ブサカワな犬と冬籠もり ~美男子を拾うことなかれ、婚約者のいる人はお断り~
透き通るような淡い早朝の空が頭上いっぱいに広がっていた。
冷気が首筋を伝う。襟口から冷え冷えとした空気が忍びこんできて肌が粟立った。隅から隅まで凍えるみたいに冷たくなった空にリーシャは雪の予感がした。
寒さが大地をがっちり掴んで離さないような、そんな冬の朝に。
ものすごく不細工な犬を、リーシャは拾ってしまった。
傷だらけで毛もまだらに抜けてボロボロで、血が焦げたお鍋の底みたいに体中にこびり付いていて。そんな瀕死の犬が何故か森の入り口に落ちていた。
犬の隣には金髪の立派な服を着たハンサムな男の人も並んで落ちていた。
リーシャは、そのハンサムな男の人の顔をマジマジと見て驚愕した。
驚きのあまり、ダッシュで行動する。
まずハンサムな男の人のあちこちを触って怪我をしてないか確認して、単に意識を失っているだけだとわかると、リーシャは獣よけの草を周囲にバラ撒いた。
次に、森の奥の精霊が住むという伝説を持つ泉で薬をつくるための水を汲もうと荷車を引いて来ていたので、リーシャは大柄でずっしりと砂袋みたいに重い犬をよろめきながら乗せた。そして、その場からガラガラと車輪を軋まして急いで家へと帰ったのだった。
早朝ゆえに人目はないのを幸いに、ハンサムな男の人のことをリーシャは見捨てたのである。
雪が降りだすのを誘うように吹く雪風が、びょう、と流れていたので今日は森へ入る村人が多いことをリーシャは知っていた。雪の前に備蓄用の食糧や薪をとるために。だから、すぐにハンサムな男の人も誰かに拾われるだろうこともリーシャにはわかっていたから。
たぶん高確率で幼なじみのカレンが。
昨日、早朝に森へクッキーに使う木の実を取りに行く、と話していたことをリーシャは覚えていた。それに、こちらに向かってくるカレンの姿が遠くに見えていた。
リーシャは犬を家に、うんしょうんしょと運び入れて買い物かごを持って村の広場へ行った。すると、リーシャの予想通りカレンの一家がご領主様のご子息を森で助けたことが話題になっていた。
何気なく会話に加わって、
「まぁ、ご領主様の?」
と、さも驚いたような声をリーシャはあげる。
「そうなのよ。森の入り口でカレンちゃんがお助けしたそうよ。ほら、カレンちゃんは来年の春になったら村長の長男と結婚するでしょう。だから冬籠もり前の思い出に家族揃って森に木の実を取りに行ったんだそうよ。そしたら金髪のハンサムな方がーー」
ほくほくと、おしゃべりで必要な情報を仕入れたリーシャは大満足して足取り軽く帰宅した。
翌日、村に今年最初の雪が降った。
この辺境の村の冬は長い。
ひとひらの花びらのような雪が落ちてくると、あっという間に家が埋まるまで降り続く。積もった雪のため家からほとんど出ることがなくなり、近隣の住人との交流も途絶えるのだ。
どの家も家族だけで過ごす冬を、ひとりで過ごすのは寂しい。
だからリーシャは不細工な犬を拾ったのかもしれない。人間のハンサムに抱きつく勇気はないけれども、犬ならばもふもふの毛皮を抱きしめて温かい体温を分けてもらえると思ったから。
凍える冬を温めあって越えたかったから。
暖炉に火を入れて。
銀狐の毛皮を何枚も重ねて、傷だらけの犬を横たえた。
炎が不規則にゆらぐ。
パチリと爆ぜる小さな火は、生まれては消える小さな妖精のようだ。
リーシャがぬるま湯で犬の毛を拭いてゆくとタオルはたちまち真っ赤に染まった。綺麗に清拭してから傷のひとつひとつに丁寧に薬を塗る。
犬は暖かい暖炉の前で丸一日眠って、目を覚ました。金砂を内包するラピスラズリのような青い目だった。
「おはよう?」
声をかけたリーシャを訝しげに見る。どうして自分がここにいるか、疑問に思っている目だった。
「犬さんはね、金髪の男の人といっしょに森の入り口で倒れていたのよ」
ラピスラズリの目が瞬く。
目には知性がありリーシャの言葉を理解しているようだった。
「死んでしまうかと心配していたのよ。よかったわ。お水を飲む? ご飯は食べれそう?」
尋ねながらリーシャはテキパキと水と食事の用意をする。
犬は水の桶に頭を突っ込んだ。よほど喉が乾いていたらしくガフガフと音をたてて水を飲む。
食事も、昨日まで死にかけていたとは信じられぬほどに大量に平らげた。
「すごい」
リーシャは冬の食糧備蓄を頭の中で計算した。大丈夫。家族と冬を越す予定だったから、犬がどれほど食べようと余裕はあった。
「さぁ、この薬も飲んでね」
賢い犬はフンフン薬の匂いを嗅ぐと素直に口を開けた。
「おりこうさんね」
「トイレはどうする? 動けないならばオムツをする? それとも場所を教えましょうか?」
のっそりと犬は立ち上がった。オムツは嫌らしい。
知能だけではなくプライドも高い犬に、リーシャは人間に接するように考えを改めた。普通の犬ではないかもしれない、と。
それに回復力が尋常ではない。
深い傷が幾つもあったのに、もう傷口が塞がっていた。
もしかして魔物かも、と持った警戒心は犬のブサイクさにすぐに霧散した。
こんなブサイクな魔物なんていない、と。
それに犬からは朝露に濡れる木々のような清廉な香りがして、危険な獣とは感じられなかった。
付け加えるならば、チラッと見てしまったのだが、ぽこ、としたデベソだった。
哲学者の如くしかめっ面の顔立ちにぺチャンと潰れた鼻、額にはシワがあり、体はがっちりとして足は太く短い。
ブサイクだけれども味があって可愛い、とリーシャは思った。とくに、唸る狼のような眉間のシワが。ペチャ鼻もいい。ブサカワであった。
「あのね、外は雪嵐なの」
犬が窓を見た。
外は天と地の境界線もないくらいに一面に真っ白で、降った雪が空へと逆巻くほど吹雪いていた。
「提案なんだけど犬さんは怪我をしているでしょう。私はひとり暮らしだし、吹雪の間ううん冬の間いっしょにこの家で暮らさない?」
犬は少し呆れた顔をした。
得体の知れない犬に無用心だと、もっと危機感を持て、と顔にありありと書いている。
リーシャはくすくす笑った。
「犬さんは、いい犬さんだと思うわ。だって悪い犬さんだったら今頃もうカブッと噛まれていると思うの」
恩人を噛んだりしない、とブサイクな犬はむくれた顔をした。
こうして始まったリーシャと犬との生活は、なかなか快適なものだった。
意志疎通のできる犬は賢く、リーシャを困らせる行動をすることはなかった。それに犬がいると空気が違うのだ。まるで緑の濃い森の中か、流れる滝の傍にいるような爽やかな空気になるのである。
「犬さん、ご飯よ」
犬は生肉も食べたが、調理した料理の方を好んだ。だからリーシャは、犬に自分と同じ食事を作り共に食べた。
「嬉しい。いっしょのご飯」
人間と同様の具材と味付けの食事は普通の犬には考えものだが、拾った犬は普通の犬ではなかった。
「私の両親は先月に死んでしまったの……」
ポツリ、ポツリ、と寂しさを吐き出すように話をするリーシャに黙って寄り添ってくれて、犬は艶やかな毛皮でリーシャを貝殻のように包み込んだ。
リーシャの両親は腕のいい薬師で、その技術も知識も全てリーシャに教えてくれた。
しかし先月、薬草を採りに森に入って崖から転落して亡くなってしまった。後見のいなくなったリーシャは、直後に村長の息子である幼なじみに婚約を破棄された。
そうして元婚約者は、もう一人の幼なじみであるカレンと婚約を結んだのだ。
リーシャは抗議すらできなかった。
孤児となったリーシャの立場は弱く、文句があるならば村から出て行け、と命令されると何も言えなかった。村人も遠巻きに見るだけで誰も庇ってくれなかった。
16歳のリーシャに味方はいなかったのである。
「だからね、私、春になったら村から出ようと思うのよ。薬師がいなくなってしまうけれども、出て行けと言ったのは村長だものね。それにお金を積めば新しい薬師なんてすぐに呼べるし」
うふふ、とリーシャは笑った。
「実はね、私は小説のヒロインだったの」
何を言ってるんだ、という顔を犬はムッツリとした。
「ほら、犬さんといっしょに倒れていた美青年、領主様のご子息の。彼がヒーローで、彼を助ける予定だった私がヒロイン。彼との恋がメインのファンタジー小説を前世で読んだのよね。彼の顔を見て前世を思い出したの。まさか転生なんてものが本当にあるなんて」
リーシャは頬に指先をあてて首を傾げた。
「小説では冬籠もりは彼として、傷心のヒロインを慰めてラブラブになるのよね。そして春になってヒロインの妊娠を二人で喜ぶのだけれども、彼は貴族で婚約者もいる。さて、ヒロインの最後はハッピーエンドになったけど、カレンはどうなるのかしら? あることないこと捏造して私を陥れて、私から婚約者を奪った強かさで彼ともハッピーエンドかしら? でも幼なじみの村長の息子は嫉妬深いから上手くいく可能性は低いと思うけど、ね」
犬の眉間のシワが大峡谷のようになる。
「でも、いくら嫉妬しようと辺境の村の村長の息子と領主様のご子息様とでは相手にもならないでしょうし。私を村長のちっぽけな権力で押さえつけたように、元婚約者もご領主様の権力で押さえつけられてしまうのかしら? ねぇ、これも因果応報って言うのかな」
リーシャは犬をゆっくりと撫でた。
「私は浮気も不倫も嫌いだから婚約者のいる人は嫌だけど、カレンは顕示欲が強いから、きっと領主様のご子息に乗り換えるのでしょうね」
リーシャは雪野に一輪だけ咲いた花のように背筋を伸ばした。
「不思議なの、元婚約者のこと凄く辛かったのに今はクソヤロウって思えるし。不思議よね、以前の私には辺境のこの小さな村が生きるべき場所の全てだったから、村から出ようなんて思いもしなかった。でも前世を思い出してからは、世界はこの村だけではなく他にもあるのだと、世界は広いのだと思えるようになったの。だから春が待ち遠しいわ」
犬は、ペロリと励ますようにリーシャの頬を舐めた。
「ねぇ、見て。魔法袋よ、両親の形見なの。大容量の袋だから家だってすっぽり入るわ。両親はお金も遺してくれたし、私には薬師の職もある。それにヒロインだって思い出した時、魔法も少し使えるようになったの」
リーシャは拳を握った。
「私、頑張るわ。ねぇ、犬さんは行くところがあるの? なければ私といっしょに旅に出ない?」
と、こんな風にひたすらリーシャが冬中しゃべって、寒さも寂しさも犬と温めあって過ごしたのだった。
犬は返事をしなかったが耳は傾けてくれていたので、リーシャは自分の気持ちを全部吐露することができた。おかげで感情が整理されて、リーシャの暗かった気分は冬籠もり前に比べて、ずっとずっと軽くなったのだった。
美男子よりもモフモフの方が癒される、と犬に感謝したリーシャであった。
太陽と水と土と植物が呼吸をするように緩やかに冬と春の間のグラデーションを、ちろりちろりと雪解けの滴とともに作ってゆく頃。
雪が雨に変わった雨水の日に、リーシャは家をまるごと魔法袋に収納してひっそりと村から旅立った。
犬がリーシャの先を歩き、案内をするように森の中を進んだ。所々に残った雪を踏む感触がブーツに響く。木漏れ日が茂った木々の葉の隙間から金粉のような光を降り注ぎ、地面を星のように光らせ、冬の匂いの残る冷たい空気をやんわりとたわませていた。
「犬さん、どこへ行くの?」
そこはリーシャが冬籠もりの前日に訪れるはずだった泉であった。
小さな泉は透き通った水をたたえて、月の欠片のように、陽の欠片のように、光の加減で僅かに青色や紫色に変化して一瞬だけ虹のような色彩の輝きに水面を揺れさせていた。
リーシャには子どもの頃から見慣れた泉であったが、いつ見ても美しく清らかでリーシャは訪れる度に拝礼する気持ちになり、泉に祈りを捧げていた。
いつものようにリーシャが胸の前で両手を組むと、犬がゆっくりと泉の水を飲んだ。
ほのかに犬の体が光る。
「えぇ?」
リーシャが驚愕の声を上げる。
「犬さん……、に、人間だったの?」
犬がいた場所には厳つい体格の長身の男性が立っていた。
「リーシャ、まず礼を言わせてくれ。ありがとう、怪我の手当てをしてくれて。ありがとう、リーシャが泉に祈りを捧げ続けていたから泉の精霊は、リーシャが連れてきた俺の呪いを解いてくれた。この泉は知る人ぞ知る解呪の泉なのだが、精霊は気に入った者の呪いしか解呪してくれないのだ」
男性はリーシャの手を取った。
「遠くから解呪のために来たのだが、呪いは解いてもらえなかった。消沈している時に魔獣と遭遇して、勝ったものの俺も死の寸前に。あの領主の息子は魔獣との戦いに巻き込んでしまい、気絶したのを何とか村の近くまで運んだのだ」
リーシャは男性の手を握り返した。
「犬さん、賢すぎると思っていましたけど人間だったのですね。よかったです、呪いが解けて」
「前世の記憶だと呪いが解けると、美男子や王子様があらわれるのですが」
リーシャは嬉しそうに笑った。
「犬さんは犬さんのままですね。嬉しいです」
俊敏な若い狼のような雰囲気の男性は、巌みたいな身体に太くたくましい手足をしていて、容貌は鷹の如く鋭い目をして野性的であった。
「リーシャ、冬籠もりの間にさんざんに聞かされてきたから宣言するけど、俺は妻もいないし婚約者もいないし恋人もいない。一生浮気をしないし、ギャンブルもしない。酒は飲むけれども、飲み過ぎないようにする。それから、金もある。それと俺は強いからリーシャを守ることができる。何より絶対にリーシャに暴力なんて振るわない。それから、それから」
くすくす笑ってリーシャは男性の言葉を遮った。
「犬さん、犬さん、まずお名前を教えて?」
あわてて男性は大きな身体で跪き、
「リーシャ、俺はゲオルクだ。名前はゲオルク・アルベルトという」
と真摯なラピスラズリの眼差しでリーシャの手を再び取った。
「それから子どもは好きだ、大切にする。もちろんリーシャはもっと大切にする。あと、えーと、そうだ仕事だ。呪われる前は騎士だった。魔獣討伐の時に仲間を庇って呪われたんだ。家もある、貯金もある」
「だから結婚してくれ」
ロマンチックな求婚ではなかったが、真剣で誠実だった。
「私は薬師なので薬草くさい娘ですけど」
「知っている」
「おしゃべりだし愚痴も言いますけど」
「知っている」
「前世があって自分はヒロインだと言う変人ですけど」
「知っている」
「だが、リーシャは優しいし温かい。俺はリーシャが好きだ。俺と結婚してくれないか?」
ゲオルクからは犬だった時と同じく、安定感と落ち着きをもたらしてくれる爽やかで清々しい香りがした。森の木々の香りだ。
「今すぐ結婚は無理です、だって私は犬さんの時のゲオルクさんしか知りませんから。でも私はゲオルクさんのことを好ましく思っています」
リーシャの返事にゲオルクは厳つい顔を綻ばす。
「十分だ。時間をかけて俺を知ってくれ。俺は毎日リーシャに求婚するから、その気になったら頷いて欲しい」
「はい」
と、リーシャはにっこり笑った。ヒロインにならなくて良かった、としみじみ思いながら。婚約者がいながら女性に手を出す美男子よりも自分だけを愛してくれる誠実な人が一番、と。
1年後、故郷の辺境の村の噂を耳にする機会があった。
婚約者の浮気に激怒した村長の息子は、相手に襲いかかったが返り討ちにあい片腕を失くしたそうだ。しかし相手は領主の息子だったので問題にもならなかった。
カレンは領主の息子についていったが、すぐに飽きられて捨てられてしまったらしい。
そういう噂をリーシャは聞いたが、その頃にはリーシャはゲオルクと結婚していて妊娠中だったため、過去のことと聞き流した。
「この子が生まれる夏が待ち遠しいわ」
「そうだな、だがこうしてリーシャとくっつける冬も幸せだ」
そうして、ゲオルクと暮らす街は故郷の村ほど雪が降らず冬籠もりをする必要はなかったが、リーシャはその年の冬も次の年の冬も、全ての冬を温かく幸福に過ごして生涯を終えたのだった。
読んで下さりありがとうございました。