039 改善の兆し
「ただいま。」
アドルは家に帰ると努めて明るい声で帰りの挨拶を口にした。
「お、おかえりなさい。」
「……帰って来たのか。」
「お父さんもいたんだね。」
アドルのした挨拶に二人の声が返ってくる。アドルの母と父のものである。
いつもであったならアドルが帰りの挨拶をしても母の声しかしないが、珍しくも父も声を返してきた。その声にアドルは驚きの声をあげて、父の方へと顔を向けた。
「……。」
「きょ、今日は久しぶりにみんなで食べられるわね。」
アドルの父はアドルの驚きの声に何ら反応を返すことはなく、部屋の中にある木の椅子にもたれかかっており、じっとうつむきがちに机を見つめている。
沈黙の流れる部屋の空気に耐え兼ねたのか、アドルの母は緊張と共に声を出した。その後に、二人の顔を見比べるようにきょろきょろと視線をさ迷わせて俯いてしまう。
「……ああ、そうだな。」
「へぇ……。」
「んだよ。お前も早く座れ。」
「いや、別になんでもないよ。」
アドルの母の言葉に否定せず、三人で食事を共にするつもりの父にアドルはさも意外そうに口元をへの字に曲げて声を漏らす。
すると、アドルの父は机に向いていた顔を一瞬だけアドルの方へと移してから、また別の方向へそっぽ向く。その父の様子にアドルはおかしそうに笑いを堪えながら首を振った。
「けっ。」
「あなたっ。ほら、アドルも食べましょう。」
「ふんっ。」
あからさまに機嫌が悪そうにアドルの父は顔を歪めながらも、その場を去るつもりはないようだ。三人で食事を共にすると決めているらしく、アドル家においては非常に珍しい光景となっていた。
そんな風に機嫌が悪そうな父に母は呆れたように怒りを声に含ませるが、どこか雰囲気は楽し気で普段感じられない優し気な空気を身にまとっていた。そんな母の様子にも父は何が気に喰わないのかそっぽを向いていた。
「あはは、今日のご飯は何かなぁ。」
「今日は……クリーム煮だわ。」
しかし、母のそんな優し気な雰囲気も鍋にある料理、クリーム煮を見ると曇ってしまう。どうしてか7歳の頃のあの日を思い出してしまう。
「そうなんだ。僕、意外とクリーム煮好きだから。」
「そ、そうなのね。」
「クリーム煮なんか好きなのか、変わった野郎だ。」
アドルの穏やかなな雰囲気に母はほっと一息ついた。その後、アドルの言葉を噛みしめるようにはにかみ、首を縦に何度も振った。
父はそんな母の様子を知ってか知らずか、雰囲気をぶち壊すような言葉を吐いた。当然その場の空気は一瞬固まり、しらーと二人の冷たい視線が送られることになった。
「……。母さんのクリーム煮は絶品だからね。」
「ほー……。」
あどるは呆れた様な視線を送りながらも、母をフォローするように言葉を紡ぐと、母を見ろと父へとアイコンタクトを送る。
すると、気の抜けた声を出していた父は母へと目線を向けると、ぴたりと顔を硬直させた。母の綺麗すぎる笑みを見つめて、ごくりと唾を飲み込むとアドルの方へ目線を向けると、こくこくと頷く。
「ま、まぁ、エレーゼの料理は絶品ばかりだよな。」
「えー、そうなのかしら。うふふ。」
父は少し引きつっているものの、その顔に笑みを浮かべて母の料理を褒めたたえる。
母は父の言葉に頬へと手を添えて、嬉しそうに笑っている。しかし、その目は冷静に父の様子を観察しており、父はそれを冷や冷やとした表情で対している。
「そりゃそうさ。なっ?」
「うん。自信もって。」
「ふふふ。二人にそんな風に言われるなんてね。」
二人から肯定された母が今度こそ目に穏やかな色を浮かばせて、頬に両手を添えるとくねくねと身体をくねらせて全力で喜んだ。
アドル家には穏やかな時間が流れていた。クリーム煮の香りが部屋に広がり、父と母の前にはワインが一本、今日という日を祝福するように置かれている。
「うはははは。」
「はぁ、あなたったらまた酔って。」
「……。」
アドルの父はワインですっかりと酔ってしまったようで、その顔をだらしなく緩ませて陽気に笑っている。いつになく楽し気な父の様子に母は呆れた様な声を出すが、その顔は微笑ましそうに父へ向けられていた。
対するアドルは酒の匂いに顔を歪めて、酔っぱらう父へ鬱陶しそうに眼を向けていた。
「俺はぁ、これでもお前には感謝してんだ。」
「感謝?」
突然、父が語りだしたのはお酒の力によるものか。素面の時では絶対に聞けない感謝という言葉にアドルは耳をピクリと動かして、怪訝そうな目で父を見やった。
「お前が魔物を追っ払ったとかで、そこからお館様に目が留まってよぉ。まぁ、俺はこの有様だからな。お館様に気ぃ使ってもらって、今の仕事を紹介してもらったんだよ。」
「……。」
お館様、ベルベットに目が留まったのは実際のところはアインによる功績であるが、それもアドルが居てこそなのは違いない。
父はこんな有様という言葉と共に右腕へと目線を下すと、一瞬苦々しい表情を浮かべると振り切るように表情を明るくさせて、アドルの方へと目線を戻した。
「お前がいなかったら今の仕事には就けていなかった。」
だからこその感謝。アドルの父にとって今の仕事は普通に生活していては到底就けるものではなく、ケガをする前よりもする後の方が給金が増えているという不可思議な状況であった。
「ま、お前がいなかったら前の仕事を止める理由もなかったがな。」
「……っ。悪いかったね。」
「へっ、赦さねぇよ。赦せる訳ねぇ。……けど……いや、何でもねぇ。」
「……。」
それでも、父には前職への未練が全くないとは言えなかった。余分な言葉を発してしまうのも父の心残りのせいなのだろう。
そんな父に謝ることしかできないアドルは下唇を噛んで下にうつむいてしまう。だが、アドルの父の目は思いのほか冷たい。激情に駆られる訳でもなく、恨めし気に睨むわけでもない。
「うははは、酔っぱらってるみたいだ。こんな辛気臭い話、どうでもいいわ。」
「はぁ、酔っぱらいめ。」
しんと静まる部屋の空気を換えるように父は大口を開けて笑い出す。今までのすべてを笑い飛ばすように、自分のケガも、恨みも、その全てをどうでもいいと吐き出した。
「おっ、そうだ。お前にこの酒をくれてやるよ。」
「は?」
父はぴたりと笑うのを止めて台所の方へと歩き出すと、収納箱からちょうどワインが一本入るくらいの大きさの木箱を取り出した。そして、その木箱をアドルの方へと突き出すと、アドルの目の前の机へと起きた。
アドルはその状況の意味が分からず、目を白黒させると小首を傾げた。
「昔の風習で戦争とかに行く前に、嫁に酒を置いてくんだよ。で、帰ってきたときに一緒に飲もうってな。無事を祝っての風習だな。」
「へぇ。」
名前もない小さな村の名前のない風習だ。今よりもっと危険が多く、魔物とも、人同士とも争っていた時代。戦に出る前に勝利を祈る目的で神へ酒が奉納されていた。そして戦に勝利すると、その酒で宴を開いたのだ。
それが時代とともに変化していき、旅の安寧などの祈りを込めて親しい女性へ送り、無事に帰ってきたときに一緒に飲むという風に変化した。
酒の瓶が割れると凶兆の表れだとか、酒を大事に抱え込んでいると婚期が遅れるなど、根も葉もない噂話なんてものも囁かれている。
「それが転じて結婚してくれって意味にもなるわけよ。で、それはお前にくれてやる。」
アドルは呆然と父の姿を見つめていた。どうにも父の意図が読み切れず、こんな大切なものを自分に託そうとする父の真意が分からずに、困惑するしかない。
「はぁ~、俺がお前にしてやれることなんてねぇからな。いい女がいたらくれてやれ。」
「……それ、いいの?」
「ったりめぇだ。元々、これも親父からもらったものだしな。これぐらいは受け取ってくれ。」
「……ありがと。」
アドルは代々受け継がれてきた酒と木箱を受け取ると、机からそっと持ち上げる。重量は大したものでないはずなのにアドルにはひどく重く感じて、想いを受け取る重さというものを感じ取っていた。
アドルは重さを心に染み渡らせるようにぎゅっとその木箱を抱きかかえると、ぽつりと言葉を漏らした。
「ふふふ。」
「んだよ。」
「いえ、何でもないわ。」
母はそんな父と子のらしい姿が見られるとは思ってもみなかった。ずっと運命に翻弄されるばかりで、絆らしい絆を築いていない二人がこれからも同じように続くものだと思っていたのだ。
この日、アドル一家は家族としての形に改善の兆しが見えていた。その兆しがずっと続くと母はこの時は信じていたのだ。




