかと考案したのだった。
「とにかく、これを常備できるようにしよう」
エリオは各方面に掛け合い、シェノアの商会から、定期的にニナの根がノクティアに届くよう契約を結んだ。以降、交易都市ノクティアの病院中には、ニナの根が置かれるようになった。
流行病の発見と、早期根絶。
その功績は、瞬く間にノクティア中に知れ渡った。――医師エリオ・フィガーの名とともに。
エリオはどこに出かけても褒めそやされるようになり、一躍、街の英雄となった。
新聞や雑誌でも好評され、しかし当のエリオはそんな記事を見かけるたび、感謝をされるたび、苦い思いを抱えるようになっていた。
その午後も、そうだった。
診療の落ち着いた時間を見計らい、ふたりで休憩室に篭っていると、エリオがふと顔を顰める。その手には朝刊が握られていた。
「――全部アンタから教わったって伝えているのに。誰も聞いてくれやしない」
「仕方ないわよ」
マリエールは構わないと、淹れたばかりの紅茶を、不機嫌なエリオに差し出した。
異国人の、出自も定かではない女薬師より、自国の見目麗しい優秀な若者の方が人々には好まれる。それは仕方のないことだと思えた。
それにマリエールは、人に注目されるのがあまり得意な方ではない。だからむしろこの状況は、有難いとさえ思えた。
「ああでも、お給金は上げてもらえると助かるんだけど」
「……アンタのそういうとこ、嫌いじゃないよ」
仕方なさそうに笑い、院長に掛け合うと約束してくれたエリオに、マリエールは満面の笑みを返す。
様々な薬効のあるニナの根が、ノクティアにも流通したことで他にもたくさんの薬を編み出すことに成功していた。マリエールは、次はどんな薬を試そうかと思案する。
と、そのとき。エリオが手にしていた新聞の片隅に、役人が不正に税を受け取っていたとの大きな見出しを見つける。マリエールの視線に気付き、エリオは「ああ」と新聞を持ち上げた。
「これな。アルノルト殿下が直々に調査を行ったらしいんだ。で、不正が暴かれたと。ほんと、立派な方だよ。俺も昔お目にかかったことがあるが……」
「へえ、素敵な方なのね」
アルノルト・リ・フェゴール。マリエールの知識が正しければ、先日、王位継承権を授けられた、末の王子さまだ。
不正が厳格に処罰されて良かったと思いながら、マリエールは紅茶に口つける。
エリオが頬杖をつき、新聞の記事を眺めた。
「これでアンタらの税もいくらかは軽くなるらしい。助かるなあ」
「ふふ、じゃあ美味しいものを食べられるわね」
「あ、いいな。付き合うよ」
穏やかな午後。
マリエールは、心やさしい同僚のとのひと時を楽しんでいた。




