地獄の門出[リシアパート]
翌朝。
リシアはまだ薄暗い街外れの丘に立っていた。
小屋の扉は開け放たれ、中から漂うのは薬品と焦げた紙の匂い。鼻をつく刺激臭に思わず咳き込む。
「遅ぇぞ」
奥から現れたヴァルターは、相変わらずの白髪ぼさぼさに片眼鏡姿。手には何やら怪しげな液体の入った瓶をぶら下げている。
「これからお前の体を“壊す”。覚悟はいいな?」
「……はい!」
緊張で拳を握るリシア。
ヴァルターはその反応にニヤリと笑う。
「よし、じゃあまずは――走れ」
「えっ?」
「丘を下りて、あの林までだ。全力で十往復な」
「な、なんで……?」
「魔術師に必要なのは体の芯だ。魔力は血と共に流れる。血が鈍れば魔力も鈍る。筋肉の鎧を削ぎ落とし、芯を鍛え直す――それが地獄の第一歩よ」
呆然としながらも、リシアは丘を駆け下りた。
息がすぐに荒くなる。昨日まで剣を振るっていた足腰とは違い、魔力を意識しながら走るのは想像以上に消耗する。
「……っ、はぁ……!」
「遅ぇ遅ぇ! 魔力を感じろ! 足の裏から流し込め、膝を抜け、腰で回せ!」
ヴァルターの罵声が背を追いかけてくる。
その言葉に従って必死に呼吸を合わせると、不思議な感覚が芽生えた。
血の流れと共に、温かな光が足元から頭頂へと駆け上がる。
「……っ!」
十往復を終えた頃には、膝は笑い、呼吸も限界だった。
だが――全身の内側に燃えるような熱を感じていた。
「ほぉ……思ったより早いな。普通なら三日は吐いて倒れる」
ヴァルターが唇を吊り上げる。
「次はこれだ」
差し出されたのは、小さな蝋燭。
炎は風に揺れ、消えそうに頼りない。
「これを、魔力で守れ。風が吹いても消さずに維持しろ」
「……そんなこと、できるんですか?」
「できるかどうかじゃねぇ。“やる”んだ。お前の魔力なら、必ずできる」
リシアは蝋燭を両手で包み込むように持ち、目を閉じた。
鼓動を感じる。血の流れを感じる。
……そして、魔力の川を。
「……!」
炎が一瞬、安定する。だが次の瞬間、風に揺られて消えた。
「まだだ。百回やれ」
「ひゃ、百……!?」
「地獄って言っただろうが」
リシアは汗まみれの顔で、それでも歯を食いしばった。
――剣では守れなかった。
なら、この魔力で。
村を、仲間を、ケイタを……守るために。
「……やります!」
ヴァルターの片眼鏡がきらりと光る。
その視線には嘲笑ではなく、獲物を見つけた獣のような期待が宿っていた。
(こいつ……やっぱり化けるぞ)
炎を抱えた少女の姿を、ヴァルターはじっと見つめていた。
リシアは息を整え、再び蝋燭を掌に包んだ。
夜風が吹き抜けるたびに炎は揺らぎ、魔力の膜は破れて消える。
「くっ……!」
三度目。
十度目。
二十度目。
指先は震え、魔力を集めすぎて頭痛が走る。
それでもリシアは蝋燭を手放さなかった。
「諦めるな。お前の中の川は、まだ全然枯れてねぇ」
ヴァルターの声が、妙に楽しそうに響く。
「……そんな、簡単に……!」
リシアは歯を食いしばった。
何度も村を守れなかった。
だからこそ――ここで逃げるわけにはいかない。
深く息を吸う。
魔力を“押し込む”のではなく、“流す”ように。
血が脈打つのと同じリズムで、胸の奥から掌へと送り出す。
――ふっと。
炎の揺らぎが止まった。
風が吹いても、消えない。
「……っ!」
リシアは目を見開いた。蝋燭の炎が、掌の内で穏やかに燃えている。
それは頼りない光ではなく、芯を得たかのような安定した灯りだった。
「……やった……」
その瞬間、足から力が抜け、リシアは膝をついた。
だが蝋燭の炎は、消えなかった。
「……ほぉ」
ヴァルターが片眼鏡を押し上げる。
「やるじゃねぇか。百回どころか、三十回で掴みやがった」
リシアは荒い息をつきながら、炎を見つめた。
胸の奥で、熱が波打つ。
(これが……魔法の力……!)
震えるほどの達成感があった。
剣では届かなかった“力”。
けれど、この炎なら――いつかきっと。
「忘れんな。これは始まりにすぎねぇ」
ヴァルターは唇を吊り上げる。
「今は蝋燭一本でも、いずれは城壁を守る火に変えられる。……お前次第だ」
リシアは強く頷いた。
「……はい!」
その声は、確かに昨日までの彼女とは違う響きを帯びていた。
◇
夜空の下、蝋燭の炎は小さく揺れ続けていた。
リシアの決意を、静かに照らすように。




