胃多図曼荼羅
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胃多図曼荼羅は長禄3年〔1459年〕に始まった長禄・寛正の飢饉のさなかに胃多寺和尚満腹が五穀豊穣・満腹祈願を念じて描いた。飢饉は旱魃と台風や大雨による水害に交互に襲われ生じたもので、全国で数多の餓死者を出した。満腹和尚は民の胃の膨れんことを祈り、米・麦・あわ・きび・豆で膨れた胃を精緻に描き、前例のない奇抜な曼荼羅を寛正元年〔1460年〕に完成させた。
この年、いまだ飢饉が続いていたにもかかわらず、胃多集落では不思議と晴れ・雨の塩梅が良くなり、豊作となった。満腹和尚は民とともに腹一杯の白米を食べたと伝えられている。
翌年、全国から多数の僧が胃多寺を訪れ、胃多図曼荼羅の模写を行い、各地に持ち帰った。すると旱魃・水害は遠のき、寛正2年〔1461年〕をもって飢饉は終わった。
満腹和尚の直筆曼荼羅は応仁の乱で寺とともに焼失したが、半腹和尚が寺を再建し、初代曼荼羅よりやや見劣りするとされる現存の胃多図曼荼羅を描いた。胃多集落ではときに半飢饉があったが、餓死者は出さずに明治元年〔1868年〕を迎えた。
胃多寺は明治期の廃仏毀釈により一時廃寺となったが、昭和22年〔1947年〕に復活した。半腹和尚の胃多図曼荼羅は廃寺前に集落の寄合所に持ち出され、無事であった