05.指切り/一青窈
また同じ日常が始まった。
朝起きて身仕度して電車に揺られ、仕事に行って働いて、また電車に揺られ、帰ってメシ喰って風呂入って寝る。
ギターを弾けるようになって、意中の女性に告白しようなどと、中高生でもあるまいし。
きっと結婚パーティーに参加して、幸せな空気に当てられて拗らせてしまっただけだ。
頃合いを見計らって、サクラにギターを返しておしまいにしよう。
実際、あれから三日も経つが彼女達との接触も無くギターも触っていない。
おまけに左手の指先の水膨れは跡形もなく消えている。
身分不相応なコトはしないに越したコトはない。そんなモノにウツツを抜かす程、三十路の男はヒマではないのだ。
佐向亜依子に懇願された新人研修も今日が最終日だし、責任ある立場を任されていてギターなどに無駄な時間は割けない。
しかも佐向亜依子からはその後何のアクションも無く、あの日のやり取りは神様が気紛れにくれたプレゼントだったのかと半ば諦め始めてさえいる。
さらに言えば、担当している新人はヤル気も無く、向上心も感じられず疲弊しっ放しである。
溜め息が増えたのは気のせいではない。こうやって三十路の俺は四十、五十と歳を取るのだろうかと考えると、恐ろしくて発狂してしまいそうになる。
そんな感情に蓋をして得意の『無かったコト』にするしかない。
今日もまた、二十歳そこそこの若造をまともにコントロール出来なかった一日に落ち込み、肩を落として最寄り駅から帰路をトボトボと歩く。
まもなく我が家というところでチリンチリンと自転車のベルが後ろで鳴った。
「マツノさん、いま帰りですか?」
振り返ると、自転車に跨がったサクラが居た。何とも気まずい相手だ。
「あ、うん。まぁね」
サラリとやり過ごして、さっさと部屋に引き籠ってしまいたかったが、自転車を降りて続け様に畳み掛けてくる。
「あれからギター弾いてます? あ、ミチヨ達から貰ったストラップ付けました? あんまりちゃんとしたのプレゼント出来なくてゴメンなさい。でも、ストラップ付けて肩からギター下げるとテンション上がりますよねー? 鏡の前でポーズ取ったりして」
他の三人から何も聞いていないのか? それともまったく意に介していないのか?
戸惑う俺を他所に、コミュニケーションスキル高めで接してくる。
こんな俺に会話を求めてくるとは、若さなのか自信のある女の子だからなのか。
「う、うん、いや、なんか、色々と仕事が忙しくてね。正直ギター、弾いてないですよね。はい」
気まずい。何を言っても気まずい。ちゃんと顔を見るコトも出来ず、俺の視線は自分の足元を泳ぎまくっていた。
これは本当に早いところギターを返そう。立て替えたお金はやや痛いが、授業料だと思うしかない。
勇気を振り絞ってそう伝えようと、顔を上げて彼女を見ると、自転車のハンドルを握り締めて、酷く寂しそうな表情を浮かべていた。
「仕事が忙しい……」
「え?」
この場を取り繕うように、何か言わなくてはと聞き返したが、彼女は会話というより言葉を吐き捨てるように続ける。
「仕事が忙しい。恋人との時間を大切にしたい。実家に帰って家業を継ぐコトにした。結婚するから。妊娠したから。させたから……」
「え? あ、ちょっと?」
「他にも金銭トラブルとか、彼氏彼女を取ったの取らないの、怪しげな宗教にハマって手が付けられなくなった、エトセトラ、エトセトラ……辞める理由なんて聞き飽きたよ。もう慣れちゃったけどね?」
サクラは一方的に喋り続ける。
「あとは、メンバーが他のバンド入って普通に活動してるのをSNSで知った時はさすがにヘコんだけど……でもバンドなんて、そんな不安定な関係の上に成り立ってるんスよ」
いや、俺バンドなんてやってないし、そもそもギターでも始めようかなぁってぐらいで、本気でやるなんて一言も……
「まぁマツノさんは私のバンドメンバーでもないし、私も自分の事情で、ちょっと強引に始めさせちゃったとは思ってますよ。それでもねぇ」
このコもテレパスか? それとも俺、心の声漏れてた?
「それでも、私のギターが人手に渡りそうだったの助けてくれたし、ああ、これをきっかけにギター始める人が居るなんて、スゴいドラマティックだなって……思ったのに」
先日ミチヨも同じようなコトを言ってたが、こうまで先手を打たれると、正直何も返せないモノだ。
冬場なので、夕方過ぎでも周囲が暗いコトだけが唯一の救いだ。こんなオッサンが年端もいかない少女と道端で口論をしているとあっては、考えただけでもご近所ゴシップが色々と厄介だ。
元はと言えば、意中の人から好かれようとして始めるつもりだったのに、そんなコトしなくても、もしかしたら上手くいきそうだから辞めるなんて、この状況で言えるハズも無い。
「ホントは、マツノさんがギターを弾こうが弾くまいが、この世の中にはなんの影響もないし誰も困らないんですよ」
「まぁ……そりゃそうだろうけど」
「でも、マツノさん自身には影響あったんじゃないんですか? 本気でやるつもりが無いなら、いま辞めるのも明日辞めるのも一緒。何も変わらないっていうならそういうコトだと、私は思ってるし。同情で続けられる……いや、何となく合わせてくれてるだけなら、逆に私達も傷付くから」
追求の手を緩めないのね。このコ。
確かに初めてギターが鳴った時は気持ち良かったし、これが弾けたら……なんてコトも考えたけど、俺がギター弾かなくなったからって、この世の終わりみたいな顔して嘆願しなくても。
今にも泣き出しそうな少女を目の前にすると、どうにもテンパってしまう。
「いやいやいや、やらないワケじゃないから! 弾きます! 一生懸命弾きますよ! オジさん頑張っちゃう♪」
胡散臭いと思ったが、ここは何とか無難に回避したい。が、完全に疑いの眼差しを向けられている。
「いま、自分でもビックリするぐらいマツノさんの言ってるコトが信用出来ないです。ゴメンなさい」
はい。存じております。
ペコリと頭を下げてから俺に向けられた彼女の目は、完全に輝きを失っていた。
ああ、コレ小学生の頃に児童館で見た、ロクに手入れもせず使い古された碁石(黒)みたいだなぁなどと思いを馳せながら反省。
「いや、胡散臭いのは自覚してるので大丈夫です」
何をどう弁解しようが、上っ面で話しているだけでは信用など勝ち取れるハズもない。
「じゃあ信じられるように何か約束しましょう。そしてその約束を破ったら、何か自分に罰則を科してください」
「約束……と、申しますと?」
「その、ギターを弾き続けるという決意が本物かどうか、私に証明してみてください。まぁ無理矢理やらせるのは好きじゃないんで、別に弾かなくてもイイんですけど、私、人を信用しなかったコトって今まであまりないので」
見事に逃げ場、失ってるよね。俺。
何? この完全に退路を塞いでからのクロージング。怖い。ウチの職場の新人にも見習わせたいくらい。
「じゃ、じゃあどのくらい弾けるようになる、とか、そういう感じの方がイイんすかね? コードの数とか」
「うーん、それだとわかりづらいなぁ……あ、だったら何か一曲弾けるようになりましょうよ! 期限は……一ヶ月ぐらい?」
ケツ決まったー! サラっとデッドライン設けられちゃったよ。
「一曲……ですか。何の曲にしたらイイんだろう…?」
「そうは言っても一曲覚えるのに一ヶ月もあるんですよ?」
「いやいやいや、弾き語りって素人がそんな簡単に出来るモノでもないでしょ? しかも一ヶ月って! 今が二月の後半だから春先ぐらい? だいたい曲なんてそんなに知らないから」
「あれ? CD入ってなかったですか? プレゼントに。っていうか、ひょっとして聴いてもいないんですか? せっかくみんなで厳選して編集したのに」
「あ、入ってました! いやぁ~アレ、何だろうなぁって思ってて、ちゃんと説明聞いておけばよかったなぁ」
なぜ俺は真冬に路上で冷や汗をかいているんだろう? この女の子に後ろめたいコトがあるワケではないが、何だか俺の一言一言で、彼女を深く傷付けてしまう気がして、物凄く気を遣う。
「あのCD、弾き語りに適している曲が何曲か入ってるんです。多分有名な曲もあるんで、自分で弾けそうだと思った曲を一ヶ月後に弾いて聴かせてください。出来なかったら……合うたびに全員からビンタ……か、坊主、だったらどっちがイイと思いますか?」
笑えない。笑えないよお嬢さん。そんな『今晩なに食べたら良いですかね?』みたいなテンションで言われても、オジさん微笑み返せないよ。
引き攣った顔で返答に困っていると、彼女も追撃の手を緩めない。
「だってギター、一生懸命弾くって言ったじゃないですか! 大丈夫ですよ一ヶ月もあるんですから。一生懸命練習すれば弾けるようになりますって」
そうすれば、挨拶代わりのビンタも坊主も回避出来ますから!と語尾に無言のプレッシャーを含んでいる。
「あ、そうそう、明日のライブ、待ってますからね? じゃあ小指」
ガシッと右手を捕まれ、強引に指切りさせられた。
そんなモノ二十年以上やってなくて物凄く恥ずかしかったが、指切りの最中は笑顔を絶やさず、サクラは嵐のように去って行った。
まぁ機嫌を損ねずに済んだのは確かなようだ。
とは言え、単純に死刑宣告が一ヶ月後に先伸ばしされただけのような気もするが、ただそのコトは考えないようにして、重い足取りで部屋に向かった。