03.イージュー☆ライダー/奥田民生
やっと主要な登場人物の名前が出てきますが、元ネタわかる方は仲良くなれそうです。
身体とほぼ同じぐらいのハードケースを、恋人でも抱きしめるかのように抱え込んで、永桜ひろみが集団の後方を歩く。
先頭には金髪ショートカットの子と長髪の子が、キャイキャイと会話をしながら並び歩き、少し遅れて大きなパーマの子が無言で付いてきていた。
「んで、アミオくんは何でまた急にギターを?」
金髪ショートが俺に問いかけてきた。
「いや、まぁ趣味でも持とうかと」
思春期を拗らせた中学生でもあるまいし、女性にモテたいからとはさすがに言えずにいた。
「へぇ~ちなみにギターの予算て幾らぐらいで考えてました?」
長髪ストレートが俺の前に立ち塞がり、ニコニコと聞いてきた。
よく見たら、派手なTシャツには海外紙幣のプリントに『money talks』と書かれている。
金の話をしに行く為に選んだのだとしたら、物凄いセンスだな。
「予算……普通って三~四万円ぐらい……じゃないの?」
「おおー! じゃあ安く上がったから、必要なモノでも買いましょうか」
先頭に躍り出た彼女は、みんなを手招きしながら俺がさっき歩いて来た道を戻り、本屋兼コンビニに入った。
本日二度目の来店で、再び音楽誌の棚の前に来たので、今朝方読み耽っていた教則本を手に取る。
「いやいや、そんなモン要らないから! 必要なのはこっち」
金髪ショートが、手にした教則本をひったくって棚に戻し、代わりに分厚い歌謡曲の弾き語り本を棚から引き抜いた。
「理論なんてボク達もわかんないんだから、手っ取り早くコード覚えればイイんだってば」
そう言って、昔のタウンページほどの厚さの本を胸に押し付けられたので、それを手にレジに持って行こうとすると、ガシッと肩を捕まれた。
「まぁまぁ慌てない。まだ買うモノあるから」
バラエティー番組の買い物企画よろしく、カゴには大量のお菓子やアルコールがギチギチに詰め込まれている。ひょっとして俺がこの会計全部持つのだろうか?
悪い予感は的中し、彼女達は一切財布を出す素振りを見せず、結果弾き語り本と合わせて五千円以上支払わされた。
腑に落ちない表情でいると、長髪ストレートが諭すように口を開いた。
「だってこれからギター、教わるんでしょ? お互いのコト知らないままじゃ不安だと思うから。まぁ、親睦会も兼ねて……ね?」
胸元の『money talks』を必要以上に主張されている気もするが、可愛く小首を傾げながら言われては仕方がない。
器の小さい男だと思われるのも癪なので、無理矢理に自分を納得させた。
「あ、そっか! アタシ達ってまだ自己紹介もしてなかった!」
思い出したように、店を出たところで長髪を振り回して『money talks』がこちらに向き直った。
「さっき自分で名乗ってたけど、同じアパートの子がサクラ。永桜ひろみ」
確かに家主の少女は永桜ひろみって言ってたな。
「んでアタシがミチヨ。中之島美智代」
グイグイくる『money talks』はミチヨ……と。
「金髪のボクっ子がマキ。宮山真樹」
マキ……とりあえず袖から手を出したらイイのに。
「んで、うしろのモジャモジャがエリカ。羽根澤恵理香」
寡黙でまったくキャラクターが見えないクールビューティーがエリカ、と。
出会ってから数十分で、四人もの人間の名前を覚える自信が無い。
サクラ、ミチヨ、マキ、エリカ……だったっけ?
まぁ探り探り覚えればイイや。しばらくは全員『お嬢さん』とでも呼んでおこう。
四つに分けられたレジ袋を、サクラを除く四人でぶら下げて商店街を抜け、国道を渡り、坂を登ってアパートの前に着いた。
ところが一向に部屋に入る気配が無い。
「え! 俺の部屋?」
いつの間にか、アパートを前にして俺が先頭になっており、重たい荷物で両手が塞がった彼女達に、アゴで階段を上るよう促された。
一段ずつ階段を上りながら、部屋を出る前の状況を思い出す。
「別にボク達、エロ本の一冊や二冊で驚いたりしないから」
テレパスか?
マキがレジ袋を両手で持ち、地面に引きずりそうにしながら俺のうしろをぴったり上ってきていた。
このアパートに引っ越してきて五年ほどだが、未だかつて女性が部屋に上がったコトなど無く、急に落ち着かなくなってきた。
重く両手に食い込んだレジ袋を左腕に引っ掛け、空いた右手でポケットの中のカギを取り出して、シリンダーに差し込む。
施錠が外れた瞬間に、俺を押し退けてマキが玄関で乱暴に靴を脱いだ。
「お邪魔しまーす! へぇ~これが成人男性の部屋か~。意外に片付いててつまんな~い」
つまんない部屋で悪かったね。こちとら年齢イコール無趣味で生きてきてるからね。
続けてミチヨとエリカが、ペコリと頭を下げて部屋に入る。
一番後ろにいたサクラは、ニコニコと上機嫌で、大事に抱えたギターをぶつけないように、ゆっくりと部屋に上がった。
瞬時にして、狭い玄関はブーツと厚底の革靴 (ラバーソウルっていうヤツか?) 、スニーカーが二足でギュウギュウになり、俺は僅かに空いたスペースで靴を脱いだ。
何故家主である俺が、こんなにも気を遣って家に帰ってこなくてはならないんだろう。
玄関先からでも、室内をすべて見通せるほどの狭い家なので、四人が勝手にくつろいでいるのが伺える。六畳間に大人が五人も入ると、かなりの圧迫感がある。
「当たり前だけど、サクラんトコと同じカタチなんだね?じゃあアミオさんも座って座って」
自分の部屋だが遠慮がちに隙間を見つけ、座るやいなやミチヨが膝元に発泡酒のロング缶をドンと置いた。
ホントは二日酔いでアルコールなど見たくもないんだが……
「では、サクラのギター奪還と、アミオさんのギター教室開校を祝ってカンパ~イ!」
引き続きミチヨが仕切り、乾杯の掛け声で皆が一斉に缶を開ける。
気付けば大量のスナック菓子や、コンビニの惣菜やらが広げられていた。
「ところでさぁ、誰がアミオくんにギター教えんの? サクラってギター弾けるんだっけ」
発泡酒を一口飲んだマキが問いかけると、質屋から笑顔を絶やさなかったサクラは、発泡酒を吹き出しそうになり表情が素に戻った。
「え? 私もコード弾きぐらいなら教えられるけど……困った時はみんなに協力してもらって……ねぇ?」
おや?なんだか急に雲行きが怪しくなってきたぞ。
「えーボクも教えるってコト?」
「っていうか、本気でやるなら基本的にマキしか教えられなくない?」
話が見えない……サクラは何故弾けないギターを大事に抱えてるんだろうか?不安に襲われているところでミチヨが口を開いた。
「そっか、まだ言ってないんじゃん。アタシ達バンドやってるんだけど、サクラってドラムなのね? アタシがベースでエリカがヴォーカル、ギターはマキだから、ガッツリ教わるならマキしか教えられないんだよ」
はぁ、バンド。ですか。
いかにもバンドやってますって感じの女の子って、エナメルのミニスカートとか網タイツとか、デーモン閣下をライトにしたようなメイクだったりをイメージしてたので、こんな普通の女の子達がバンドやってますっていうのも不思議だと思ってしまった。
まぁバンドやってるのはわかったけど、じゃあギターの出所であるサクラは何故ドラムなのだろう?状況を飲み込めず四人を見渡す。
「サクラってドラムなんだけど、音楽始めたきっかけがそのギターなんだっけ?」
ミチヨがサクラの顔を覗き込む。
「ま、まぁまぁ、続きの説明はいずれ自分でするんで。とにかく、私はドラムだからそんなに上手くないけど、多少は弾けるから安心してください」
立て掛けてあったハードケースから、ミチヨがギターを取り出してサクラに手渡した。
「アタシ、サクラがギター弾いてるの見たコトないんだけど」
全員の視線がギターを抱えたサクラに集中した。
「うぅ……ゴメンなさい。ホントは何個かコード弾ける程度です」
サクラはシュンとしてギターを抱き締めた。
「仕方ないなぁ~技術的なコトはボクも教えてあげるけど、一番大事なのはアミオくんの努力次第だからね?」
そうこうしていると、アルコールが回ってきたミチヨが部屋を物色し始めた。
「お、アミオさんの音楽遍歴発見~」
部屋の隅に配置した棚にあった、数枚のCDを引き抜いた。
「おやぁ~コレはダメでしょ? こういうの買っちゃう人ってホントに居るんだね」
「え? どれどれ……あーアミオくん、コレはやっちゃったねぇ」
マキが賛同しているが、俺の位置からはジャケットが光に反射して見えない。
角度を変えて覗き込もうとしたところ、目の前でエリカがサクラにスナック菓子の袋を渡してちょうど見えなくなってしまった。
「この曲も、歌い出しの歌詞とかヤバいよね! 確か……$○☆¥◇%」
『バリバリバリバリ!』
あー! ヘリコプターうるさい!
「そうそう! 誰目線なんだよっていう! あとサビもさ……£▲℃*◎#@」
『カァーカァー!』
カラスが窓際で大声で鳴き始め、肝心なところを聞き逃した……
「アハハ! もうカラス避けにでもした方がイイんじゃない?」
ミチヨがケースを棚に戻した。
「あとは歌謡曲メインだけど、アイドルとアニソンの比重高いね。あ、このグループ好きだったわ! 少数精鋭で全員のスキル高いんだよね」
「だったらこの大所帯のグループでしょ? チーム編成とかにドラマがあるんだよね~ボクはこっちの方が好きだなぁ」
結局、何の音源についてディスられていたのか不明のまま、ミチヨとマキでアイドルの好みに話題が逸れてしまい口論になっている。
無言でエリカが、アニソンのコンピレーションアルバムをスッと二人の前に差し出すと、ピタリと言い争いが止まった。
「あー、ボクこのアルバムの曲知ってる! ちょっと掛けさせて!」
小さなコンポにディスクを入れ、アルバムの裏ジャケットの曲名を確認して再生ボタンを押した。
うなだれているサクラからギターを奪い取ると、マキはパーカーのデロデロに伸びた袖を捲り上げて、蒼白い両腕を露にした。
弦の間に挟まったピックを引き抜きチューニングの確認をして、スピーカーから流れる曲に合わせてギターを弾き始める準備をしている。
正直、こんなにもか細い腕でギターなど弾けるのかと疑ってかかっていたが、次の瞬間ズブズブの素人の俺は、言葉を失い呼吸も忘れるほど彼女の指先を凝視していた。
素人目には、プロのミュージシャンと何ら変わらない技術で、スピーカーから流れる曲をギターだけ浮き彫りにして奏でる。
しばらく気持ち良さそうに掻き鳴らしていたが、間奏に入りギターソロの途中まででマキは弾くのをやめてしまった。
「前はソロも覚えてたんだけどねー忘れちゃった」
ヘラヘラと笑いながら、マキがギタースタンドと化したサクラにギターを戻すが、正直もうちょっと観ていたかった。
「練習すればこれくらいは弾けるようになるけど……とりあえず泡が抜けちゃうから飲みましょう」
マキは飲みかけの缶を一気に空け、新たな発泡酒を開ける。
俺は目の前で繰り広げられた、ギターという楽器の凄さに暫し言葉を失い、とてもじゃないが自分に弾けるとは思えずにいた。
世間に流れている音楽は、プロの一流ミュージシャンの手で作られていて、ましてや音楽に興味の無い俺の部屋にもあるような、全国的に有名な曲を、こんな若い女の子が簡単に弾いてしまうコトに驚きを隠せなかった。
「あ、あの、マキさんは何年ぐらいギター弾いてるんでしょうか?」
完全に尊敬の眼差しだったであろう俺は、唐突に彼女に質問していた。
マキは飲んでいた発泡酒を喉の奥に流し込み、口元を拭い笑って答えた。
「"さん"はやめてよ! どうせ年下なんだから。んー、ボクは中学二年ぐらいからだから……七~八年ぐらいかな? でも、最初の四年ぐらいは本気でやってなかったんだよね」
「ヘタだったもんね~? バンド始めた頃」
茶化すようにミチヨが割って入る。
「うん。ちょっと前までリズムが悪くて歌いづらかったものね」
エリカも乗っかってマキをディスり始めた。
「自分達もヘタクソだっただろ! ボクばっかり悪く言うな!」
そこからは曲の覚えが悪いとか、ライブの失敗や練習のミスなどお互いの悪口合戦が始まった。
収拾がつかなくなってくると、ずっと大人しかったサクラが、パンパンと手を叩いて口を開いた。
「はいはいストップ! 文句言われたくなかったら練習しなさい。まったく……子どもじゃないんだから」
小柄な割に、保護者のような叱り方である。この子達のパワーバランスがいまいち見えてこないが、バンドってこういうモンなんだろうか?
「まぁ今回は私もみんなに迷惑掛けちゃってるから、あんまり偉そうなコトは言えないけど、もうすぐライブもあるんだからケンカしない」
俺の部屋に女の子が数人集まってから、まだ一時間も経っていないというのに、すでに数回の口論が繰り広げられている。
オロオロとするばかりで、どう扱って良いモノかわからず、ただただ手元にある発泡酒を流し込んでいた。
「脱線しまくって申し訳ないんだけど、話を戻すと、要するに人前でギターが弾けるレベルになればイイんでしょう?」
落ち着きを払ったところで、エリカが俺を見て言った。
「は、はい。宜しくお願いします」
我が家で萎縮しっぱなしの俺は、状況に飲まれてイエスの返答を繰り返すばかりだ。
「じゃあ、手っ取り早くコード覚えようか?」
マキが弾き語り本の表紙をめくり、一ページ目にポスター折りされた付録の紙を慎重に切り離すと、自分のリュックサックを漁ってポーチから蛍光ペンを取り出した。
何故そんなモノを普段から持ち歩いているのかは謎だが、指先でペンをクルクルと回しながら、付録を眺めては印を付けていく。
厳選した、という感じで三つの枠に囲いを付けたところで、胸の前で紙を広げて俺に見せた。
「早速だけど、この三つ覚えてみようか? この表、下が一番太い六弦で順番になってて、一番上が一番細い一弦になってんの。ギター抱えた時に一番上にくるのが六弦だから、同じ向きになってるってコトね? んじゃ表の通りに押さえて鳴らしてみよー」
マキがサクラからギターを受け取り、俺の膝に置いて左手にネックを持たせた。
生まれて初めて抱えたギターに、親戚の赤ん坊を抱っこさせてもらった時と同じぐらい緊張していた。
手汗でダメになったりしないんだろうか?押さえ方が悪くて壊れたりしないだろうか?
不安で固まっていると、マキが後ろから左手の指をフレットに乗せてくれた。
「アミオくん、そんなにガチガチに緊張しなくても……いきなり爆発したりしないから」
笑いながら、人差し指、中指、薬指と、順番に弦の上に指を置き、右手にピックを持たされた。
緊張していたのは、初めてギターを手にしたというのもあるが、吐息がかかる程の至近距離で女の子に背後から密着されて、左手を握られているという非日常なシチュエーションも手伝っていた。
「そう。これがローコードのG。そのままピックで上からジャラーンて……」
別の意味で緊張した俺を他所に、マキはコード弾きのレクチャーを続けている。
ミニチュアのツイスターゲームかというぐらい、不自然な形に配置された左手は、既に手首がツりそうな気配を漂わせているが、このまま弾けばジャラーンと鳴るのか。
『ゲソペソガソガソペスペス……』
ゲソペソ?
全然ジャラーンて鳴らない!
「アハハハ! 押さえ方だね。試しに六弦の三番目、そう、三フレット目だけ中指で押さえて、一本だけ弾いてみようか?」
ツりそうな左手を、一旦ネックから離してグーパーと掌を数回開閉し、ブンブンと振ってから中指で一番上の三番目を押さえる。どんなピックの持ち方をしてイイかもわからない右手で、押さえた一番上の弦を弾いた。
『ペーン!』
おお!鳴った!
「今度はちゃんと鳴ったね。じゃあ人差し指をその下の左隣、そう、五弦の二番目。そこ押さえて上の二本弾いてみて?」
今しがた鳴った六弦の指を動かさないように、油の切れたロボットアームの如くギシギシと人差し指を弦に乗せて、二本分だけピックを下ろす。左手だけに大リーグ養成ギプスを付けているような感覚だ。
『ビーン!』
あ、なんかギターっぽい。
「おー、鳴ったじゃん! こうやってちゃんと押さえてると鳴るんだよ。逆に押さえきれてなかったり、他の指が押さえてない弦に当たっちゃってると、弦が響いてくれないから」
そういうモンなのか。
「じゃあ……頑張って薬指も一弦の三フレットに」
ぐおお!ここから急に手首の筋がピキピキし始めるが、ぐぐぐと一番下まで薬指を移動して弦に乗せる。今度は上から下までピックを振り下ろす。
『ザーン!』
ジャラーンには程遠いが、さっきよりは鳴ってる感じがする。
『ザザーン!』
『ザラーン!』
続けて何度かストロークを繰り返す。
『ザーン!』
『ペソ……』
「うわ、戻っちゃった」
なんだか握力も低下してる気がする。
「うーん、そんな親の仇みたいに思い切り押さえつける必要無いんだよね。指に跡付いてるでしょ?」
「あ、ホントだ。」
言われて左手の指先を見ると、赤く真一文字にカッターの切り傷のような跡が付いていた。
「さっき一本指で音鳴ったじゃん? どこまでなら指の力抜いても鳴るか試してみたら?」
再び一番太い六弦の三フレットを、中指で押さえて何度か弾く。
『ビーン!ビーン!ビーン!』
徐々に指の力を抜いているが、しっかりと音は鳴っている。
イメージとしては、テーブルに落ちているカピカピになった米粒を、指先に貼り付かせて拾う程度の力でも十分に音は鳴った。
「必要なのは力じゃないってわかった? それを踏まえて何度か弾いてみよっか」
初めて弾くギターに苦戦している俺にお構い無く、たまにアドバイスをくれるマキを除いて宴が繰り広げられているが、ツりそうになる手首と、指先の痛みに耐えながらコードを弾くコトに注力していた。
『ザーン! ザザーン! ザラーン! ザザーン! ペソペソ……』
気を抜くとすぐに音が出なくなるが、ただどうしてもマキが鳴らしていたようなキレイな音を出したい。
ギターは力じゃない、そんなコトはわかっているし、自分よりもかなり年下の、しかも女の子がサラリとやってのけたコトを、大の男が腕の筋肉に乳酸を溜めて必死にやっても出来ないのだが、正直悔しいとか情けないという気持ちは無かった。
ただ鳴らしたい。これが鳴ったら何かが変わるような、そんな期待も少しはあったのかもしれないが、ギターをキレイな音色で、ただ奏でてみたかったのだ。
もう左手の握力も指先の感覚もどんどん薄れていて、コードを押さえられているのかもわからない。
『ペソペソ……ザーン! ザザーン! ザラーン! ジャラーン!』
「おぉ鳴った!」
「うわぁびっくりした!」
ギターがちゃんとした音で鳴ったコトが嬉しくて、つい大きな声を出してしまった。
顔を上げると驚きの表情を浮かべたミチヨの後ろで、窓の外はうっすらと暗くなっていた。
「つーか、何時間ローコードと格闘してんの。さっきから何回も声掛けてたの気付いてないでしょ?」
昼過ぎに帰って来てから、ざっくり一時間後から弾き始めたとしても、既に二時間程度が経過していた。
「それより指、大丈夫? そんなに続けてたら……」
マキに言われて、再びハッとして指先を見る。前の段階で真一文字に付いていた跡は、すでに水ぶくれのようになっていた。
「あーそれ、もう今日はやめといた方がイイよ。オーバーワークでいきなり上手くなるモンでもないし」
そう言うなり抱えてたギターを奪い取り、ハードケースにしまって飲みかけの発泡酒を渡された。
「そういえば、急にコード弾きから始めさせちゃったけど、チューニングとか教えるの忘れてない?」
責任を感じてか、サクラが気を遣ってくれているのがわかる。
「そんなのスマホのアプリで平気でしょ? アタシ使ったコト無いけど。アミオさんスマホ持ってたら貸して?」
言われるがままに、ポケットからスマートフォンを出して、ロックを解除してミチヨに渡す。慣れた手つきで検索をして、チューニングアプリをダウンロードして返してくれた。
「一本ずつ弦鳴らして、チューニング狂ってると赤く表示されるから、緑になるようにペグ回せばイイから」
「ギターのチューニングって、もっと仰々しいモンだと思ってたけど、スマートフォンアプリで出来ちゃうのね」
「まぁまぁ、一休みして一杯やりなよ。そんなぶっ通しで弾き続ける初心者見たの初めてだよ」
冷えた発泡酒の缶が指先に気持ちよく、持った左手が無意識にGのコードの指の形になっていた。
「あ、忘れてた。アミオさん、もうひとつ必要なモノ買ってもらわなきゃ」
これ以上何を買わされるのか不安でしかなかったが、ミチヨがゴソゴソとおしりのポケットの財布から長方形の黄色い紙を出すと、他の三人の顔が綻んだ。
「じゃあ1,700円ね? あとは当日に入口で500円払ってもらうから」
手渡された紙は、右側の五分の一ぐらいが点線になっているチケットだった。
「三軒茶屋……パラダイスGOGO?」
「そ、ライブハウス。今週末だから。ボクたち出順二十時過ぎぐらいだけど、もっと早く来たら色んなバンドも観られるよ」
そういえば、このコ達ってバンドやってるんだった。そんな話を聞いたのも遥か昔のような気がする。
「ちなみにこれフライヤー。ガールズバンドばっかりの『音女JUKE』ってイベントで、この三番目に書いてある『little☆date』ってのがアタシ達だから」
正直、アマチュアバンドのライブになんて興味は無いが、結果的にチケットまで売り付けられてしまった。
なんだか今日一日、ずっとこのコ達のペースに巻き込まれている気がする。
でも俺、生まれてこのかたライブハウスなんて行ったコト無いなぁなんて考えてると、ギターが鳴った安堵と昨日からの目まぐるしい展開で、急に疲れが襲ってきた。
「あ、スミマセン。ちょっとだけ目を閉じますので。お気遣いなくやっててください。お帰りの際はお声掛け不要ですから」
狭い部屋の隅で、壁に背中を預けて目を閉じた。ジワジワと脈打っている左手の指先だけ意識がある感じで、彼女達の話し声も入ってこなかった。
あー、でもギター鳴ってよかったなぁ。
もっと上手くなって、佐向亜依子の前で弾けるようになりたい……
「あら、これ完全に寝落ちしてるよね? お酒無くなったから買って貰いたかったんだけど……お財布お借りしまーす」
熟睡している俺を、ミチヨはゴロリと横に倒し、露になったズボンのポケットから財布を抜き取り千円札を三枚取り出してライブのチケットをねじ込み、パチンと両手を合わせて仏壇を拝むようなポーズを取る。
「出世払いでお願いします!」
そんなコトが起きてるなど露知らず、その後も深夜まで女子会が繰り広げられていたようだが、俺はといえば夢の中で佐向亜依子の為にギターを弾き語っていた。