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みそギ!~三十路で始めるギター教室~  作者: ボラ塚鬼丸
入門編
2/175

02.Money Talks / AC/DC

「ピピピピ……ピピピピ……」


 甲高い電子音と共に、定期的なバイブレーションがズボンのポケットから鳴り響く。頭が割れるように痛いし、身体もバキバキに固まっている。


 昨晩帰って玄関に倒れ込み、そのまま朝を迎えてしまったコトに気付くまで、しばらく時間を要していた。


 二月のクソ寒い時期に、風邪を引かなかっただけでも不幸中の幸いと言うべきだろうか。


 まぁ何にせよ、慣れないパーティーになんて行くモンじゃないというコトだけは学習した。授業料は高かったが、収穫収穫と自分を無理矢理に肯定する。


 ポケットで鳴り続けるスマートフォンを、手探りで止めて四つん這いのまま部屋に進む。


 回らない頭でも、今日は仕事のシフトが無いコトだけはわかっているので、畳んだままの布団に突っ伏して二度寝。


 が、断片的な記憶で自分の愚行をリバイバル上映してしまい、僅か数分で二度寝から覚める。


「最悪だわ……」


 うつ伏せの身体を起こし、真後ろに仰向けで倒れ込みながら天井に言い放つ。


 酒の席で失敗慣れしているヤツからしてみれば、きっと大したコトではないのだろうが、自ら自分の小者ぶりを再確認させられたのだ。


 この世など滅んでしまえと、寝転んだまま右手を伸ばし、掴んだ枕を顔に押し当てる。


「バルス! バルス!」


 滅びの言葉を叫ぶが、気だるい朝は何の変化も起こさない。


 二日酔いと精神的ダメージで、何もする気が起きず、寝返りだけで元来た方向に進み、小型の冷蔵庫を開け、寝返り手前の体勢でペットボトルのミネラルウォーターを一口。


 結果的に、佐向亜依子に対して素っ気ない態度を取ったコト思い出し、ブンブンと首が千切れるほど横に振り、ミネラルウォーターをもう一口。


 弾き語りの男前に絡んで自爆した自分の醜態を思い出し、深い溜め息をついた。


 うつ伏せのまま匍匐前進し、ペットボトルを冷蔵庫に戻して寝返りで部屋に戻る。

 手探りでテレビのリモコンを手にした。


 今の自分が欲しい情報など、ひとつも流れてこないコトなどわかっているが、とりあえず電源ボタンをポチリ。


 反射で映り込んだ寂しげな六畳間とくたびれた俺を、ブラックアウトしたテレビが徐々にワイドショー番組へと変えていった。


 人気のアーティストの熱愛報道や政治家の汚職を、ニコニコと若い女性アナウンサーが伝えている。


 どこを見るでもなく、垂れ流されている下世話な音声に堪えられず、点けたばかりのテレビを即シャットダウン。


 二日酔いだが意を決し、嗚咽を漏らしながらもエチケットとして歯磨き。クッションフロアに押し付けて出来た寝癖はニットキャップで隠す。

 ネクタイだけは引き抜いて、着の身着のまま外へ出るコトにした。


 外出しなければならない理由など何一つ無いのだが、この狭い空間に居続けては、惨めな気持ちが増幅するだけだ。


 昼間でも薄暗い廊下を抜けて、建物を揺らしながら階段を降りると、19かハタチぐらいの若い女の子が、同い年ぐらいの女子3人と出掛けるところだった。


 こんな場面に出くわしたのは、今までに何度かあった。


 家主の少女は、体形には若干不釣り合いなサイズの、年季が入ったダブルのライダースジャケットを着た小柄な少女。


 その少女を囲んでいる、黒髪でストレートの長髪の子は、前を開いたスタジアムジャンパーから覗く、紙幣がプリントされた派手なTシャツが特徴的だった。


 もう一人は金髪のショートボブで、袖から指先が出ない程の大きめなグレーのパーカーを着た子。


 ブラウンのムートンコートを着た子は、大きなパーマと反比例に、ボディラインをハッキリと強調させている。


 揃いも揃って派手な顔つきの女子達が、何やら言い合いをしている様子だ。


「そんなの言ってみなきゃわかんないじゃん!」

「話せば伝わるよ、きっと!」

「いざとなったら力ずくで……」


 家主の少女を、慰めるでも励ますでも無いような会話が漏れ伝わってくる。


 きっとその悩みだって、バイト先の好きな男がどうだとか、しつこくつきまとってくる先輩に、勇気を出して迷惑だと伝えるとか、そんな程度なのだろうなと思いながら、軽く会釈をして通り過ぎた。


 彼女達は、きっと一般OLではないのだろう。


 そう推測した理由は、ド派手な出で立ちで、休日の夜に女子会を開いて(いたであろう)翌朝平日の昼間に、セキュリティの甘い安アパートから出てきているからだ。


 大家には失礼だが、一般OLならもう少しバリっとしたオートロックのマンションに住んで、ブランチにクロワッサンでも喰っていそうなモノであろう。


 という、万年派遣労働者が持つイメージを他所に、彼女達の脇を通り抜ける時、揃って声のトーンが少しだけ下がる。


 視線だけ俺を追った後、見えなくなると同時に笑い声と共に話し声のボリュームが元に戻った。


 きっと、うだつの上がらない中年予備軍を目の当たりにして、ああはなりたくないモンだと嘲り笑っているのだろう。


 昔からそうなのだ。


 俺は近くで複数の女の子が談笑している所に出くわすと、自分が笑われていると思い込んでしまう悪い癖がある。


 まぁしかしアレだ、生まれ変わったら俺も若い女の子になりたいモンだ。そして気の置けないズッ友と、他愛もない話題で夜を明かし、ファーストフードのモーニングでも食べに行ってやるのだ。


 彼女達の笑い声を背に、トボトボと豪邸が並ぶ住宅街を抜け、緩やかな坂道を下り、国道を渡って商店街に出る。


 週刊マンガでも立ち読みしようと、この街で唯一の本屋が併設された大型のコンビニに入った。


 ふとマンガの並んだ棚の隣に目をやると、ファッション誌の横に置かれた音楽情報誌。


 ただ気になったのは、平積みされた有名ミュージシャンの表紙ではなく、ギチギチと縦に差し込まれた、ここ数ヵ月は動きがなさそうな、所謂死に筋のギター教則本の類いだった。


 中でも一番簡単に書かれていそうなタイトルの一冊を手に取り、いかにも子供用の漢字ドリルに描かれているようなデフォルメされた人物が、ギターを抱えている表紙をめくる。


「難しく考えず、楽しくギターを覚えましょう」


 いかにもなフレーズで始まるその本を、食い入るように読み始めた。


 まずはギターの種類と特徴を解説したパート。形の違う様々なギターと、図解でギターのパーツやら部位を説明した、イメージ多めな冒頭のカラーページを目で追った。


 ボディとネック、その上にヘッド。ヘッドに取り付けられたツマミはペグというらしい。


 ネックに刻まれた敷居はフレットと言い、押さえる箇所で音階が変わり、複数押さえて和音を奏でるのだとか。


 エレクトリックギターは、ボディの中央にあるピックアップが音を拾って云々……


 パーティーで男前が弾いていたのは、アコースティックギターのようだ。空洞になったボディーの中心に空いたサウンドホールから、音を外に大きく響かせる。


 国家資格でもあるまいし、冷静に考えたら何もそんなに必死に読み込まなくても良さそうだが、俺は取り憑かれたようにページをめくり続けた。


 元々音楽の知識など無く、譜面のセクションで音符と記号の羅列に変わっても、解説部分を目で追いかけて、その一言一句を記憶しようとしていた。


 ポケットでブルブルとケータイが震え、ハッとして腕時計を見ると正午前。


 着信は出会い系の迷惑メール。


 気付けばマニュアル本を二時間以上も熟読してしまっていた。


 手元にギターも無いのに、いや、そもそもギターを始めるとも決めてないのに、マニュアル本を真剣に読み込むという愚かな行為に目眩がした。


 長時間の立ち読みにもかかわらず、手ぶらで出るのも気が引けたので、本屋部分から店内を移動し、コンビニエリアでペットボトルのお茶を一本購入して店を後にした。


 手持ちぶさたで蓋を捻り、お茶を一口飲んで街をブラつき、商店街を抜けたところにある質屋兼リサイクルショップの前を通る。


 街が小さいからなのか、何かが併設された店舗が多い。


 その多くはコンビニと薬局や、コンビニと弁当屋。コンビニベースの店と違い、この質屋は質草の期限が切れると、隣のリサイクルショップで販売をするようだ。


 もちろん最初から売却を希望する者は、質屋をスルーしてダイレクトにリサイクルショップ側だけ利用するのだろう。


 店頭には生活家電品と同じぐらい、サーフボートや健康器具が所狭しと並んでおり、長続きしなかった趣味の残骸を納める墓場のようになっている。


 店を覗き込むと、店主が脚立に登り一本のギターを壁に掛けようとしていた。俺は吸い込まれるようにその足元へ進んでいた。


「いらっしゃい! ……あ、これ? 今日流れる予定だからフライング展示! フライングVだったら最高なのにねーハハハ!」


 何を言っているのか理解出来なかったが、どことなく育ちの良さそうな雰囲気と、年配なのにやや長髪な店主は、いかにも軽い感じのキャラクターである印象だった。


 質屋部分の『石田屋』と、リサイクルショップ『蔵々(くらくら)』を行ったり来たりする店主が忙しそうだった。


 しかしフライングで販売してしまって、もし質入した客が来たらどうするつもりだろう?


 とはいえ、俺の視線は件のギターに釘付けだった。


 柔らかな角の生えた、お尻が丸い真っ赤なボディの両サイドには、アルファベットの小文字で『f』を型どったサウンドホールに黒いピックガード。


挿絵(By みてみん)


 さっき読みかじった教則本が知識のすべてだが、これがセミアコースティックギターという種類だとわかった。


「このギターって、セミ……アコースティック……ですか?」


 自信無く、か細い声で訊ねると店主は被せ気味で返す。


「お! イイ質問! これ、Epiphone(エピフォン)CASINO(カジノ)って言って、セミアコみたいなんだけど中空ボディだから、カテゴリーではフルアコになるんだよねー」


 相変わらず何を言っているのか理解出来ない。


「状態も綺麗でしょ? 価格も手頃だし、初心者からプロまで幅広く使ってるギターだからね。いま値段付けるからちょっと待っててくれる?」


 蘊蓄(うんちく)と共に店主は店の奥に引っ込んだ。ああ、そういやまだ質流れしてないのか。


 俺はなだらかな曲線で出来たそのフォルムに目を奪われ、余程の高額でない限りは財布を開こうとさえ思っていた。


「うーわっ信じらんない! もう売りに出されてる。返済期限今日までのハズなのに!」


 ギターに見惚れていた所、不意討ちで俺の背後に響いた若い女性とおぼしき甲高い声に、ビクンと身体をすぼめた。


 叫んでいる内容から、きっとこのギターの持ち主であろうコトは読み取れた。


 まぁ縁が無かったのだろう。


 ギターもこんな初心者丸出しの完全素人に弾かれるより、持ち主に再度可愛がられる方が良いに決まっている。


 諦めて振り返り、店を出ようとしたところで、声の主が店内に怒鳴り込んで来て、出るに出られない雰囲気になってしまった。


 声を聞き付けて、店主が値札を片手に奥から戻ってきた。


「あらいやだ、フライング見つかっちゃった」


 おネエ口調で店主がペロッと舌を出した。


「あらいやだ、じゃないでしょ! 期限前に売りに出すなんてルール違反じゃないですか!」


 背中でやり取りを聞いているが、揉め事が嫌いな俺は一秒でも早くこの場を立ち去りたかった。


「まぁまぁ落ち着いて! まだ販売してないんだからセーフでしょ? じゃ、ご返済の手続きは隣で」


 店主がトーンダウンを促すと、あっさり引き下がる持ち主。やけに聞き分けが良い客だなと感心して振り返ると、今朝方アパートの一階で盛り上がっていた女子四人組だった。


 何故か彼女らに見つかりたくなかった俺は店内に戻り、意味も無く商品を眺めるフリをした。


 店先で店主に喰って掛かっていたのは、慰められていた家主の小柄なコだったが、返済手続きの案内をされて浮かない表情になっている。


「いや……あの、それなんですけど」


 なんとも歯切れの悪い彼女の物言いに、瞬時に記憶を遡って四人の会話を思い出してみた。


『そんなの言ってみなきゃわかんないじゃん!』

『話せば伝わるよ、きっと!』

『いざとなったら力ずくで……』


 身体は子どもの名探偵でなくても、彼女の悩みが一瞬にして理解出来た。


 バイト先の色恋沙汰でも、付きまとわれてる先輩の話でもなく、返済に追われているが無い袖は振れないってヤツだ。


 いや、でも力ずくはダメだろう?


「返済のコトなんですが……もうちょっと……待って頂けませんでしょうか?」


 若い女の子のそんな恥ずかしい現場に、部外者である自分がこれ以上立ち会うのも居心地が悪いので、極力視線を浴びないよう、手にしていた民芸品の不気味な木彫りの仮面を棚に戻して、そっと店を出ようとした。


「あ、お客さんお客さん! いやぁラッキーだわ! フライングだったけど大丈夫になったから♪」


 彼女達の視線が一気に自分に注がれているのは、伏し目がちであっても手に取るようにわかった。


 しかしこのタイミングで俺のコト巻き込むかね店主よ。


 戻した仮面を即金で購入し、被ってそのまま店を出ようかとさえ本気で一瞬思ってしまった。


「あ、はぁ……いや、でもまだ別に買うって言ったワケじゃなくて……」


 自分なりに精一杯否定して、この場から逃げようとしたが、当然のコトながら店先の彼女達と目が合ってしまった。


「あ、マツノアミオ! サクラと同じアパートの人だ!」


 細身で黒く長い髪の少女が俺を指差して叫んだ。


 はい? マツノ、アミオ?誰だそれ!


 末野(スエノ)をマツノと読み間違えるのはわかる。小学生の頃から訂正し続ける人生だから。


 ただ、綱男(ツナオ)網男(アミオ)は明らかに違うだろ!


 君はあれか?墨田区の横網を横綱って読んじゃうタイプか?相撲部屋とか近いからって理由で。


 そんなコトを思い、完全なハテナ顔でいると、店主に詰め寄っていたサクラと呼ばれる少女が近寄ってきた。


「あの私、同じアパートの永桜(ナガサクラ)です!永桜ひろみって言います! マツノさん……このギター買うんですか?」


 質入した本人を目の前にして、強気で購入するとも言えず口ごもる。


「いや、初心者なんで別にこのギターにこだわってるってワケじゃなくて……」


 どうしてもこの店で、このギターを購入しなければならない理由もないので、他を当たると告げようとするが立て続けに捲し立てられる。


「お願いです二万円貸してください! 今日中にお金返さないと、このギター……誰に買われるかわかんないんです」


「へ? 二万……円?」


 買うのを諦めろと言われるコトを予測していたところに、まったく別の角度から飛んできた変化球に戸惑う。


「これからギター始めるんですか? もし二万円貸してくれるなら、返済するまでこのギター、預かっててもらってもイイんで」


 涙目で懇願する女の子を無下にも出来ないが、大切なギターを預かったところで、下手に傷でも付けたらと思うと不安で仕方がない。


 新手の美人局や預かり詐欺を疑ってみたが、そんな様子でもなさそうだ。


 しかしズブズブの素人が、これから独学で練習するというのに、人様が大事にしているギターなど落ち着いて弾けるハズがない。


 さらに返答に困っていると、店主が横槍を入れてきた。


「お兄さんは買うつもりで来てるんだから、返済出来ないなら商売の邪魔しないでくれ! なぁ? お兄さん」


 ホントに空気を読まない人だ。余計に困るようなコト言わないでくれよ……


 詰め寄る店主と永桜ひろみを交互に見て、結論を出せずにいる。


「アミオさ~ん! アタシこの腹筋マシーン欲しい~」

「そんなのダメ! アミオくんはボクと一緒にこのWii Uやるんだよね?」

「ねぇアミオ? あのエルメス、私に似合うと思うんだけど」


 どさくさに紛れて、遠巻きに見ていた三人の連れが物をねだってきた。


 何だろう? コレ?


 モテてるんすかね?まだギター始めてもいないんだけど……


「じゃあ、返済終わるまでギター教えますから! 知らない人に買われちゃったら、私……もう取り戻せないから!」


 彼女に二万円貸すコトで、初心者がギターを手探りで覚える必要もなくなる。


 弾けるようになったら買い直せば良いし、そもそもいつまでギターの練習が続くかわからないのなら、期間限定で教えて貰うのもアリだと瞬時に算出した。


「お兄さん買うの? 買わないの?」

「え~? 腹筋鍛えたらカッコ良くなるよ?」

「みんなで一緒にWii Uでゲームしようよー」

「大人だったら、エルメスのひとつぐらい持ってないといけないと思うのよね」

「お願いします! 二万円貸してください!」


 あぁうるさい!


 なんで休日にこんなカオスに放り込まれなきゃならんのだ!


 腕組みして全員を見回し、五つに増えた選択肢から消去法で決めるコトにした。


 まずは腹筋マシーン。


 確かにここ数年運動不足で皮下脂肪も増えたが、中年太りには程遠いし、この手の健康器具は長続きしたためしがない。ギター以上に短期間で飽きるコトが予測出来るので無し!


 次にWii U。


 ゲームは嫌いではないが、やる相手が居ないし、安アパートでバタバタとゲームに興じては、他の住人から苦情が来るコトも予測出来るのでコレも無し!


 ショーケースの中に仰々しく飾られたエルメスは、俺とは一切関係無し!


 やはり購入と金貸しの二択か……っていうかこの三つを選択肢に入れる必要あったか?


購入となれば二万円以上だが、確実にギターは自分のモノになる。


 しかし弾けもしないギターを買って、結果練習しなくなったりしたら、きっと彼女に恨まれるだろう。


 残る選択肢はひとつ。か……


「じゃあ」


 やや含みを持たせて店主に、いや永桜ひろみに、と決定を告げる素振りを見せる。


「二万円……お貸しします!」


 泣きそうだった彼女は驚きの表情経由で笑顔に変わり、両手で拳を作りその場で雄叫びを上げた。


 他の四人はあからさまにガッカリしていたが、店主以外の三人の落胆は理解出来ないので見ないようにした。


 俺の前で、永桜ひろみがエサを前にした子犬のように目を輝かせ、無言のアピールをしているので、お尻のポケットから財布を取り出し二万円を渡す。


 昨晩の結婚パーティーで、何かを期待して多めに持っていた現金が思いもかけないところで飛んでいった。


「ありがとうございます! じゃあこれで」


 質屋としては商売のチャンスを失い、プラマイゼロになったので浮かない様子で現金を受け取った。


「……はい、確かに。ったく、店先でそういうの困るんだよね!」


 店主は若干不貞腐れた態度で、手にした万札二枚をパチンと指で弾いた。


 気まずい空気が店内に漂っていたが、リサイクルショップとは反対側のカウンターで返済の手続きが終わったようだ。


 壁に展示したばかりのギターは外され、黒い瓢箪のような箱形のケースに仕舞われた。


 永桜ひろみは嬉しそうにケースを抱きしめ、俺に何度も礼を言った。


「あ、そうだ! こういうのは、ちゃんとしとかなきゃいけないんで借用書作りますね?」


 そう言うと完済の書類を裏返し、カウンターの脇に置かれた書類をチラチラ見ながら手書きで借用書を作成した。



『借用書 マツノアミオ様

金、弐萬円也

上記の金額を、確かに借用書致しました

毎月弐千円を拾ヶ月で返済し、完済まではギターをお教えする事を誓います

二〇○○年二月一三日 永桜ひろみ』



 いや、そもそも名前間違ってるし……これは法的な効力があるんだろうか?


 などと考えながら、日付を見て気が付いた。


 今日、三十歳の誕生日じゃん。


 自分の年齢が大台に乗ってしまったコトに愕然とした。


「勝手に決めちゃったけど十回払いでイイですよね?」


 そう言った永桜ひろみの声など、まったく俺の耳には届いていなかった。


 こうして俺は、三十路にしてギターを始めるコトになってしまったようだ。

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