14
ユリシスが、村を出ることになった。
そのささやかな知らせは、小さく退屈な村に瞬く間に広まっていった。
「聞いたよ、ユリシス」
「寂しくなるなあ」
「元気でいろよ」
出立が決まって三日が過ぎた頃。
村人と顔を合わせるなりそう話しかけられるようになり、ユリシスは苦笑する回数が増えていった。
「何も今生の別れじゃないんだから」
同意を求めるように言ったユリシスに、けれどマリエールは、すぐにうなずき返すことはできなかった。
隣といっても街は遠い。
気軽に行き来できる距離ではないし、道のりも険しいのだ。
それに、新しい生活が始まればユリシスは村のことなど気にかける余裕もなくなってしまうだろう。
早く記憶が戻ってほしいと思うのに、いなくなってしまうのは寂しいなんて。
薬の配達の途中。
マリエールは隣を歩くユリシスをじっと見つめた。
「何? どうかした?」
ユリシスが不思議そうに首を傾ぐ。
癖のない艶やかな黒髪が揺れる。
「ううん、なんでもない」
いつも通りのやさしくて穏やかなユリシス――。
それがマリエールの寂しさをより色濃くしていた。
* * *
「マリエールの元気がない?」
「はい。ヘルさんは思いませんか」
配達から戻り、マリエールが出かけた折、ユリシスはそれとなくヘルに尋ねてみた。
あの晩――ユリシスが奉公に出ると決まった日から、マリエールは目に見えて気落ちしていった。
笑顔はぎこちなく、言葉も少なくなり、どこかぼんやりとしている。
先ほど薬の配達に出かけた時もそうだった。
足取りは重く、受け答えも曖昧で、何かを言いかけては口をつぐむ。
たぶん、マリエールは。
おそらく自惚れではない答えを、ユリシスは頭を振って追い払う。
マリエールのことなんて気にかけている場合じゃない。それより早く城へ戻る手立てを見つけなくては。
けれど考えまいとすればするほど、脳裏にあの子の影がちらついて離れなかった。
眉をひそめつつ、ユリシスは息を吐く。
乾燥させた葉を秤に乗せながら、諦めて、マリエールを想った。
――彼女はきっと、自分と離れ難いと思ってくれている。
たった三ヶ月、共に過ごしただけの自分を。
(寄り添いすぎだ……他人なんて、そう簡単に信用するべきじゃないのに)
「そりゃ、おまえが出てくからだろ」
ユリシスの考えを決定づけるようにヘルが言った。
食卓机で書き物をしていた手を止め、目を向けてくる。
「それとも、マリエールが可哀想だからやっぱり止めるか?」
「……いえ」
測った葉を秤から下ろしながら、口を開く。
「行きます」
ヘルが「それがいい」と言うように目を細める。
ユリシスは、世話になった室内を見渡した。
――乱雑な本棚。
――並ぶ薬瓶。
――吊るされた薬草。
ここは、ほんとうに居心地のいい場所だった。
けれどユリシスはまもなく出ていかなくてはいけない。
ユリシスの帰る場所は、別にあるからだ。
「マリエール」
「! ユリシス」
夕刻。
オレンジ色に染まる湖のそばで、ユリシスはしゃがみこんでいるマリエールを見つけた。
彼女は湖のほとりに咲く白い花を集めていた。
カゴいっぱいになった花を見つめて、ユリシスは言う。
「迎えに来た。帰ろう。今夜は魚の香草焼きだって」
「まあ、豪華ね」
カゴを手に取り立ち上がったマリエールは、小さく口角を上げた。
やはりいつもの笑顔ではない。そう感じ取れるほど近くにいたことに気づいてしまう。
ユリシスは一歩、彼女に歩み寄った。
「ねえ、マリエール。僕頑張るよ」
「え?」
唐突に聞こえただろう。
目を瞬かせたマリエールに構わず、ユリシスは、彼女のカゴを持っていない方の手を取った。すっかり冷え切ってしまっていて、だから、あたためるように握りしめる。
「きっと記憶を取り戻してみせるから」
マリエールの紅茶色の瞳が、夕日を受けて金色に染まっていた。
そっと謝罪を口にされる。
「ごめんなさい」
困惑したユリシスを、マリエールはしっかりと見つめ返してきた。
力強い。その瞳にふと宿った光から、目が離せなくなる。
「心配かけてたのよね。不安でいっぱいなのは、ユリシスの方なのに」
マリエールは恥いるように目をそらした。
それが嫌で、ユリシスは彼女の瞳を追いかける。
「マリエール、こっちを向いて」
「ううん、わたしったら自分のことばかりで、ほんとうにごめんなさい。ユリシスが大変なときに。ああ、だめね。こんなだから、ヘルさんにもいつまでたっても子供扱いされるのよね」
「そんなことない」
ユリシスはマリエールの頬に手を当て、こちらを向かせた。
再び目が合い、やはり綺麗だと見惚れ落ちていく。
「自分のことばかりなのは、僕だよ」
十分な礼もできないまま、村を後にするなんて。
いや、この恩は必ず返すと心に誓いながらユリシスはマリエールを見つめ返した。
「……また、会いに来るから」
どうしてそんなことを口走ってしまったのか、ユリシスは自分でもわかっていなかった。
ただ、感謝を感じているのはほんとうだった。
マリエールが微笑んで言う。
「たぶんね、きょうだいができたみたいで嬉しかったの、わたし。だからこんなに寂しいのね」
「……僕もきみみたいな妹がいたらとっても大事にしたと思う」
血の繋がった兄弟たちとは、血で血を争っているけれど。
「わたしが妹なの?」
くすくすと肩を揺らして笑ったマリエールが、ユリシスに身を寄せる。村で見かけた光景、妹が兄に甘えるような仕草に、一瞬、体を引きそうになる。だめだと思いながら、けれどユリシスは彼女を柔らかく抱き留めていた。
耳元で、マリエールの穏やかな声が響く。
「ユリシス、わたしも頑張るね。立派な薬師になって、ユリシスの記憶も戻せるくらいすごい薬を作る」
「うん、約束だ」
顔を上げて、マリエールが嬉しそうに笑う。
やっといつもの彼女に戻った。
ユリシスは微笑み、もう一度彼女をしっかりと抱きしめた。
――マリエールは良い子だ。
その夜。ユリシスは居間の長椅子で横になりながら、彼女の笑顔を思い出していた。
すっかり元気を取り戻してくれたマリエールは、夕食をおかわりし、明日はユリシスの好きなクッキーを焼くとはりきっていた。ユリシスの旅立ちの日まで、たくさん思い出を作ろうとしてくれているのだ。
(楽しみだな)
毛布をかぶり直し、目を閉じる。
明日の小さな喜びを糧に眠りにつく。
それが庶民の幸福なのだと、ユリシスは身をもって知った。
村を去るのは名残惜しいけれど、ここで立ち止まり続けるわけにはいかない。
ユリシスは、体を丸めるようにして深い眠りに落ちようとした――瞬間。
「――」
微かな音に、目を開く。
寝室とは真反対だから、ヘルやマリエールには聞こえていないのだろう。
けれど確実に聞こえる音に、ユリシスは音もなく身を起こした。
慎重に長椅子から足を下ろし、裸足のまま音のする方――戸口へと寄る。
ノックをするような、小さな音が続いている。
緊張で全身の筋肉が強張るのがわかった。
こんな夜更けに、只者ではない。
喉の奥が渇き、呼吸が浅くなる。
音は続いている。
ユリシスは一度深く息をつくと意を決し、戸口を薄く開いた。
見えた黒い影に、心臓が止まりそうになる。しかし。
「殿下」
低く掠れた声。
耳慣れた呼びかけに、ユリシスは目を見開いた。
目深にローブをかぶっていても、月のない夜でも、わかる。
幼い頃から自分を守り、鍛え、四六時中そばについてくれた従者――ウベロが、そこにいた。




