「幕間 ― 後悔の記憶」
一区切りついたので幕間です。
ケイタの過去話になります。
ケイタは、ごく普通の学生だった。
勉強もそれなり、運動も人並み。特別熱血でもなければ、いじめられることもなかった。
無難に大学へ進学し、大手ではないが歴史ある企業に就職。
与えられた仕事を淡々とこなし、帰宅しては無気力に日々を終える。
「自分が頑張らなくても、誰かがやってくれる。世界は回っている。」
それがケイタの口癖にも似た思考だった。
ただ一つの欠点――それは、いつも後回しにすること。
声をかけるべき時にかけない。動くべき時に動かない。
後悔は、その積み重ねから始まった。
◇
ある月曜日、朝から雨がしとしと降っていた。
駅へ向かう大通りで、ケイタの前を一人の少女が歩いていた。
ピンクの傘。小学校低学年くらい。
親の姿は見えない。車の多い通りを一人で歩かせるのは無責任だな、と一瞬思った。
だが声をかけて不審者扱いされるのも面倒だ、と足早に追い抜こうとした。
そのとき、少女が振り返る。
ぱちりと視線が合った。大きな目、愛らしい顔立ち。
怪訝そうに眉を寄せた彼女は、そっと道を譲り、傘の向きをケイタに当たらぬよう傾けてくれた。
「どうも」
ケイタは小さく呟き、足を速めた。
(気遣いのできる子だな……)
そう思いながらも、声をかけるべきか逡巡し、結局やめた。
大丈夫だ。他の大人も大勢いる。――そう自分に言い訳をしながら。
数十メートル先でふと振り返ると、少女の姿はもうなかった。
代わりに、停車した黒い車の影。ドアが閉じる音が耳に残った。
「……迎えか」
そう思い込んで、そのまま駅へと急いだ。
◇
数日後。
駅前で必死の形相でビラを配る夫婦を見かけた。受け取った一枚を電車のホームで広げる。
――探しています。
――行方不明。
――七歳の女の子。
――ピンクの傘。
写真を見た瞬間、ケイタの体は凍りついた。
あの時の少女だった。
視界が白くなる。頭の中で「もし」がいくつも渦を巻いた。
声をかけていれば。黒い車を気にしていれば。ホームで戻って伝えていれば。
どれも小さな一歩だった。けれどその一歩が、命を繋いだかもしれない。
だが、ケイタは動かなかった。
ただ通り過ぎただけだった。
その夜、少女は遠くの林で遺体となって発見された。
死後数時間――つまり今朝までは生きていた。
「なぜ……」
いくら問いかけても答えは一つしかなかった。
それからケイタは人の視線を恐れるようになり、やがて引きこもりになった。
◇
ケイタの父は大企業の役員。母は専業主婦。
父は厳しかったが、息子を立ち直らせたい一心で、宥め、叱り、説得を繰り返した。
だがケイタはその愛情を重荷としか感じられず、苛立ちを募らせた。
ある雨の日。
父が怒鳴り、ドアを叩き続ける。
苛立ちが爆発し、ケイタは叫んだ。
「うるせえんだよ! バカ野郎! てめえなんかとっととくたばれ!」
静寂。
叩く音も声も止まった。
父の足音が遠ざかる。
(やってしまった……)
すぐに謝ろうと思った。けれど喉が詰まり、「明日言えばいい」と後回しにしてしまった。
だがその「明日」は来なかった。
両親は夕方、交通事故で命を落としたのだ。
「まただ……」
救えなかった。伝えられなかった。
ケイタは二度目の大きな後悔を背負った。
◇
事故現場に立ち、花束の前でケイタは泣き崩れた。
「ごめんよ、親父……お袋……」
感謝の言葉も、謝罪の言葉も、一度も伝えられなかった。
嗚咽と共に、涙が道に落ちる。
やがて決意は固まった。
「もう終わりにしよう」
現場近くの鉄橋から身を投げるつもりだった。
その時。小さな影が目に入った。
道端にうずくまる少女。年は、あの傘の少女と同じくらい。
「……迷子か?」
声をかけようとした瞬間、背後から蛇行する車が迫ってきた。
考える暇はなかった。
体が勝手に動いた。
「走れ、間に合え……!」
必死に地面を蹴る。時間が軋み、世界が一瞬だけ引き延ばされたように感じた。
少女を抱き上げ、くるりと反転する。
轟音。衝撃。体が空へ投げ出される。
それでも腕の中の少女だけは離さなかった。
意識が遠のく中、ただひとつの願いだけが残った。
――守れたなら、それでいい。
◇
その一部始終を、
高い空のさらにその上から、
ひとりの存在が興味深げに見下ろしていた。




