兆し ― 焔月と地図と禍の紋
街の城壁に寄り添う空き地で、木剣と素振りの音が規則正しく刻まれていた。
「――いち、に、さん……よし、ここまで。リシア、肩が上がってる。肘を張りすぎないように」
「は、はいっ……っ、はぁ……! でも、昨日よりは……」
「振れてるな。大丈夫、ちゃんと進んでるよ」
汗に濡れたリシアが、照れた笑みでうなずく。
俺は木剣を納め、腰の《焔月》に触れた。鞘越しに、刃が微かな熱で呼吸しているように感じる。
――頼りすぎない。けれど、必要な時は迷わない。
その線引きを見極めるのが今の課題だ。
鍛錬を切り上げてギルドに向かうと、受付嬢がこちらを見つけるなり手招きした。
「ケイタさん、リシアさん。ギルドマスターがお呼びです。至急、応接へ」
背筋に冷たいものが走る。
マスター直々の呼び出し――ただ事じゃない。
応接室。重い扉の内側は、いつになく張り詰めた空気だった。
地図が卓上に広げられ、赤い印がいくつも刺さっている。マスターの隣には追跡専門の斥候、ローブ姿の術士、それに数人の歴戦の冒険者たち。
「来たか」
マスターが短く告げ、赤印の位置を指で叩く。
「街の外縁で、本来この辺りに出ない魔物の目撃が連続している。先日のオークもその一つだ。さらに――街に近い浅い森で高熱源の痕跡がいくつも見つかった。樹皮のガラス化、地面の焼結。イフリート級の熱だ」
リシアが小さく息を呑む。俺は僅かに顎を引いた。
「お前が戦った場所も、この一帯だな」
マスターの視線が刺さる。俺はうなずいた。
「……ああ。地形の記憶ならある」
「よし。明朝、偵察隊を出す。ベテラン二組に、斥候と術士。それに、お前たちも同行しろ」
「俺たちも?」
「お前たちが見たもの、感じたこと――地図にない地形の呼吸を歩きながら話せ。文字にならん“現場の匂い”ってやつは、実地でしか拾えん」
マスターの言い回しはぶっきらぼうだが、そこに信用の温度が混じっているのを感じた。
……まだ“完全には認めない”。けれど、“無視はしない”。
それで十分だ。
そこへ、ノックもそこそこに扉が開いた。
「邪魔するわ」
白銀の髪が差し込んだ光を受けて、流れるように揺れた。
セレイナ=フォン=アルディナス。白薔薇の令嬢は、当然のように卓の傍らへ歩み寄る。
「高熱源の痕跡が複数って話、私にも聞かせて。炎系統の魔力歪みなら、私の方が検知が早いはず」
術士がわずかに眉を上げる。マスターは短く鼻を鳴らした。
「好きにしろ。ただし勝手はするな」
「心得ているわ。――現場で“真偽”を確かめたいの。噂じゃなく、この目で」
一瞬だけ、彼女の紅玉の瞳が俺をかすめた。
読み取れない色。けれど刺すような敵意ではない。
隣でリシアが静かに姿勢を正す。俺は短く息を吐いた。
作戦は簡潔だった。
明朝、薄明の街門を出て森林帯へ。主力パーティー二組は左右から扇状に外周を浄化・警戒し、中心線を斥候と術士、俺とリシア、そしてセレイナが進む。
交戦は最小限。目的は原因の手掛かりを拾うこと――印を付け、痕跡を採取し、地図に落とし込む。
「質問は?」
誰も口を開かない。マスターが顎をしゃくった。
「解散。各自、準備を整えろ。……小僧」
「はい」
「お前の“切り札”は、事前申告できんのは分かる。だが使うなら、本当に命が落ちる場面だけにしろ。味方の視界から消えるのは、戦場じゃ危険だ」
喉がひとつ鳴った。
……見抜かれている。
“何か持っている”までは。
俺はまっすぐにうなずいた。
「了解しました」
部屋を出ると、廊下の石床がやけに冷たく感じた。
背後から、気配。
「明日、無茶はしないでくださいね」
受付嬢がいつもの柔らかい顔で、しかし目だけはまっすぐだ。
「気をつけるさ」
「それと……装備の確認を。貸出の鉄剣、前に“ボロボロ”にしてますから」
「ぐ……」
横でリシアが咳払いで笑いを堪え、俺は耳まで熱くなる。
受付嬢は小さく肩をすくめて、そっと包みを差し出した。
「替えの鞘紐よ。煤で真っ黒なままで街を歩かないでくださいね。ケイタさんはいま注目の的なんですから少しは自覚してください」
「す、すみません……!」
リシアが「ふふ」と漏らし、俺は頭をかいた。
◇
夕刻。
鍛冶場に顔を出すと、ブラッドが火床の前でこちらをにらんだ。
「明日、森だとよ。焔月の目釘見せろ。緩んでたら承知しねぇ」
「了解。――どうだ?」
鞘からわずかに引き、刃文が赤い呼吸を返す。
ブラッドは鼻を鳴らし、満足げに頷いた。
「文句なしだ。……折るなよ。折ったら二人で地獄行きだ」
「二人、なのか?」
「当たり前だろうが。お前が潰すってことは、俺の仕事が半端だったってことだ。地獄は共同だ」
妙に格好いいことを言われ、思わず笑った。
◇
夜。
装備の最終点検を終え、宿の廊下でリシアと並ぶ。
彼女の手は少し冷たいが、握る指先には小さな芯が宿っている。
「……怖いか?」
「正直、ちょっとだけ。でも……明日、ちゃんと見て、覚えて、強くなります」
「ああ。俺もだ」
窓の外、夜雲が薄く流れ、月が顔を出す。
白い輪郭が、遠い誰かの気配を連れてきそうで――胸の奥がひそかに波打った。
(試されてる、のか)
誰に、と問えば、答えはまだ霧の向こうだ。
けれど歩く方向は、もう決まっている。
◇
明朝。
薄明の森は、露をまとった葉が光を返し、鳥の影だけが音もなく横切っていく。
中心線の隊列は音を殺して進み、斥候が身振りで合図を送った。
――止まれ。
地面。黒く焼けた足跡。
人のものではない。蹄……ではない。爪でもない。
縁がガラス化して、陽の光をびりびりと跳ね返す。
術士が膝をつき、手をかざして目を細めた。
「……残留熱は薄い。だが魔力の揺らぎがある。自然発生ではない」
セレイナが一歩進み、白手袋の指先で、焼け跡の中心をそっとなぞる。
細剣の柄に触れたまま、彼女は低く呟いた。
「……誰かが、呼んでいる」
その声は、風より細く、しかし確かな重みを帯びていた。
俺は背の汗が冷えるのを感じ、焔月の柄を握り直した。
「引き返すか?」
斥候が問い、マスターから預かった手順書が脳裏をよぎる。
だがセレイナは首を横に振った。
「まだ浅い。引き返すには、証拠が足りない。――もう少しだけ、先へ」
真っ直ぐに差し出された横顔が、朝の光で白く切り抜かれている。
リシアが俺を見上げ、こくりとうなずいた。
俺は息を吸い、歩を進める。
森の空気が、わずかに遅れた。
微かな違和。
風の揺れが半拍、ズレて見える。
(……ここだ)
胸の奥で、何かが静かに目を開いた気がした。
――そして、最初の印が見つかったのは、その十歩先だった。
焼けた岩肌に、黒い紋。
歪んだ時計のようにも、泣く月のようにも見える、禍々しい曲線の連なり。
セレイナの瞳が鋭く細まり、術士が低く呻く。
「……召喚の兆し」
誰が? 何を? 何のために?
胸の鼓動が早くなるのを押さえながら、俺は焔月を一寸だけ抜き、冷たい光を紋へ走らせた。
「……間違いない。自然の現象じゃない」
リシアが小さく震える声で呟き、俺は頷いた。
「どうする?」斥候が問う。
セレイナは前へ進みかけて、しかし足を止めた。
その横顔に、迷いが走る。
「……本当は確かめたい。けれど――」
「引き返そう」俺が口を開いた。
「これ以上進んだら、偵察の範囲を超える。ギルドマスターへの報告が先だ」
「……そうね」
セレイナが息を吐き、細剣の柄から手を離す。
リシアも深く頷いた。
俺たちは印の位置を入念に記録し、土の匂いを胸に刻みながら踵を返す。
森の空気はまだざわめきを残している。
けれど、足を返した瞬間、どこかで冷たいものが静かに遠ざかっていった。
(まだだ。答えは、この先にある)
そう確信しながらも――今は進まない。
試されているなら、その試練に挑む時はまだ先だ。
「戻ろう」
俺の声に、その場の全員が黙って頷いた。
朝霧の帯を、5つの影が引き返していく。
森の向こうで、何かが息を潜めて笑った気がした。




