13
「はい、これ。お父さまから」
「わ、こんなに。いいの?」
思わず聞き返すと、ティティはむっと唇の先を突き出してきた。
「嫌だったらいいわよ」
――その朝も。
ティティは、たくさんの野菜を抱えてマリエールを訪ねてきた。
村長一家の畑で獲れたもので、今日は瑞々しいりんごまでカゴの端に乗っている。
「誰も嫌だなんて言ってないよ」
「……っユリシス……!」
ふと背後から腕が伸びてきて、ティティの差し出していたカゴを受け取る。
振り返れば、不機嫌そうに眉をひそめるユリシスがいた。
彼はそのままマリエールの前に出るようにして戸口を塞いだ。マリエールの視界から、ティティの顔が半分隠れてしまう。
「ティティ、きみその捻くれた性格どうにかならないの?」
「あんたに関係ないでしょ。それにこれは、ヘルさんとマリエールに持ってきたのよ」
ティティも負けじとユリシスに言葉を返す。
つい先日までの、にこやかだった空気が嘘のようだ。
爽やかな早朝の中。マリエールは助けを求めるように家の中に顔を向けた。
ヘルと目があったけれど、肩をすくめられ、奥に引っ込まれてしまう。『好きにさせておけ』とでも言っているかのようだった。
(もう)
マリエールは眉尻を下げ、小さく息をつく。
ユリシスとティティはまだ言い合いを続けていた。
――マリエールが迷子になったあの一件から、ひと月が経とうとしていた。
マリエールの予測通り、村はその年、大変な豊作となった。
ごろごろと掘り起こされる芋に、黄金に染まる麦畑。
ぶどう、栗、にんじんに葉野菜……。
これで安心して冬を越せると、村人は手を取り合い、大いなる実りを祝いあった。
それに加えて、とてもうれしい変化もあった――。
「マリエール! 具合はもういいのかい?」
「ええ! もうすっかり」
「そりゃよかった! そうだ、今度釣りに行こうな! 母ちゃんの病気治してくれた礼に、釣具も貸してやるから」
「ほんとう? ありがとう!」
そばを通りかかった村の少年が、マリエールに声をかけてくる。以前より、ずっと親しげに。
――村の実りが復活したことで、マリエールに対する、村人の不安や恐れは薄まりつつあるのだ。
無論、全員が全員というわけではないものの、前よりうんと過ごしやすくなったとマリエールは思う。信頼はきっと時間をかけて築くものなのだ。
(ティティとも、いつか……)
そんな希望を持ちながら、マリエールはポニーテールを揺らす少女を見つめる。
謝罪の意味もあるのだろうけれど、彼女は毎日のように野菜を届けてくれるようになった。
「その釣り、僕も行く」
「あたしも行くわ」
「ええ。みんなで行きましょう」
言い合いをしながらも、マリエールと少年を会話を聞いていたらしいユリシスとティティに言われて、マリエールは母親のようにうなずいた。しかし。
「きみは別に来なくても」
「あら、ユリシスこそ来なくても結構よ。あたしのほうが湖にも詳しいし」
「詳しいだけじゃね」
「じゃあ勝負する?」
あの一件以来、ユリシスはティティに冷ややかな態度をとるようになり、ティティもまた、そんなユリシスに喧嘩腰になっていった。
(……止まらないのよね)
マリエールは最初、ユリシスの気の短いその一面に、とても驚いた。けれどそういえば彼は、ヘルに体力がなさそうだと指摘されたときも苛立っていたのを思い出した。
マリエールが知らなかっただけで、ほんとうは怒りっぽいところもある子だったのかもしれない。
マリエールはぼうっと晴れやかな空を見上げる。
そう――マリエールはユリシスのことを、ほんの少ししか知らないのだ。
そんなことに今さら、思い至っていた。
* * *
手がかりが見つからない。
村の共同井戸から水を汲み上げながら、ユリシスは、こぼれそうになるため息を呑み込んだ。
と、背後から朗らかな声をかけられる。
「ユリシス、ありがとう。これ先に運んでおくわね」
「ああ、うん」
道の先からぱたぱたと駆けてきたマリエールが、慣れた手つきで重い水瓶を運んでいく。
その後ろ姿を見送るのも日常になりつつあって、ユリシスは今度こそ堪えきれずに息をこぼした。
(……すっかり村人だな)
ヘルのお下がりのシャツに、生成りのズボン。濃紺のベスト姿。
マリエールが無事見つかり、回復してくれたことはほんとうに良かったと思う。元気に働きまわっている彼女を見ると安心する。
けれど、自分自身の問題は何一つ解決していなかった。
それなのに村に馴染みつつある自分に呆れが募る。
こんな姿を見たら、シャルマたちはなんというだろう。
井戸に桶を落とし、水に浸かったことを確認して、ロープを力いっぱい引く。
村の生活において力仕事は欠かせない。
おかげで、体力も衰えてはいないはずだった。
「焦るな」
自分に言い聞かせるように呟く。
できることから、確実に。きっとそれが一番の近道なのだから。
* * *
「え?」
突然のことに、マリエールは目を丸くした。
今しがた口にしたヘルの言葉を繰り返す。
「ユリシスを、奉公に?」
「ああ」
その夜。
いつものように三人で夕食をとっていると、ヘルがそう切り出したのだった。
「こないだ行った街の大地主に、ユリシスのことを相談しておいたんだ。そうしたら今日、手紙がきた。この村より情報も集まりやすいだろうから、こっちで働きながら知り合いを探さないかって。ちょうど使用人に空きが出たらしい」
マリエールは驚きを隠せないまま、隣に座るユリシスを見た。
流石に困惑しているようだった。
「大地主の方、ですか」
「ああ。心配するな、俺も顔見知りだし、悪い奴じゃない。マリエール、おまえも知ってるだろ? ほら、何度か客としてきたこともある大柄の……」
「は、はい」
恰幅が良く、使用人を二人も連れていた男性を思い出し、マリエールはうなずく。確かにあの人はマリエールにもやさしかった。だから問題はないと思う。けれど、心配せずにはいられなかった。だってユリシスは記憶を無くしているのだ。やっと村にも馴染んできたのに、環境を変えるなんて、大丈夫だろうか?
そっと隣を見やる。
ユリシスはじっとヘルを見つめていた。そうして、口を開く。
「……そうですね、わかりました」
え?
淡々と承諾したユリシスに、驚きを隠せない。
その間にもヘルが話を進めていく。
「ん、俺も時々は会いに行けると思うから、安心しろ」
「はい。ありがとうございます」
「じゃあ、日程だけど……」
(まって、まって。ユリシスが家を出る――?)
あまりにも急な話、しかも目の前でするすると進んでいく会話に、頭がついていかない。
マリエールは動揺しながら、けれど口を挟むこともできなかった。
と、話が一段落つき、ユリシスがマリエールに顔を向けてきた。
口角が小さく上がっている。やさしい笑顔に、胸が詰まった。彼は、ほんとうに決心したのだとわかって。このたった数秒の間に。
「短い間だったけど、ありがとう。このお礼はいつか必ずするから」
「……お礼なんて。ユリシスが全部思い出せるように祈ってるわ」
それだけを言うのが、精一杯だった。
なぜこんなに胸が苦しいのかもわからない。喜ぶべきことのはずなのに。
「うん」
ユリシスのためを思えば、これはとても善い選択だ。
でも、寂しいのも事実で――マリエールはうまく笑顔を返せているか、自信がなかった。
「……ユリシス、起きてる?」
「? マリエール?」
深夜。
寝付けなかったマリエールは、寝室を抜け出て、ユリシスが寝起きをしている居間に顔を出した。
ユリシスはいつも、居間の簡素な長椅子に敷き布とクッションを置いて休んでいた。
そろそろ彼用のベッドもあつらえようか、どこにおこうかと話しもしていたのに、必要なくなってしまった。
マリエールは、足音を立てないようにユリシスに近づき、長椅子のそばに腰を下ろす。ほとんど真っ暗な部屋の中、衣擦れの音がして、彼が身を起こすのがわかった。
「どうしたの?」
やさしい声がする。
マリエールも寝室のヘルを起こさないように、小さく小さく囁き返した。
「ごめんなさい。眠れなくて」
「……いいよ。急な話だったからね、僕も眠れそうになかった」
「……無理はしてない? ほんとうは嫌だったら、わたしからヘルさんに言おうか?」
「大丈夫だよ」
ユリシスが苦笑するのがわかった。
「そこまで子どもじゃないから」
マリエールはやはり心配で、眉を寄せる。
「ユリシスは少し、短気なところがあると思うの。だから」
言葉が詰まる。
彼はニ週間後、この村を出ることになった。街の大地主も、人手が足りないのだそうだ。
マリエールは暗がりで光るユリシスの瞳を見つめ返した。
「困ったことがあったら、連絡してね。戻ってきてもいいから」
「うん。気を付ける。マリエールも、無理をしすぎないようにね」
「ええ」
「僕も顔を出せるように頑張るから」
柔らかな声。人形のように可愛らしい顔立ち。
また会えるとわかっていても、やはり寂しい。――寂しかった。




