深淵[ケイタパート]
薄明の森を抜け、さらに奥――。
ここは普段、調査隊すら足を踏み入れない領域だった。
木々は黒く焼け爛れ、根元には不自然に抉られた跡。
幹の一部はガラスのように溶け固まり、触れれば今なお熱を孕んでいる。
「……イフリート、とまでは言わないがそれに準ずるレベルの痕だ」
ケイタが呟くと、先頭を行く斥候が頷いた。
「間違いねぇ。しかも一体や二体じゃない。足跡も焼痕も、複数ある」
後ろで術士が眉をひそめた。
「イフリートには劣るとはいえ、そのクラスの魔物が群れるなど本来あり得ん。……誰かが“呼び出している”と考える方が自然だな」
空気は重く、吐息すら灰を含んでいるようだった。
ケイタは無意識に焔月へ手をやる。
その熱が、かえって不安を煽り立てた。
「止まれ」
斥候の合図で足を止める。
そこにあったのは――地面に刻まれた黒い紋。
幾何学と曲線が絡み合い、まるで歪んだ時計のようにも、血を流す月のようにも見える。
「召喚の陣形……いや、未完成だな」
術士が呟く。
「だが……放っておけば完成する。誰かが意図的に設置した“兆し”だ」
一行の背筋に冷たいものが走る。
そこへ、セレイナが一歩前に出た。
「……やはり」
彼女の紅玉の瞳が、黒紋に射抜かれる。
白手袋の指先で空気をなぞると、微かな炎のゆらめきが浮かび上がった。
「高位の炎属性……ただの痕跡じゃない。これ、まだ生きてる」
「下がれ、嬢ちゃん!」
斥候が声を張る。
だが、遅かった。
黒紋から炎の触手が伸び、セレイナの足首に絡みついた。
「……っ!」
紅い火花が弾け、瞬く間に彼女の体を引きずろうとする。
「セレイナ!」
ケイタは即座に駆け出し、焔月を抜いた。
世界が軋む――音が遠ざかり、炎の揺らぎが水の中のように遅くなる。
(届くっ!)
そのまま焔月を振り下ろす。
ズバァン!
炎の触手は断ち切られ、遅延が解けると同時に黒紋が悲鳴を上げるように爆ぜた。
「はぁっ、く……!」
セレイナは尻もちをつき、荒く息を吐いた。
頬に汗がつたうが、瞳は消えない光で燃えている。
「助かったわ……でも、今の……」
彼女は焔月を握るケイタを見つめる。
その視線には驚きだけでなく、確かな興味が宿っていた。
ケイタは黙って手を差し伸べた。
セレイナは一瞬ためらったが――その手を取った。
「……借りができたわね」
セレイナがかすかに震える声でそう言った瞬間、あたりの空気がまた重く沈んだ。
黒紋の残骸がまだじりじりと赤熱し、腐敗した炎の残滓が地表を舐めている。
「撤退するか?」
斥候が緊張した面持ちで言う。
だが、術士が首を振った。
「いや……ここで引き返せば、また“完成”に近づくかもしれん。誰かが意図的に仕掛けている以上、核心を突き止めねばならない」
ケイタは焔月を握り直し、頷いた。
(ここで止まれない。……それに、さっきの黒紋は“試し”にすぎない気がする)
◇
進むごとに、森はさらに歪んでいった。
木々は焦げ、根は焼け落ち、所々には獣の死骸が残っている。
しかし、その死骸は普通ではなかった。――皮膚は黒いひび割れに覆われ、目は焼き焦げた硝子のように濁っている。
「……汚染だな」
術士が吐き捨てるように言った。
「召喚の余波で周囲の生態系が蝕まれている。このまま放置すれば森全体が……」
セレイナが小さく眉を寄せ、唇を噛む。
「放置はできないわ。森は街の命綱よ。――必ず止めなきゃ」
その横顔に、ケイタはふと視線を奪われた。
(あんなに気高くて、なのに……さっきは震えてた)
助けた手の温もりがまだ残っている。
だが、感傷に浸る暇はなかった。
「……待て」
斥候が低く声を上げた。
前方に、また黒紋が広がっている。だが今度は――。
「完成してる……!」
術士が目を見開いた。
「これは……本格的な召喚陣だ!」
次の瞬間、空気が爆ぜた。
炎柱が天へ突き抜け、赤黒い腕が大地から伸び上がる。
歪んだ声が、空間を震わせた。
「――グゥゥゥオオオオオッ!」
巨躯が這い出てきた。炎を纏った魔獣。イフリートではない。だが、その眷属と呼ぶにふさわしい異形。
通常のCランク級モンスターを軽く凌駕する、禍々しい存在だった。
「構えろッ!」
斥候の号令に、各パーティーが一斉に武器を構える。
セレイナが前に出る。
「――私が抑える!」
紅玉の瞳が強く燃え、杖に魔力が集中する。炎を相殺するための対抗魔法。
だが、ケイタは一歩横に出て、低く声をかけた。
「無茶はするな。……借りを作らせたままにするつもりはないんだろ?」
セレイナがわずかに目を見開き、次いで苦笑する。
「……言うようになったじゃない」
二人の視線が交わった瞬間、魔獣が咆哮を上げた。
その衝撃で木々が軋み、地面が裂ける。
ケイタは焔月を抜いた。
世界が、再び鈍る。
音が、炎が、重たく沈む。
(これ以上……街に近づけさせるわけにはいかない!)
焔月の刃が紅い閃光を放ち、深淵の森を裂いた。
――決戦の幕が、切って落とされた。
ちなみにイフリートはAランクです。
冒険者ランクはパーティーだとひとつ上のランクが討伐可能の対象ランクとなりますので、イフリートはBランクのパーティー以上なら討伐可能となりますが、あくまで可能ということで推奨ではありません。




