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誰もがヒーローになれる街

作者: 睦月紅葉
掲載日:2020/08/09

多分初めて書いた短編にほんのちょっぴり手を加えたものです。この文章を読んでくれた方、ありがとうございます。

 成せることもなく、ただ背を畳につけて眼前に広がる暗闇に身を委ねながら、俺は堂々巡りの思考に耐えていた。ぐぅと間抜けな音を立てて腹が鳴る。息をすると肺が痛い。

 何故こんな事になっているんだ? 俺は今までこの町で育ち、そしてこの街のために悪を排除しようとしてきた。なのに、なぜこの街は俺を否定するのだろう? もう、ガスも水道も止められてしまった。電灯など割れて久しい。月末にはこのボロアパートからも追い出されてしまう。国民は皆、健康で文化的な最低限度の生活を保障されているんだろう。どうして、人のために何かをしようとする俺がこんなにも苦しいのに、ただのうのうと暮らす市民はあんなにも幸せそうな顔を晒して街を歩けるんだ?

 くそったれ、くそったれ。俺は心中毒づいた。

 そうして、顔中の筋肉を駆使して目を開き、すっかり細ってしまった腕に力を込めて身を起こした。

 よろよろと立ち上がり、家から出た俺の表情はたぶん、泥にまみれたように汚らわしく輝いていたのだろうと思う。


 この街は特異だ。そう言い切るのには様々な理由があるが、その最たるものが「ヒーロー」がいるということだ。俺は生まれも育ちもこの街だったから、それ自体には全く疑問を感じていなかった。それが普通だったのだ。ごく当たり前に、眠れば明日が来るように、ヒーローはそこにいた。だからこの街に住む子供たちがテレビやフィクションでなく、身近に存在するヒーローに憧れを抱き、その背を追うことにも疑問を差し挟む余地なんてあるはずも無かった。

 そもそも、ヒーローとは何か? 定義だとか心構えだとか、そんなややこしいことは一人一人のヒーロー観というものがあるだろうからあえてそれを長々と話すつもりはない。だが狭義での、つまりこの街においてのヒーローについては説明しておかなければなるまい。誤解を恐れずに、端的に述べるのなら、それは生業の一種である、というのがわかりやすいだろう。ただ、その内容が犯罪者の捕縛、警察への連行という危険な内容であることに加え、法整備が全く整っておらず、また報酬も警察からのわずかな報酬とあって、生活を安定させるには些か心許ない。当然、収入もばらつきがちになる。副業をしようにも、犯罪者はいつだって突発的に現れる。それこそ、昼夜を問わず、神出鬼没に。

 この街の恐ろしいところはそこで、犯罪の発生件数が近隣の街に比べて圧倒的に多いのだ。ヒーローがいるのに、と思うのか、だからこそヒーローがいるのだ、と考えるのかは、個人の尺度によると思う。だが間違いなく言えるのは、この街が普通じゃないということだ。

 少なくとも、俺がそこらにいる、ありふれたガキだった頃にはもう街には大量の犯罪者が蔓延っていて、それと同じくらいのヒーローがいて、それぞれの人口を足すと、ちょうどヒーローを目指している子供の数くらいになった。それくらい、ヒーローに憧れる子供は多かった。無論、ありふれたガキの俺は、物心ついた頃にはすでにヒーローへの憧れを抱いていた。


 犯罪者が嫌いだ。なにを当たり前なことをと言われるかもしれないが、俺は悪い奴が大っ嫌いだ。社会から落ちぶれたクズのくせに、人様に迷惑をかけようってときにだけ妙に吹っ切れたような、悟った顔をするのが気に食わない。奴らは社会のガンだ。誰から学ぶでもなくそう直感した若き日の俺は、大人になったらヒーローになって犯罪者を全員在るべき場所にぶちこんでやらねばならないと決意した。

 そうなるためには何が必要かと考えたが、やはり一番は体を鍛えることだろう。そう考えた。俺は一度決めたらそのことだけに集中するタイプだった。ガキの頃から学業、部活動、友人関係をおざなりにし、ただ自らの鍛錬に時間を費やした。ほぼ生涯のすべてをヒーローになるためだけに犠牲にしたといっていい。

 高校生になった頃には、すでに周りに人が寄ってこなくなってきていたが、別に気にしなかった。それよりもむしろ、卒業までにあと二年しかない。あと一年しかないと無為な焦燥感に駆られ、自己鍛錬にかける時間はますます増えてゆく。そしてとうとう、学校にも行かなくなってしまった。その頃の俺は浮雲だった。ただ浮いているだけの、誰にも気に留められない存在。俺が学校に行かないことを責められることはなかった。なにも、言われるはずがなかった。

 俺がどんな思いで過ごそうと、時の流れは万人に等しい。いつの間にやら、俺は除籍扱いになっていた。一つの連絡すらもなく。どうやら、学校に行かない間に卒業式があったらしい。途中からほとんど学校に行っていないから当然といえば当然だが、何かしらの通知くらいあっても良いのではとも思う。こうなったのは教師が匙を投げたのか、それとも学校側から完全に忘れられていたのか。おそらくは、どちらもだろう。学校なんてのは、ただその場所に行かないというだけで奇特がられる不条理極まりない場所だったから、むしろせいせいした気持ちで俺はヒーローになった。


 あまりにあっさりと「なった」と説明をするしかないのは心苦しいが、事実ヒーロー資格は警察がネット上に公開しているサイトに登録するだけで得られてしまう、カップ麺をつくるよりも手軽に取得できてしまうインスタントな資格なのだから仕方ない。ヒーローの居場所は常にGPSで警察が把握しており、犯罪者が確認され次第、その場所に最も近いヒーローに連絡がいく仕組みだ。俺は熱意をもって連絡を待った。

 五分ほど経っただろうか。スマホが犯罪者の出現をけたたましいアラームと共に知らせた。見ると、近所のコンビニが強盗に襲われているとの情報がディスプレイに表示されている。こんなにも早く初出勤とは。俺は勢いよく家を飛び出し、コンビニへと急いだ。いくらこの街には掃いて捨てるほど多くの犯罪者がいるとはいえ、まさか登録からノーブランクでの呼び出しになるとは思いもしなかった。全速力で道を駆けながら、全く関係のない、延々と釣り糸を垂らして獲物を待つ漁師に思いを馳せ、少し馬鹿にした。

 そんなくだらないことを考えている間に、俺の鍛え抜かれた両足は無為な思考をする俺の頭を自動的に目的地へと運んでいてくれていた。視界には分かりやすくドデカい穴の空いたコンビニの窓ガラスと、その奥で店員にナイフを突きつけるヘルメットをかぶった男がはっきりと映り込んだ。

 俺は全力疾走の勢いそのままに割れた窓から店内に飛び込み、男の背中に思い切りタックルを仕掛けた。不意打ちも不意打ち、完全なる死角からの一撃に、男は為す術なく体の側面を床に強く打ちつける。解放された店員が逃げるのに目を向けながら、意識はたった今突き飛ばした男の方に向ける。男はよろよろと、しかし確実に起き上がり、床に落ちたナイフを拾って俺の方向に構えた。予想外の乱入者の登場にもうろたえ逃げ出すような空気は無く、あくまで「やる気」であるらしいことが、その闘志に満ちた目から感じ取れる。

 男はナイフを突き出し、わああと雄叫びを上げながら、一直線に突っ込んでくる。男はスマートな体型であり、常人相手であれば十分な恐怖を与えうるであろうスピードを乗せた突きが眼前に迫った。だが俺は常人ではない。こういう相手を倒すため、あらゆるものを犠牲に何年も自らを鍛えてきたのだ。相手をギリギリまで引きつけて体を傾けながら右前方に大きく一歩を踏み込むと同時、左拳を全力で前に突き出した。確かな手応えとともに、左腕に成人男性一人分の体重がずしりとかかる。からんと軽い金属が床を叩く音が鼓膜を揺らす。俺が腕を引くと、男は自らの両足で重力に抗うこともままならず、どしゃりと床へ崩れ落ちた。

 俺はふうと一息つくと、思ったよりも自分が平静であることに気がついた。記念すべき初仕事だというのにこんなにも落ち着いているのは、きっと現実が思ったより淡泊であったからだろう。自分の心に僅かながら言葉では言い表せないしこりを感じたが、それを無視して警察へ連絡した。


 十分もしないうちに制服警官が二人連れで駆けつけ、一人は強盗の腕に手錠をかけると、未だ気絶しっぱなしの強盗を半ば引きずるようにパトカーに乗せた。もう一人は俺にいくつかの質問をし、俺がヒーローだということを確認すると、さも面倒そうに制服のポケットから財布を取り出して俺に裸の五千円札を突き出してきた。唐突な警察の行動に困惑していると、これが報酬だと平坦な声で言ってズボンのポケットに札をねじ込んできた。慌てて引っ張り出したが、無理矢理小さなポケットに入れられた札はしわくちゃになってしまい、先ほどまで札の中で柔らかな表情を浮かべていた女性は一瞬にして三十年分の皺を顔中に刻んでいた。

 俺は美人「だった」札の女性に憐憫の念を抱かざるを得なかった。

 警察は各々の仕事を終えると早々にパトカーに乗って去って行った。ねぎらいの言葉一つ無く、感謝の言葉一つ無く。駆けつけてくる時も今も、サイレンは鳴らしていなかった。それは暗に、事件性ナシを意味するシグナルだ。警察の行動は迅速で無駄が無かったが、それと同時に仕事に当たる人間が少なからず発するべき覇気もまた一切無かった。まるで日々の習慣のように、まるで食事後の皿洗いのように、面倒だが行わなければならないという空気があった。彼らの態度にはそこに本来あるべき何かが欠如していた。だが、それがなんなのかはいくら考えても分からなかった。長く務める仕事ならそんなものなのだろうと俺は俺を納得させ、帰路についた。しわくちゃの五千円札を握りしめながら。


 ヒーローを初めて一週間、俺は現実を知った。犯罪者確認の際のヒーロー招集は、一定範囲内にいるヒーローすべてに配信されるという。どうやら、初出勤時に他のヒーローがいなかったのはただの幸運であったようだ。犯罪者が複数ならいざ知らず、たいていの場合は過剰な数のヒーローが駆けつけ、たった一人にしか与えられない報酬を巡り高頻度でもめ事が起こる。もめだしたらその流れのまま、誰かが誰かをどつき始める。どつかれたものはまた違う相手を殴る。彼らは皆俺と同じような人種だ。理性的に、論理的にすれ違いを解消する術を持たない。そうして次第に、醜い争いの輪が形成されていく。時には争いに入ったこともあったし、遠巻きに眺めるだけのこともあった。どちらの場合も、なぜヒーローがこんなにも不毛な争いをしなければならないのかと心のしこりが自身の存在を主張した。だが俺はヒーローなのだ、悪を排除するという大義名分があるのだと自身に言い聞かせ、この愚かさを正当化していた。


 ヒーローを初めて一ヶ月、俺は幻想を捨てた。犯罪者一人につき五千円。掃いて捨てるほどいる犯罪者の数からして一見割のいい仕事だと思っていた。

だがヒーローもまた、この町中に点在しているのだ。犯罪者はいつだって突発的に現れるがヒーローはそうでない。ある種組織よりも組織化されたシステムに則って確実に悪を排除しようとする。

 1の脅威には10の正義を。そしてその中のたった1の正義のみが『仕事』を果たせばいい。あとの9は頭数。

 そんな考えのシステムに組み込まれた俺たちヒーローはたとえどんなに素早く犯罪者の元へ駆けつけ10の一部となれたとしても、1たる報酬の受取手にならないと全くもって得はないのだ。

 無論、仕事をやりきったという達成感はある。悪を懲らしめたという高揚感もある。ヒーローとして活躍できているのだという充実感もある。

 だが現実問題、達成感で飯が食えるだろうか? 高揚感で家賃を払えるだろうか? 充実感で清潔な服を手に入れられるだろうか? 

 答えはどれも否である。たとえどんなに正義に燃えていたとしても、金が無ければこの国では生活できない。やがてその炎も鎮火してしまうだろう。五千円という金額は、この国で生きていくためのヒーロー活動の見返りとしては確実に釣り合わない。初めから分かっていたつもりだったが、いざ実際にその状況に立たされるとやはり辛いものがある。俺がどんな文句を言ったところで、周りからは自分の意思でやっていることだろうと言われるのだと思う。きっと、市民を守るヒーローの多さが故に市民の意識が曇っているのだ。いて当たり前なのだと。犯罪者が多くとも、彼らがなんとかしてくれるだろうと。子供にとっての憧れで、大人にとっての防犯グッズ。この街で言うヒーローとは、だいたいそんな立ち位置のものなのだろう。


 ヒーローを初めて2ヶ月、俺はアルバイトを始めた…かった。出来なかったのだ。その理由もやはり、ヒーローである。悪の迅速な制圧が求められるヒーローは、いつでも出動できるように常にその身を空けておかなければならない。そのため、一度の出勤で少なからず拘束時間の発生するアルバイトなんて出来やしなかった。どんな業種の面接に行こうが、「アルバイトしている暇なんて無いだろう、君はヒーローなんだから」と突き返されてしまうのがオチだ。

 何度も面接に落ち、どんどん生活は苦しくなってゆく。ヒーローとして一日に少なくとも五件は出動し、報酬は一週間で一度受け取れれば運のいい方だった。

 それでもヒーローであり続ける限りその責務は絶えない。日に日にヒーロー同士の無意味でしかない乱闘に参加する日が多くなり、もはや犯罪者よりも同業者と戦っている方が多いのではないかと思い始めた頃、俺には知り合いが出来た。二年間ヒーローをしているという先輩だ。彼はとあるひったくり犯を十二人がかりで押さえた後に、駆けつけた警察をも無視しながら誰が報酬を受け取るべきかで一触即発の空気になった猛るヒーロー達をどうどうと諫め、仲裁してくれた男だった。

 彼は俺に色々な事を教えてくれた。ヒーローがいないと生活がままならぬほど治安が良くないのにも関わらず、そのヒーローが活動するための政策やインフラがまるで整っていない事。何をするにも「ヒーロー」が枷となる事。どんなに優秀なヒーローでも、その生活は極めて困窮している事。警察の出動が近隣の町に比べて著しく少ないこと。

 何もかも、思い当たる節がありすぎた。彼の語る一言一句、彼の表す一挙手一投足、その全てが俺とリンクしているとさえ感じた。気づけば俺は、彼の背を追っていた。彼についていけば何かが報われると、何かが変わるのだと信じて疑わなかった。


 ヒーローを初めてどれほど経っただろうか。自宅の食料が尽きた。新たな食糧を買いに出かけようにも、俺のちっぽけな収入では何とか家賃を払うので精いっぱいだ。どこぞのテレビ番組で見た男のように、野山を駆け回り完全なる自給自足をすることも考えたが、この街は都会だ。周囲に森も山もありはしないし、ましてや野生動物がそのあたりを闊歩している可能性なんて五歳児がヒーローになって大儲けするくらいあり得ない。

 それだけでも堪えるというのに、不幸というのは連続するもので、自宅が空き巣に入られた。俺の住まいはとことんボロいアパートのため、鍵をかけていたところでいくらでも侵入のしようはある。六畳一間の俺の城は、見るも無残に荒らされていた。なけなしの金にちゃぶ台、さらには布団までもが盗られており、ご丁寧に電灯を割っていくというおまけまで付いていた。パンパカパーン。逆ジャック・ポットだ。これで正真正銘、俺は無一文。もう何もかもがどうでも良くなって、無情にも襲い掛かる空腹を、睡眠の一手で黙らせた。もっとも、その睡眠だって畳にごろ寝なのだから、お世辞にも良い眠りになるとは言い難いが。


 次第に、起きられなくなることが増えた。栄養失調による体力の低下だ。犯罪者の出現を知らせる爆音のアラームに飛び起き、それが数分前から鳴り続けているものだと確認してはもう間に合わないだろうと結論付け、また深い眠りへと戻っていく。そんな生活を続けていた。当然、完全歩合たるヒーローの収入はゼロになる。何もない家の中、俺が出来ることはといえば、畳の目を数えるか、割れた電灯の破片を最大限に有効活用したパズルを楽しむ事くらいだった。

 人様の役に立とうと息巻いた結果がこれである。体力の低下によって衰えてゆく体とは裏腹に、くそったれな現状によって過剰に動かされた脳は止まることのない波のように不毛でしかない思考を強要してくる。時には激しく、時には微かに。だが、止まることなく。いつぞや感じた心のしこりは、今やこの体を動かすことを阻む倦怠感となり、堂々巡りの思考を続けさせる潤滑油となり、そうした自分を憎む嫌悪感になっていた。


 ヒーローを初めて…いや、もはや俺はヒーローと言えるのだろうか。ただの社会の掃きだめを構成する一部品と成り果て、周りから疎まれるだけの存在になっている気さえしてきた。かつては、周りからどう思われようがそんなことどうだってよかった。ヒーローになるというその信念が何よりも大きく、また何よりも価値あるものだったからだ。だが、この現状を見て俺を「ヒーロー」という者がいるだろうか? いるはずがない。今の俺は誰を救おうとも、何に抗おうともしていない、ただしぶとく自分が生きることしか考えていない、それこそまるで掃きだめにたかる虫けらのような、正真正銘のクズだった。

 以前の俺を知る者が今の俺を見たとて、すぐに俺だと気づくことはまず不可能だろう。考えどころか、身体さえも変わってしまったのだから。あれほど鍛え、丸太のようだった俺の腕はいつの間にやら枯れ木のごとく痩せ細っていたし、はち切れんばかりだった俺の脚は今や、当時のズボンの片足分に両足がすっぽりと入ってなお余裕があるほどだ。胸にもあばらが浮き出たうえ、顔からは覇気が抜け落ち隈と皺が表れていた。望まぬセルフ整形の成功だ。環境というのはとんだヤブ医者らしい。

 そういえば先日、彼が訪ねてきた。ヒーロー同士の争いを諫めてくれた彼だ。彼は言った。私も生活が苦しいのだと。彼は報酬目当てのヒーロー同士の諍いを止めるほどの人なのだ。無理もないことだと感じた。彼はまだ何か話したそうだったから、俺は続きを促した。次に彼の口から転がり落ちてきた言葉は俺のあらゆる部分を震撼させた。なんと彼はひったくりをしてその日暮らしをしているのだという。あまりのことに俺は彼を問いただしたが、彼の沈痛な面持ちは俺の言葉をことごとく拒絶し、見えない泥がこびりついているかのように淀んだ顔をしていた。だのに、その瞳だけはやけに爛々としており、言葉にしがたい恐怖心が俺を襲った。彼はそれきり黙ったままだった。

 日も暮れかけた頃に彼はぽつりと帰りの挨拶をし、のそりと立ち上がって帰っていった。

 俺は見送らなかった。彼に幻滅していた。よもやヒーローを志した者が、罪を犯すなんて。最低だ。最低だ。あんなやつ、地獄に落ちてしまえばいい。くそったれ、くそったれ。脳内で彼を十回ほど串刺しにした時、俺の腹がぐぅと鳴った。

 気づけば、辺りはすでに暗闇が我が物顔で鎮座している。明かりはない。暗さはやりたい放題に俺の恐怖を煽ってくる。恐怖? 何に? 彼の目を見たときにも感じたが、その正体は分からない。

 とりあえず、何か食べねば。戸棚を開けるとそこには何もなかった。何故だろう。ああ、そういえば食料は尽きていたんだっけ。確認すると、急な脱力感に襲われ、そのまま床へと倒れ込んだ。それにしても腹が減った。何か食べなきゃ死んでしまう。俺の身体はもうボロボロだ。今だってほら、暗闇の中で重力に押しつぶされて背には冷え切った畳の感触を受けている。

 俺は誘われるように眠りへと落ちていった。一日の充実感も、暖かい毛布も無かったが多分、生涯で最も気持ちのよい入眠だった。


 目が覚めるとそこはまだ暗闇の中だった。唯一残った俺の財産、デジタル式の腕時計に目をやると、眠りに落ちてから丸二日ほど眠りこけていたらしいことが分かった。さて、今日は何をしようか。寝そべりながらしばし考えてみたが、何もすることがない。何もないこのボロ部屋の天井を眺めていると、お前に成せることだって何一つ無いのだと通告されているように感じて腹が立つ。ぐぅと間抜けな音を立てて腹が鳴ったかと思えば、息をするのも苦しいことに気がついた。筋肉の衰えはとうとう内臓を真面目に動かす事すらも億劫になったようだ。どうでもいいことだが。

 ふと、彼のことが脳裏をよぎった。ヒーローのくせにひったくりなんぞをした下劣な彼。しかし、どんなに頭の中で彼を罵っていても、実のところ先日ほどには憤りがなかった。だって、そうだろう。人々を守るためにヒーローになったのに、ヒーローの生活は苦しくなるばかり。多くの人々は俺たちを意にも介さずのほほんと平和な日常を送っている。まったくもってふざけた世の中だ。ヒーローを社会が必要としているのに、社会はヒーローに対して何の施しもしない。おかしいと思わないか? ひったくりをしないと生活が出来ないなんて。今の俺はどうだ? 家はボロく追い出される寸前。ガスも水道も止まっていて食料の備蓄もない。ついでに貯金もゼロときたもんだ。

 そうだ。生きていけないではないか。これは、しょうがないのだ。こうしないと、生きていけないのだ。いや、むしろ人間は本来、こうすべきなのだ。

 俺は久方ぶりの確固たる決意を持って、身を起こした。たったこれだけの動きで後にひどい筋肉痛に苛まれそうだったが、そんなことはどうでも良かった。窓から見える空は少しずつ白んできて、暗闇は居心地が悪そうだ。

 さあ、出かけようか。

 俺は軋むドアを開けて外に出た。朝の冷たい空気にあたって、心なしか気分もスッキリした気がする。世の中のモラルなんてものがただ人を苦しめるだけのものなのだということを悟った俺は無敵だ。鍛え上げられた肉体も、燃え上がる情熱もいらない。ああ、素晴らしきかな、人生。ある一つの枷を外しただけで人はこんなにも幸せになれるのだ。今までの人生が馬鹿らしくなった。そろそろ行こう。俺は日が昇りゆく朝焼けの街へと歩みを進めた。


 家から出てしばし優雅な散歩を楽しんでいると、めぼしい老婆を見つけた。彼女をターゲットに決め、俺は歩道をのんきに歩いている老婆の後ろからジョギングをしているふりをして近づき、すれ違いざまに肩にかけていた高級そうなバッグを奪い取って逃げた。時間は早朝、相手は老婆。俺は全力で走った。老婆なりの必死さで追いすがるのを奥目で見ながら、通りを二つ曲がったところで撒いたことを確認した。

 帰路についてすぐバッグの中をのぞくと、現金で数万円が入っていた。ふてくされたような、心を無にしているような表情の、お札の偉人様を見るのは久しぶりだった。これで当分の間、生活に困ることはないだろう。

 俺は多幸感に包まれながら家へと向かう。いくつかの細い路地を通り、家まであと直線だというところで、目の前に男が立った。誰かと尋ねると、そいつはヒーローだと名乗った。ほう、そうか。彼の表情はとても明るく、使命感に燃えていていた。俺にもあんな時期があったなあ。そう思いながら頑張れよと声をかけ、脇を通り過ぎようとした。今の俺にはもう関係ない。俺は俺が憧れていたヒーローには成れなかったのだから。

 肩越しにおいと声をかけられた。まだ何か用があるのだろうか? 振り返ると同時、鼻っ柱がひしゃげる痛みを感じた。その衝撃に、痛い、というより、なぜ? という疑問が先に立った。

 弱々しい俺の身体は慣性の法則に従って地面に転がった。どうやら目の前のヒーローに殴られたらしい。鼻への強い衝撃に対する生理現象として涙が出てくる。ヒーローは倒れたままの俺を蹴り始めた。こいつは俺のことをトレーニング器具かなにかと勘違いしているのではないだろうか。

 やめろと叫ぼうとしたが喉が潰れて声が出ない。せめて顔だけでもとなんとか首を持ち上げるが涙で視界がぼやけてまったく見えない。栄養失調の身体への執拗な攻撃で俺の意識は薄れ、そして次第に途絶えていった。

 結局、最後の最後まで俺は俺が攻撃されている意味が分からなかった。

 俺はこれからこの金で食べ物を買いに行くんだよ───そう思いながら、完全に気を失っていた。


 目を覚ますとまず目に入ったのは、普段より些か高い天井だった。

 色は灰色。身を起こそうと床に手をつくとひやりとした冷感が俺の皮膚を突き抜けた。見回してもあるのは便器と小さな机、立方体の部屋の一面にはめられた黒光りする鉄格子のみである。格子の外には制服警官も見える。どうやら俺は牢にぶち込まれたらしい。初犯行で捕まるなんてまったくもって運がない。

 だがまあ、牢の中には机もある。トイレの水も流せる。少なくとも、あのボロアパートなんかよりよっぽど居心地が良い。その上働かなくても飯が出てくるというのだからシャバに比べるとここはまるで天国であろう。

 そんな頓狂なことを考えていると、牢屋の前に立つ制服警官がなにかスーツの男と話し始め、ほんの二言、三言の会話の後、俺に声をかけてきた。面会だ、と。その声はとても威圧的で、有無を言わせぬものだった。どうこう言える立場ではないが、それでも腹は立つ。内心制服巡査に毒づきながら先導するスーツの男の後に続いた。

 通されたのはよくテレビドラマなんかで見るような取調室のような部屋だった。あのガラス越しに家族が涙涙の再会を果たす部屋では無いのか。用意されていた椅子は三つだった。一つは俺が座り、一つは俺を先導していたスーツの男が座り、もう一つの椅子は空いていた。

 スーツの男はおもむろに口を開いた。君は元々ヒーローだから、懲役150年になる、と。

 はぁ? 頓狂な声が俺の口から漏れた。俺がやったのはひったくりだ。あの老婆だって走って俺を追いかけてきたわけだし、逃げ切った後見かけてすらいない。暴行や過失致傷のセンはない。このスーツの男は何を言っているのだ?

 混乱そのままに、俺はどういうことかと尋ねた。スーツの男はさながら台本を覚えていない役者のように平坦な声で話した。

 ヒーローが罪を犯した場合、それがたとえどんなに軽微なものであろうとその懲役は罪を犯したものの寿命を優に超えると。

 それを聞いた途端、俺の内心の毒づきは腹の中でひっくり返り、瞬間的に立ち上がっていた。怒髪天を衝く、というやつだ。

 こちらはそうでもしないと生活できなかったんだ。何故俺がこんな目に遭わなければならない、と過去に何度も繰り返した思考が戻ってくる。いきり立つ俺をスーツの男はまぁまぁと制し、手で座れというジェスチャーをすると同時に空いたもう片方の手でドアに向かって合図した。

 ドアを開けて入ってきたのは、なんと彼だった。ヒーローの争いを諫めた彼、間接的にではあるが俺の犯行の引き金となった彼だ。スーツの男は彼を座らせると、懐から封筒を取り出し彼に渡した。彼は無言で封筒を受け取ると、すぐさま中身を検めた。現金が数枚チラリと見えた。スーツの男は向き直り、俺に話しかけてきた。今度は台本棒読みではなく、諭すような話し方だった。彼もまた君と同じ状況だったのだ、と。

 スーツの男はいくつかのデータを俺に示した。この街の犯罪件数が近隣の街と比べて抜きん出て多いこと。なのに警察官の出動件数は明らかに少ないこと。そして、この街の警察は総じてあり得ないスピードでの出世を果たすこと。等々……。

 何故か分かるか、とスーツの男は問うてきた。分からないと俺が答えるとスーツの男は彼を指し示し、これが答えだ、と言い放った。なおも飲み込めず首をかしげる俺に対してスーツの男は悠然と語り出した。


 数十年前、もとよりこの街には犯罪者が多かったが、今ほどの数ではなかったという。それでもすべての犯罪者を取り締まるのは難しいと考え、当時の警察はボランティアを募った。「正義感あるヒーローを募集!協力者には金一封!」と銘打って。果たしてそれが、大成功を収めてしまった。成果が出たばかりか、街を脅かす犯罪者への恐怖と鬱憤は多くの市民を行動させ、犯罪者の多くを市民が発見、捕縛したのだ。警察の出る幕のないほどに。本来はめでたい話なのだろうが、そうはいかない。この大量検挙に数人の警察官が出世した。実際の出動は平常時よりも少ないのに、である。

 このローコスト・ハイリターンな仕組みを作り上げた警察組織はこの機を逃すまいとあるシステムを確立した。「ヒーロー」である。ボランティアとも職業ともつかない微妙な位置に置かれたそれは、人員の欠如に悩まされることなく多くの犯罪者に対する脅威となり続けた。するとどうなったか。街から犯罪者が消えたのである。これに警察は頭を抱えた。的外れな悩みである。実際、喜ばしいことのはずだ。なおも犯罪者が現れるのなら通常通り、警察が出向いて検挙すればいい。だが警察はもう蜜の味を覚えてしまったのだ。一度覚えた楽はもう手放せない。

 だが幸運にも……いや、不幸にもというべきか、新たに犯罪者が現れ始めた。もともとヒーロー活動に専念していたものが、生活に困窮し強盗や詐欺行為を行い始めたのである。警察はこれ幸いと彼らを捕らえると、あまりに横暴な懲役を科して元ヒーローたちにこう言ったのだ。「新たにヒーローを犯罪者に仕立て上げろ。一人につき何年か懲役を減らしてやるし、望むのなら歩合で金も出そう」と。警察は長い年月をかけ世論を操作し、「ヒーローはいつでも出動可能な市民の味方」という構図を作り上げた。

 これによってヒーローの副業を困難にし、ヒーローである限り市民に対して不義理な行動を取れなくした。警察組織の独善的な怠慢のために───。

 語り終えたスーツの男はふぅと短い息を吐いた。気づけばあの彼は消えていた。金を受け取りに来ただけだったのだろう。あるいは、俺に対してのパフォーマンスも兼ねていたのかもしれない。スーツの男は俺に聞いてきた。

 「君には二つの道がある。狭い檻の中でその無為な一生を終えるか、それとも警察からの『お仕事』をこなして自由に生きるか。選ぶといい。」

 「俺は───」


 この街は特異だ。そう言い切るのには様々な理由があるが、その最たるものは「ヒーロー」がいるということだ。俺は生まれも育ちもこの街だが、この仕組みそのものに大きな疑問を抱えている。ヒーローは犯罪者を捕らえ、そのうちヒーローが犯罪者となり、警察に捕まる。そして犯罪者が放たれ、その結果ヒーローが増えていくのだ。

 そもそも、ヒーローとは何か? 定義だとか心構えだとか、そんなややこしいことは一人一人のヒーロー観があるだろうからあえてそれを長々と話すつもりはない。だが狭義での、つまりこの街においてのヒーローについては説明しておかなければなるまい。誤解を恐れずに、端的に述べるのなら……それはそう、奴隷というのがわかりやすいだろう。社会を動かすシステムに対しての、怠慢な警察組織に対しての都合の良い奴隷。


 さて、もしもヒーローというものに憧れを抱いているのなら、それは憧れだけに留めておくべきだと忠告する。一度警察に捕まった後の俺の人生はというもの、まだ道端の石のほうが優遇されているとさえ感じるほどのものだったからだ。俺があの時、どちらの選択をしたのか。それは伏せておく。

 ただ一つだけ言えるのは、もし俺があの時選ばなかった選択を仮に選んでいたとしても、今と同じくらい、あるいはそれ以上に絶望感と虚無感とに覆われた生活になっていたであろうことは疑いようもないということだ。



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