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章立てしました。
ここから六年後となります。
雪が溶け、その年も春が来た。
フェゴール王国の片隅に位置する街――ノクティアでは、今日も人々が忙しなく働いている。
「はい、これでもう大丈夫よ」
「ありがとう、マリエール先生!」
靴磨きを生業としている少年が、腕に巻き付いた包帯を見て、にっこりと笑う。マリエールは、耳慣れない呼び名に小さくはにかんだ。自分は医師ではない。この病院に雇われた薬師のひとりに過ぎなかった。
しかも資格を取れたのはつい最近で、まだ実地経験も少なかった。だから今日のように、転んで怪我をした子どもの手当てや、簡単な処置しか担当しておらず、それなのに先生と呼ばれることに、申し訳なさを感じてしまっていた。
薬の匂いで満たされた診療部屋で、上の歯がいくつか抜けかけた少年が、マリエールに向かい太陽のように笑う。
「あ、そうだ! お母さんがありがとうって言ってたよ! 頭が痛いのが治ったって、すっごく喜んでた」
少年の母親は、長いこと締め付けられるような頭痛に悩まされていた。ひどい時には起き上がることさえ億劫で、何度もこの病院に通っていたそうだ。そこで先日試しにとマリエールの薬を処方してみたのだが、どうやら改善に向かっているようだった。
マリエールは経過に、顔を綻ばせる。
「そう、きっと症状に合ってたのね。よかった」
「うん! マリエール先生がたくさんお話聞いてくれたからだってお母さん言ってた。ありがとう!」
少年がもう一度礼を言って、診療部屋をあとにする。マリエールはそれを手を振りつつ見送った。
午前の仕事は、これで一段落ついた。
ひとりになった部屋で、半分開けたままの窓の外を見やる。
街の大通りに位置するこの病院からは、忙しくなく行き交う人々の姿が見えた。
値切りをする商人、じゃれ合う子ども、たくさんの荷を積んだ馬車。――交易街ノクティアは、今日も変わらず活気に溢れていた。
自分も働かなければと、マリエールは机について、書きかけの診療録を手に取る。
そんなマリエールの頬を、暖かな風がそっと撫でた。春が来るのだ。
マリエールはあと数日で十八になる。
マリエールがフェゴール王国にあるこの病院で勤め始めたのは、三ヶ月ほど前のことだった。
十歳の時にヘルに拾われ、そこから三年は彼の元で学び――それからマリエールは、さらに知見を深めるため、彼の家を出た。
ヘルに書いてもらった推薦状を頼りに、シェノア王国の王都――格式ある薬学院の扉を叩く。そこには年齢も出身も身分も関係なく、学力だけで在籍するさまざまな生徒がいて、薬学の勉強のため、日々切磋琢磨していた。
マリエールは、ヘルに叩き込んでもらった知識でなんとか筆記試験を突破し、それから四年間、学問に明け暮れた。
その間に仲の良い友人もできたし、加えてシェノアの王都には、村にはないたくさんの施設――洋品店や図書館、雑貨屋など――があり、マリエールの世界は、見る間に広がっていった。
問題だったのは学費だ。薬学院は成績上位者の学費は国庫から捻出してもらえる制度があったものの、情けなくもマリエールは該当しなかった。そのため、四年分の生活費も合わせて、全額をヘルが賄ってくれたのだ。マリエールは村に戻ったおり、必ず全額返すと誓約書を作り、彼に渡した。けれど案の定ヘルは受け取ってくれなかったので無理やり戸棚に置いてきた。
そうして晴れて薬師の免許を取れたのが半年前。
マリエールはいくつかの病院に薬を置いてもらいつつ、細々と生計を立てていた。
このフェゴールの病院に勤めるようになったのも、同じ頃だ。
〝深い深い森を隔てた先にある、フェゴール王国〟。それはかつての話で、今は森に一本の街道ができ、おかげで交易は活発になり、互いの国を行き来する者が増えていた。
マリエールがこの病院で勤めることができるようになったのも、その街道のおかげだ。
シェノアの国境に近いその街は、フェゴールでも特に栄えていて『薬師が足りないから』と、マリエールは話を受けたのだった。
病院から提示された給与は、新米のマリエールには信じられないほどありがたく、一も二もなく快諾した。しかし、それが間違いだったと気づくのに、ふた月もかかりはしなかった。
フェゴールは民に重税を課していたのだ。
毎月、病院からは決まった額を受け取っている。マリエールはそこから生活費と、ヘルに返すためのお金を貯めていた。しかし、フェゴールの税は高額で、種類も多く、マリエールは給与の半分近くを街と国に払わねばならなかった。そうして残ったお金は雀の涙ほどで、マリエールは今日も節約を強いられている。それは他の薬師や今日やってきた少年の一家も同じで、街の人間は皆、不満を抱えているようだった。
もっと慎重になるべきだったわ。
マリエールはそっとため息をこぼす。とは言っても、詐欺にあったわけではない。事前に調べなかった自分が悪いのだ。
今更言っても始まらないと、マリエールは両手をあげて伸びをした。
幸い、仕事仲間には恵まれていて、共に重税の苦しみを分かち合い、それにより後悔は少しばかり緩和されていた。
――ヘルからの助けを受け、薬学院ではたくさんの経験を積ませてもらい、念願叶い、マリエールは薬師になれた。けれどまだ、〝立派な〟とは到底言い難い。
「マリエールさん、いらっしゃいますか?」
「はい、いますよ」
患者の声に、慌てて返事をする。医師たちが急な往診で出払っているため、解る範囲にはなるが、今日はマリエールが代理で診ることになっていた。すっと気持ちを引き締める。何より恐ろしいのは誤診だ。マリエールは、診療部屋に入ってきた患者を椅子に座らせ、自分も向かいに腰掛けた。
「今日は、どうされました?」
咳き込んだ青年が、苦しそうに口を開いた――。
マリエールは小さく息を呑む。
このところ、よく見る症状だった。
* * *
空には、まるい月がかかっていた。
フェゴール王国の城――大広間は、さざめきで溢れている。
月に一度、王主催の夜会が開かれる夜だからだ。
「ご覧になって。アルノルト様よ」
「今夜もお綺麗ね」
「……なんだってあんな奴が」
「静かに。聞こえるぞ」
そこかしこから注がれる視線――期待、羨望、嫉妬に思惑。
清濁入り混じる数多の感情を一身に受けながら、フェゴール王国の末王子・アルノルトは一切表情を変えることなく、飾り付けられたホールを進んだ。眉一つ動かさず、彫刻のように無感情な顔はそのままに、従者ウベロを伴い、颯爽と突っ切っていく。その美しくも厳しい横顔に、そばを通り過ぎられた令嬢は夢でも見たかのように魅入られた。奥へ奥へと迷いなく進む背が、人の波で見えなくなるまで追い続ける。
フェゴール王国の十一番目の王子。アルノルト・リ・フェゴール。存命中の王の子どもの中で、唯一正妃を母に持つ、血統の最も優れている王子だ。
艶やかな癖のない黒髪、灰藍色の凛とした瞳、精悍な顔つき――その容姿は母親に似て美しく、宮廷画家や近侍、騎士たちまでもを虜にしていた。
加えて先日――今年で十九を数えたアルノルトは、父王から正式に王位継承権を授与された。
長年に渡り腹違いの兄たちと継承権を巡って争っていたアルノルトだが、ついに、次期王の座を手中にすることができたのだ。
アルノルトは真っ直ぐに父王の元へ向かっていく。
「父上」
「おお、アルノルト」
愛妾フィオリアと話していた父王が、上機嫌に振り返る。
フェゴール王国の現王は、齢六十となった。若い頃は数々の浮き名を流してきたこの男も、寄る年波には勝てないらしく、この頃は落ち着き、隠居を考えだしていた。
そこで臣下たちと協議し選んだのが、領民からの評判もよく、一際愛していた正妃が産んだ息子だった。
愛息子に向けられた王の笑顔に、愛妾フィオリアの顔があからさまに歪む。アルノルトはそれを視認しつつ、父王に礼を取った。
「遅くなり、申し訳ありません」
「ああ。構わんさ、また仕事をしていたのだろう? おまえの勤勉さは美徳とするところだが、食事と睡眠だけは疎かにしてはならん。さあ、飲みなさい」
「は」
給仕に渡された酒を煽ると、父王はことさら喜んだ。王国自慢の葡萄酒は王の最も愛する飲み物だったからだ。
と、視線を感じ見やれば、まだフィオリアがこちらを冷たく睨んでいた。
赤い髪に豊満な胸。清廉な母とは似ても似つかないこの女のどこに惚れ込んだのか、アルノルトは、父の趣味がわからなかった。
侯爵家を実家に持つフィオリアは、我が子を玉座に就かせようと、これまで幾度もアルノルトの命を狙ってきた。毒殺や暗殺はまだ可愛い方で、妙に頭の回るこの女は、アルノルトの臣下たちを自分の手駒にしようと画策することがあった。
その策略に乗り完全に寝返ったのがかつての臣下――シャルマ・テペで、彼は今夜もフィオリアのそばに控えていた。
一瞬目が合い、形式的に頭を下げられる。アルノルトは、喉の奥に込み上げてきた苦いものを飲み下した。
白髪に青い目を持った騎士、シャルマ・テペ。
幼い頃、アルノルトは兄の次に、この男を敬愛していた。
剣術の稽古に付き合ってくれた、あの日々はまだ覚えている。
『お上手ですよ、殿下』
『ほんとうか? 世辞ではないだろうな?』
『主人に嘘など申しません。殿下は、お強い騎士となられるでしょう』
しかしシャルマはアルノルトを裏切り、フィオリアについた。
そもそもアルノルトが玉座を目指した理由――実兄の暗殺も、この男とフィオリアの計画によるものだったのだ。
アルノルトは絹の手袋で包まれた己の右手を、静かに握りしめる。
シャルマの裏切りが発覚したのは六年前。
彼らの奸計にかかり、アルノルト一派が一時、城を追われた時だった。
もうひとりの従者ウベロに助けられ城に戻ったアルノルトは、以来、王城でシャルマを見かける毎に、深い悲しみと怒りに包まれるようになった。
どうして、とその胸ぐらを掴み、心のうちを暴きたいという欲求と、王子として冷静でありたい自分の間で、葛藤にのたうつ。
しかしその苦痛もまもなく終わる。
アルノルトは正式に次期王となる権利を賜った。――勝ったのだ。
六年前、城に戻った時は、彼らを糾弾する術をアルノルトらは持ち得ていなかった。確たる証拠がなかったからだ。しかしこれから王となれば、あらゆる権力を行使することができる。兄の無念も、晴らせる。
「ああそうだ、アルノルト」
「は」
酒がまわり、すっかりまなじりを下げた父王が、アルノルトの肩に手をかける。
「おまえも、もういい歳だ。そろそろ婚約者も決めねばな。誰がいいだろうか、適当なものがおるといいのだが」
言いながら、辺りに目配せをする。
フィオリアが口を開きかけたのを見て、アルノルトは遮るように言った。
「気が早いですよ、父上。私にはまだ学ぶべきことが山のようにあります」
「おお、そうか。おまえは、ほんとうに謙虚で働き者だな」
父王が朗らかに笑い、アルノルトの肩を上機嫌に叩く。
フィオリアが薦める娘など、冗談じゃない。
アルノルトは執務を言い訳に、夜会をあとにした。
お付き合いくださりありがとうございます。




