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002 アドルという少年

 森の中を決して遅くない速度で駆ける少年がいる。銀髪に蒼天の瞳を持つ少年、そうアドルである。彼はアインとのやり取りを反芻しながらも器用に木々を避けながら駆ける。地面を飛び出す根や横から飛び出てくる枝は彼の駆ける速度を落とすことはなかった。

 アドルが駆ける足を止めたのは森の木々の中でも一際大きい木がある場所であった。森の中にある地面にしては長年踏みしめられているかのように固くなっており、緑が一切なかった。


「くそっ。」


 アドルはイラつきを抑えられない様子で木を殴りつけた。7歳の少年の拳では木に傷一つ付けること敵わず、葉の一枚すら落とせはしなかった。そればかりか拳の皮が捲れており、どこまでも無常に自身のちっぽけさ、孤独さをアドルに感じさせた。

 その現実に折れるかのように膝を折り、片手を地面に着けた。もう片方の手は辛うじて木に当てられているが、今にも崩れ落ちそうに力なく添えられているだけだった。涙を流すことはなかった。彼の擦れた心は彼に涙を流すことさえ許さなかった。


「はぁ、はぁ。もっと頑張らなくちゃ。もっと、もっと。」


 崩れ落ちそうな心を繋ぎとめるのは頑張れば報われるはずだ、という根拠のない言葉一つだった。己の心を頑強に補強するように何度も、何度も強い意志を込めて呟く。それは補強しているかの様で、実は鎖のように雁字搦めに心を縛っているようだった。

 言葉を何度も呟くうちに虚ろに雲がかった瞳は歴として晴れていき、晴天の輝きを取り戻した。晴天を鏡にうつして取り繕っているだけの頼りない明かりだが、確かな晴天である。迷いの消えた心は何よりも強く、それ以外は入り込めない。




「よしっ。鍛練の時間だ。」


 アドルは元気に声をあげ、虚空の渦からナイフを一本取り出した。前に見た行商の護衛がしていた剣の鍛錬を見よう見真似で再現するためだ。記憶の中の護衛がどう動いていたかを思い出しながら、自身もその動きに合わせてナイフを振るう。

 だが、護衛の動きでも再現できるのは一部だけだ。身体の大きさから筋肉のつき方、体幹などあまりにも違うものが多く、また不足している。そのため、本当に基礎の基礎的な部分以外真似出来ることはなく、無理に真似しようとするとナイフに振られてけがをするだろう。実際にアドルは一度ナイフを取りこぼしており、あわや足に刺さるところであった。


「くっ、ふっ。はっ。やっ。」


 ゆっくりと丁寧にひとつひとつ身体を確かめるようにナイフを振るう。切り払い、切り上げ、切り下ろし、突きと一通りの動作を何度も何度も繰り返す。そうして動作を繰り返していると小さな身体が悲鳴を上げ、全身からぶわっと汗が出てくる。

 アドルはそれでも動きを止めることなく、身体を無理に扱う。明らかな無茶をこのまま続ければ倒れ、生死にさえ影響してしまうだろう。死なずとも身体が使い物にならなくなり、後遺症が残ることさえ考えられる。それでもアドルは動きを止めない。心を縛る言葉が動きを止めさせない。


「……っか、っは。……はっ。まだ、……も、っと。」


 結局動きが止まったのはアドルが地面に伏せるように倒れ込んでからだった。彼からでた汗で一面が濡れた地面に倒れこみ、擦り切れて汚れた服を水分が含んだ土でどろりと汚した。

アドルは意識を朦朧とさせながらも意志の光を消さず、しかし身体は動くことなく徐々に彼の意識は虚空に飛ばされていく。彼の意識が飛ぶ瞬間、瞼の裏には緑の点滅した光がふわりと浮かんで消えた。




「……はっ。ここ、は?ナイフ……。くっ、……っ。」


 数刻の後、意識を飛ばしたアドルは目を覚ました。辺りをきょろきょろと見渡していた彼は付近に落ちているナイフを見つけると、意識を失う前に何をしていたかを思い出し起き上がろうとする。しかし、彼の身体は思い通りには動かず、痛みにあえぐしかなかった。

 それでもアドルは身体を引きずるように身を捩り、何とか木にもたれかかるように座って身体を落ち着かせる。だらんと垂れた腕はひどく痙攣し、その疲労度合いを示していた。足は攣り、張ったような感覚と筋肉自体の酷使の痛みでピクリとも動かすことはできない。彼は身体全体を覆う苦痛に顔を歪ませる。


「み、ず。」


 アドルの手の平に渦が出来て、茶碗サイズの木の器がことりと地面に落ちる。器に入っていた水は少々零れたが、それでも器の半分程度は残っており、その器に痙攣する腕を伸ばす。伸ばした腕は狙いを外して器に当たり、器を倒したかと思うと水は地面に流れ落ちてしまう。

 4つ目の器でようやく手に持つことに成功して、口元に器を寄せる。握力などほとんど無くなっている手は器を持つのにも苦労して、震える器から水を零して服をべたりと濡らしてしまう。それでも懸命に口元に近づけるが、器を取りこぼしてしまい地面をころりと転がった。

 口に水を含むことが出来たのはそれから半刻は経った後だ。満足には程遠い量しか水を含めないが、それ以上の気力はもうアドルにはなく、力なく身体を木にもたれかからせた。


「……くっ。もっと、もっと頑張らなくちゃ。」


 太陽が真上を通過し、傾き始めたころにアドルはまた決意するように何度も、何度も言葉を呟いた。彼の心は頑強に補強されえていく、そのたび誰にも入れないように心は雁字搦めに鎖で縛られていくのだ。

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