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モブの生活が穏やかだなんて誰が言ったんだ?  作者: 白まゆら


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淡い恋心と初めての殺人

「……貴方、もしかしてジャクエル・カエン?」

 そう唐突に声をかけられたのは、王都の教会の裏庭。井戸でジュメルバ卿の汚れ物を洗濯していた時だった。

 その声はとても小さく、辺りには誰もいなかったからこそ聞こえたようなものだった。

 そっと見上げると、そこには白金の髪に水色の瞳という今にも消え入りそうな美しい少女がジッと私を見つめていた。

 この色は忘れもしない、私の最も幸せな時の思い出。ディリア・スープレー公爵令嬢だ。

 私は長くなった前髪でサッと目元を隠す。どうして分かった? 昔の風貌とは似ても似つかない姿をしているのに。

 私が内心焦っている事に全く気付かない少女は「おうち、大変だったものね。名前は言わない方がいい?」と聞いてきた。

 大切に大切に箱の中で育てられた少女。世の中の事など一切分かっていない少女。無知な少女に、愛しさが募る。世の中の、私の醜さなど彼女は理解していないだろう。

 今の彼女の眼差しにも、幼馴染の私に同情を向けているだけだという事が分かる。

「……お久しぶりです、ディリア嬢。私の事はどうかジャックとお呼びください。カエンの名は捨てましたので」

 そのまま人違いだととぼけていれば良かったものを、その時の私は何故か彼女の言葉をそのまま肯定してしまった。

「そうなのね。分かったわ。ちゃんとご飯食べなさい。痩せて雰囲気が変わってしまっているわ。今日はお父様と一緒に、いっぱいお金を持ってきたの。それで食べられるでしょう」

 ああ、無知で無垢でこれ以上ないというほど、この国の典型的な高位貴族の娘。

 この教会にたかるジュメルバ卿と同類の人間。

「……ありがとう、ございます」

 私が彼女に礼を言ったところで、誰かの足音が近付いてきた。ディリア嬢。と彼女の名を呼んでいる様だった。

 ハッとした彼女は、キョロキョロと辺りを見回し、サッと井戸の横にある大きな木の後ろに回り込んだ。

 明らかにその声の主から隠れているのだろう。

 そして現れたその声の主は、ジュメルバ卿の側仕え。以前カエン領の話をしていた修道士だった。

「なんだ、ジャックか。ここで何をしている? ああ、ジュメルバ卿の洗濯物か。ククッ、女との情事の汚れ物など洗濯係には渡せないものな。そんな事までお前が引き受けているとは、側仕えになりたくて必死か。お気の毒に」

 蔑みを隠さない物言いに、私は力なく笑う。

「それよりも、ここに女が来なかったか? 貴族の娘だ」

「……いえ、私はずっとここにいましたが、見ていません」

 キョロキョロと辺りを見回し、男は納得したように頷いた。

「そうか。あちらの方に行ったのかもしれんな。ああ、見かけたら俺に知らせ引きとめて置け」

「……どうなさるのですか?」

「俺の女にする。スープレー公爵の娘だからな。あれには価値がある」

 たかが修道士が何を言っている? 私は俯いたまま話を続ける。

「ですが、彼女は第二王子の婚約者ではなかったですか?」

「やってしまったら、文句は言えないさ。まともな抵抗も出来なさそうな女一人、手に入れるなんて簡単な話だ」

 下種な言葉に私は眉根を寄せる。

 長い前髪に隠れた私の表情に気付く事無く男は、いいな、見つけたら知らせろよ。と言い残しその場を去って行く。

 私は洗濯物を干すと、木の影に隠れるディリア嬢に父親のスープレー公爵の元まで送って行くと言った。

「ありがとう。彼ジッと私の事を見つめて、ちょっと気持ちが悪かったの」

 どうやら彼女には、先程の私達の会話は聞こえていなかったようだ。私は彼女に注意を促す。

「彼には近づかない方がいいですよ。何をされるか分からない。貴方には第二王子という素晴らしい婚約者がいるのですから」

 私が町で見かけた第二王子の姿を思い出しながら話すと、ディリア嬢は感情のこもらない顔で歩きだす。

「ああ、ユマノヴァ様ね。別に……彼は関係ないわ」

「関係ないって……とてもお優しそうな方に見えましたが」

 私は彼女の後を追う。

「優しいのでしょうね。誰にでも優しいわ。でもそれだけよ。正直興味はないわ」

「え?」

 私が驚いて言葉を返すと、ディリア嬢はクルっと振り向き私を見る。

「私、何にも興味が持てないの。だって私は、お父様の言う事さえ聞いていればいいのだもの。お父様はいつもおっしゃるわ。男性には逆らうなって。だから私は彼の言う事に頷いていればいいのよ。自分の意見なんて持つ必要はないの」

 ――驚き過ぎて言葉が出ない。彼女は一体、何を言っているのだろうか?

「それなのに、彼は私に聞いてくるのよ。甘い物は好きかとか欲しい物はないのかと。変な人。私には好みなんてないし、そんなのお父様に聞いてくださればいいのに。私の持ち物は全てお父様が用意してくださるのよ。正直、彼に会うのは疲れるわ」

 やはり第二王子は優しい人のようだ。感情のない彼女に必死に気を配っているのがよく分かる。だが、悲しいかな。彼女の心には伝わっていない。どうして彼女はこんな、心無い人形のような女性になってしまったんだろうか?

 それ以降、彼女は父親と共に何度も教会を訪れる様になった。

 第二王子の婚約者として、教会に助力する姿を民にアピールする為なのかもしれない。

 彼女を狙っている修道士は、舌なめずりで彼女が来るたびにベタベタと触れている。このままでは彼女が危ないと思うものの、ジュメルバ卿の裏を探っている私には、表立ってどうする事も出来ない。

 ある日、廊下を曲がった所で彼女があの修道士に個室へ連れ込まれようとしていた。私は咄嗟に柱へと隠れる。感情のないはずの彼女の瞳に、恐怖の色が見えた。

 咄嗟に復讐と彼女の身の危険を秤にかけていると、そこにジュメルバ卿が通りかかった。

 流石のジュメルバ卿も、その光景に眉を顰める。

「貴方も同意の上なのか、ディリア嬢?」

「もちろんです。そうですよね、ディリア」

「わ、私……」

 自分達は想い合っていると言う修道士に、彼女は何も言えないようだ。スープレー公爵の男に逆らうなという間違った教えを守っているのかもしれない。

 ジュメルバ卿は大きな溜息を吐くと、修道士から彼女を引き離す。

「流石にスープレー公爵を敵に回すわけにはいかない。お前達が想い合っているのなら、こんな形ではなくちゃんと公爵の許可を得てからにしろ」

 その言葉に、修道士は大きく目を開く。

「何をおっしゃるんですか、ジュメルバ卿。貴方だって散々好き勝手してきたではないですか。それを今更、聖人ぶるのはやめていただきたい」

「馬鹿な事を言うな。私は恥ずべき行為はとっていない。それに私はスープレー公爵を敵に回すなと言っているだけだ。彼さえ認めるのなら好きにすればいい」

「公爵の許可など、彼女さえ私のものにすれば後でどうとでもなります」

「彼を甘く見るな。この脳筋の高位貴族の中において、中立の立場を維持している人物だぞ。怒らせれば痛い思いをするのはこちらだ」

 ジュメルバ卿はディリア嬢の為というより、スープレー公爵を怒らせた場合の不利益を考えているようだ。

 睨み合う二人の間で、ディリア嬢は少しずつ後ろに下がる。そうしておもむろに、ダッと後ろへと走る。

 気付いたジュメルバ卿が追いかけようとする中、修道士は懐からナイフを取り出す。それを見たジュメルバ卿が「何をしている?」と修道士に詰め寄った。

「今日の事を公爵に話されたら困りますからね。脅しをかけておきます。ついでに頂いてしまえば彼女も父親に何も言えないでしょう」

 修道士は彼女をナイフで脅し、襲うつもりだ。私は体がブルブルと震えた。

「放っておけ。彼女には父親に告げ口など出来はしない。あれは人形と同じだ。考える力も怒る気持ちも何もない。このまま逃がしてやれば、何食わぬ顔でまたやって来るさ」

 ジュメルバ卿は修道士の手からナイフを抜き取ろうと、手をかける。

「だったらアレをくださいよ。私はアレが欲しいんです」

 ジュメルバ卿の手を振り払う修道士。ピッとナイフがジュメルバ卿の手をかすめる。

「いい加減にしろ! ここで彼女を傷付けたら、公爵になんて言い訳するつもりだ」

 ガッとナイフを押し返したジュメルバ卿が目にしたのは……。

 胸にナイフを刺した修道士の姿。

 え?

「ジュ、メルバ卿……なんで……」

「わ、私は、知らない。自分で刺したのだろう。待ってろ、すぐに人を……」

 ジュメルバ卿の言葉が終わらぬうちに、修道士の体はジュメルバ卿の方へと傾いて行く。

 ジュメルバ卿は「ヒイッ」と言いながら、倒れて来る修道士から逃れる。

 バタンっと前に倒れた修道士は、ピクリとも動かない。

「わ、わ、私は……」

 顔を真っ青にして震えるジュメルバ卿は、そのままぺたりと床に座り込む。

 ――ああ、彼は人の上で悪巧みをしても、自分の手は汚した事がないのだな。人の死にゆく瞬間を間近で見たのも、これが初めてなのかもしれない。

 言葉一つで、カエン領を大量殺戮の場にかえたというのに。

 私は何故か冷静にその場を見つめる。

 震えるジュメルバ卿。前にはジュメルバ卿が刺した死体。このままでも彼は人殺しとして、失脚するだろう。だけど、それだけでは足りない。

 この現状では、彼はディリア嬢を救って人を刺してしまったという事実が残る。

 それでは人々の心に、彼は善良な人間として残ってしまう。

 それでは駄目だ。

 私はそんな美しい失脚など望んでいないのだ。彼には惨めたらしく、大悪党としてその存在を消し去ってほしい。

 私は柱から出ると、スッと彼の前に進み出る。

「大丈夫ですか、ジュメルバ卿」

 ビクッと体を揺らすジュメルバ卿。まさかこの現場を見られるとは思っていなかったのだろう。

 すっかり色を失くした彼の顔を見ながら、私はニッコリと微笑んで見せるのだった。

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