八月の鯨
十二歳の宗谷青葉は、学校の成績は常に一番の優等生だった。そんな彼が適わないものは、夏休みに都会からやってくる同じ年の従姉妹・香澄だった。
ジリジリとコンクリートを焦がす陽射し、蝉の鳴き声、Tシャツに滲む不快な汗。盆地の村の八月は、畳の上で窓を全開にしても蒸し暑い。青葉の家のすぐ近くで轟々と空気を揺らす車のエンジン音が鳴り止み、ドアの開閉音が響いた。宿題を終わらせておいて正解だった、と青葉は胸をなで下ろす。あいつが来る。
「青葉、香澄ちゃんが来たわよお。ご挨拶しなさい。」
しぶしぶ自室と廊下を隔てる襖を開けて、重い足取りで階段を一歩一歩下がっていく。
「じゃ、俺はこれで。」
香澄の父(青葉にとっては叔父に当たる)がそう言う。
青葉の祖母が玄関先で声をかけた。「慌しいねえ。少しゆっくりしていったらどうなの。」手を軽く振りながら息子を見送る彼女の声には、どこか名残惜しさがにじんでいた。
「三時までに空港に着かないと。帰りは泊まってくよ。」父親はちらりと腕時計を見て言い、車のエンジンをかけた。その表情には急ぎの様子がうかがえるが、別れ際には一応の笑みを浮かべている。
車に乗り込む前に、父親は最後に娘へ視線を向けた。「香澄、勉強はしっかりやるんだぞ。」短いながらも真剣な言葉を残す。
「はあい。」香澄は明るく返事をして父親を見送る。母と祖母が見守る中、車が軽快に走り去っていった。
「今年もまたお世話になります。」
「相変わらず礼儀正しいわねえ。」
まただ、猫かぶり。心の中で悪態をつきながら、青葉は香澄を横目で見た。
「香澄ちゃんの部屋は青葉の部屋の隣ね。青葉、荷物運ぶの手伝ってあげて。」
「わかったよ。ほら。」
「はあ、疲れた。こんなに蒸し暑いのにクーラーもないなんて、田舎ってこれだから。あんた、よくやってられるわね。」
「毎年のことだろ。いい加減慣れろって。」
「扇風機扇風機……と。ふう、ちょっとはマシ。」
いとこの香澄は、同じ年である上に、誕生日も一日しか違わない。東京の千代田区に住む彼女の家族は、毎年夏休みになると祖父母との二世帯暮らしであるこの家に来る。香澄は、扇風機の風を一身に受けながらずっしりとした大きな旅行鞄のチャックを開け、手際よく荷物を畳の上に広げていく。
「あんたはもう行っていいわよ。襖、閉めてってね。」
今年も相変わらずだ。この先の心労を想像しながら、青葉は内心胃が痛くなる思いだった。
夕飯の席では、香澄が用意された料理を礼儀正しく褒めていた。祖母も母もその言葉に上機嫌で、箸を置いては「もっと食べてね」と彼女に勧める。青葉は対照的に、少しだけもやもやした気持ちを抱えたまま、自分の皿に盛られた煮物をつついていた。
「香澄ちゃん、田舎は何もなくてつまらないでしょう?大したこともしてあげられなくて、ごめんなさいねえ」と、母が心配そうに声をかける。
「そんなこと!」香澄はぱっと笑顔を浮かべた。「空気がおいしくて、なによりご飯がとってもおいしいです。毎日こんなにおいしいものを食べられるなんて、羨ましいくらいですよ」
「まあ、そう言ってくれると嬉しいわ」と祖母が満足そうに頷く。いつもは小さく見える祖母の背中が、なぜか少しだけ誇らしげに見えた。
「困ったこととかない?」母がさらに尋ねる。
香澄は一瞬だけ間を置いて、ふっと視線を青葉に向けた。「全然です!青葉くんが優しいから。ね?」
不意打ちの言葉に、青葉の箸が一瞬止まる。まったく、どの口が言ってるんだか。心の中で毒づきつつも、彼女がこちらをじっと見ている視線を無視することもできず、青葉は仕方なく顔を上げる。
「それはどうも……」小さく呟いてみせたが、香澄は相変わらず得意そうな笑みを浮かべている。気まずさを隠すように、青葉はわざと口を尖らせてみせた。
祖母と母は気づいていないようだったが、香澄の瞳には、言葉以上に何か含むものがあった。それが何なのか青葉には分からない。けれど、この家族の中にいる香澄は、普段の彼女とはどこか違う。優等生の仮面をかぶったままでいるのか、それとも彼女の本心の一部が垣間見えているのか。青葉はもやもやした気持ちを抱えたまま、再び箸を動かした。
食後、香澄が座布団の上で満足そうにお腹をさすっているのを横目に、青葉は思わず口を開く。
「どうしてそんなに調子のいいことばっかり言えるんだよ」 「調子がいいって?」香澄は首をかしげ、何も知らない顔をする。 「『青葉くんが優しい』とかさ。きみが言うと、なんか……」 「なんか、なに?」香澄の目がじっと青葉を射抜くように見つめた。 「……なんでもないよ」 言い返そうとして言葉が出てこなかった。代わりに、青葉は目をそらし、台所で後片付けをしている母に声をかけた。 「僕、風呂入ってくるから」
座布団の上でのんびりしている香澄の横を通り過ぎながら、青葉はわずかにため息を漏らした。彼女には、どうしても敵わない気がしてならなかった。
夕食後、香澄は部屋へ戻る代わりに青葉の部屋へ押しかけてきた。
「この問題、間違ってる。この条件はもう一つ六を掛けないと。」
香澄はまじまじと青葉の解いた問題を見て、少し考えてから感心したように言った。
「ふうん、結構やるじゃない。」
それなら、と言わんばかりに香澄は旅行鞄から薄い冊子を取り出して、青葉の前に置いた。
「私立の中学校の入試問題。解いてみる?」
挑戦的な言葉に、青葉は少しだけ背筋を伸ばす。普段から密かに難しい問題集を解いていた努力が報われるときだ、と自分に言い聞かせる。
「わかった。解けたぞ。」
香澄は長い髪を耳に掻き分けて、青葉の解答を覗き込んだ。近づく香澄の顔に、青葉は妙に落ち着かない気分になる。
「正解。二分二十秒ね。わたしのほうが四十五秒早かったわ。」
「時間計ってたのかよ、悪趣味だぞ。」
「当然でしょ。受験問題は時間が勝負だもの。」
その夜、香澄はさらに大胆な提案をしてきた。
「ねえ、青葉。今夜、プールに行きましょう。」
「プール?これから行こうってのか。」
「行くのは夜よ。」
彼女の強引さに半ば呆れつつも、結局断り切れなかった。
暗い水面に反射した月光が、プールサイドを幻想的に照らしている。香澄はワンピースを脱ぎ捨てると、躊躇なく水に飛び込んだ。青葉はその姿を目の端で追いながら、何とも言えない感情を覚える。
「ぼ、ぼく、駄目なんだ。その……泳げないんだ。」
青葉がたどたどしく言うと、香澄は濡れた髪を払いながら手を差し出した。
「ほら、大丈夫。わたしが教えてあげる。」
その夜、青葉は布団の中で目を閉じたまま、数時間前の出来事を反芻していた。水中の冷たさと心地よい浮遊感が、まだ肌の奥に残っているような気がした。隣にいた香澄の存在感も同じだった。彼女の声が直接聞こえることはなかったのに、不思議とその仕草や表情が、頭の中で言葉を紡いでいた気がする。
「なんだろうな、これ……」
独り言のように呟いた声は、自分の耳にも頼りなく響いた。
香澄の笑顔がふっと浮かぶ。彼女の明るい表情には、いつもどこかしら挑発的なものが混じっていた。それは、勝ち誇ったようでいて、こちらの反応を確かめる子どものようでもある。なぜかそれが青葉を苛立たせた。自分は何もしていないのに、彼女の中ではいつの間にか勝敗がついているような気がしてしまうのだ。
悔しい。けれど、それだけではなかった。彼女のその笑顔が、まるで青葉の心の奥深くを知っているように感じることが、さらに厄介だった。
(……なんで、あいつがこんなに気になるんだろう)
思えば、香澄は初めて会ったときから、どこか普通とは違う存在だった。よそから来た彼女は、青葉にとって分かりやすい「仲間」でも「敵」でもなかった。彼女の言動は、親切でありながらどこか計算されたように見える瞬間があって、そんな自分の疑念すら香澄は分かっているのではないかと思わせる。まるで彼女の一挙手一投足に、自分が振り回されているかのような――。
布団に横たわりながら、青葉は天井を見上げる。薄暗い部屋の中で、頭の中だけがぐるぐると動き続けていた。冷たかった水の感触がふいに蘇る。香澄と並んで浮かんでいたあのとき、ほんの少しだけ彼女に触れた気がした。それは水のせいか、彼女のせいか、自分でも分からない。ただ一つ確かなのは、その瞬間、自分の鼓動がいつもより少しだけ速くなっていたことだ。
「……うるさいな、もう」
無理やり考えを振り払うように布団をかぶる。けれど、瞼を閉じるとまた彼女が現れる。水中で揺れる髪の影、口元に浮かぶいたずらっぽい笑み――どうしても消えてくれない。それは心地よくもあり、悔しくもある。
こんな気持ち、初めてだ。
青葉はいつの間にか眠りに落ちていたが、夢の中にも、水中で微笑む香澄の姿が漂っていた。