10
マスターは片膝をついてラウルと目線を合わせた。
「ラウル、この子はナル・ホーリング。アレックスの養子だ。私達はしばらくここを離れるから、分からない事があれば何でもこの子に聞けばいいし、頼ればいい。良い子だから何も気に負う必要はない。私達が戻るまではナルと一緒に行動すれば良い」
「は、い…」
ラウルはナルの時とは違い、声は掠れていたが素直に頷き返事をしていた。
親になってくれるマスターにはきちんと返事をするのか。アレスに対してはどうなんだろう?とナルは、ラウルの何も映してないように見える目をジッと見つめる。
「ナル」
「はい」
「今言った通り、私達はまたしばらくここを離れる。ラウルの世話を頼めるか?」
「分かりました」
「出来れば寝る時も側にいてやってほしい。事が終わって帰って来たら私の部屋に連れて行くが、それまではナルの部屋で寝かせてもらえないか?」
え、それって女である事がばれたりとかするんじゃないだろうかと一瞬顔を引きつらせたナルだったが、ラウルの死んだ魚のような目を見て、まぁ、大丈夫かと楽観視して頷く。
「はい」
「いいか、ナル。お前を見込んでの頼みだ。ラウルに怪我をさせるな。建物を壊すな」
「…は?」
アレスの意味不明な言葉に疑問符を浮かべていると、マスターがポンポンとナルの肩を叩いた。
「なるべく早く戻れるようにする。後は頼んだよ」
そう言って2人は転移魔法で行ってしまった。
執務室に残されたのは、ナルとガリガリに痩せ細ったラウルだけである。
「えー。意味分かんねぇし。──ねぇ、君…ラウルって呼び捨てでも良い?」
「……」
「えーと…?呼び捨てにするぞ?嫌ならそう言えよ?」
「……」
「……。それじゃあ、ラウル。朝飯は食ったか?」
「……」
うんともすんとも言わず、マスターの時とは違ってピクリとも動かないラウルにナルは頭を抱える。
「──んじゃあ、先に食べに行くか。ちょっとでも力つけないとな」
ラウルがあまりにも痩せ細っているので、心配になったナルは取り敢えずご飯に連れて行こうと思った。
「中の食堂に行こう。こっちだ」
扉を出たナルはラウルが付いて来ていない事に気付き、中を覗くとさっきと同じ体勢でじっと立っているラウルがいた。
「あー、もう!」
ラウルの側に行き、手を掴む。
「ほら、こっち」
特になんの抵抗もせず、ナルに引っ張られて歩くラウル。ラウルの手は思った以上に細く、弱々しかった。
* * *
「アレックス、本当に何も話さずに任せて良かったのか?」
「良いんだよ。何も知らない方が上手くいく可能性もある。帰って2人が上手くいってなかったら、ナルにもちゃんと事情を教えればいい。そっからは仲良くなっても、ならなくても本人達の問題だろ。ま、心配しなくても俺達が帰るまではしっかりラウルの面倒を見てくれるだろ。あいつは嫌だからと投げ出したりするような奴じゃないしな」
「それは分かってるさ。それに2人が仲良くなってくれたら良いとも思ってる。だけどな、私が言いたいのは──」
「ラウルの事だろ」
「そうだ。あの子は私達に対して、全く心を開いてはいない。あの最低な研究員達と一緒だと思われてるんだろう。だが、ナルに対しては少し違った。2人きりにしてどんな行動に出るやら…」
「…何もしないんじゃないか?」
「…その方が良いのかもしれない。だが、本当に何もしないと思ってるならナルにあんな事は言わないだろう?」
「まぁな。…だが、今はそれを心配するよりもこっちの事だ」
「ああ。残った鼠共をさっさと掃除しないとな。子供達に悪影響だ」
丘の上に立った2人はある建物を冷ややかに見下ろす。
「マスター!アレックスさーん!」
何やら慌てた様子でこちらへと走って来たのは、オレンジ色の髪を持つ6番隊隊長ディナンシェだった。
「お前、転移魔法塔の見張りじゃなかったか?」
「リアさんに変わってもらいました!大変なんです!奴らが雇った奴の中に転移魔法を使える奴が混じっていたようなんスよ!」
「何!?」
「もう既に何人かはどこかへ転移したもようです。ヴィクターさんとクウラさんはもう既に奴らを捕まえる為に行動してます」
「チッ。やられたな。探す範囲が広くなる」
「帰るのが遅くなりそう……おい、アレックス」
「ん?」
「ナル達に外へ出るなとは言ってないよな?」
「言ってないな。…これは──」
「ああ。まずい。先にラウルを連れ帰ったのは、あの子の中に埋め込まれた魔法爆弾が遠隔操作で作動させないようにする為だ」
「確か、遠隔操作とは言っても、視認出来る範囲の3メートル以内だったか?」
「そうだ。ユニバース内にいればヒナ達がなんとかしてくれるだろうが、外に行ってもし起爆装置を持った奴らと遭遇でもしたら…」
「ナルは訓練以外ではほぼ外に出ないだろうがな。…何もない限り」
「……」
「一回帰って忠告してくるか?」
「……いや、時間が惜しい。転移魔法が使える者を捕まえるのが先だ。これ以上散らばられると困る。こんな時、やっぱ連絡手段がある方が便利だよなぁ……」
イーサンは溜め息を吐いた。
「あのお高い魔導具でも買うか?」
「そうだなぁ。帰ったら考えるか…。さて、アレックス、ディナンシェ。さっさと片付けて帰るぞ」
「よし、やるか!」
「了解っス!」
* * *
人の多い食堂に入ると、握った手が強張り、小さく震えるのをナルは感じた。ラウルを横目で見ると、相変わらず無表情だが、その目は何かに怯えているようでもある。連れて来ちゃまずかったかなと思いつつ、ナルはラウルの手をしっかり握り直して調理場の方へ声を掛けた。
「ジェフさーん!」
「お、ナルじゃないか。珍しい。2回目の朝食かい?」
「違う!ラウルに…えっと、マスターの養子になる子なんだけど、何か作ってあげてくれる?」
「ほぅ?新しく戦闘部隊にでも入るのか?それにしても、えらいガリガリだな。しっかり食ってんのか?」
口髭を触りながら、ここの料理長であるジェフさんは観察するようにラウルを見る。彼は誰に対しても気さくで優しいおっちゃんだ。おしゃれな口髭は彼のチャームポイントである。
対してラウルはジェフさんを睨むようにしながらも小さく頷いた。
いやいやいや、絶対食べてないだろ、とナルは心の中で突っ込む。
「なんだ、訳ありか?」
「よく分かんないけど多分そう」
「よし、おっちゃんに任せとけ。嫌いなものはないな?」
その質問に対しても、また小さく頷くラウル。自分の時より反応が良いのは何故だろうとナルは首を傾げた。
「ナル、お前もなんか食ってくか?」
「さっき食べたから俺はいい」
「そうか。ならおっちゃん特製ミックスジュースでも作ってやるよ」
「やった!ありがとう!」
料理が出来るのを待ち、お盆を片手で持ったナルは、再びラウルの手を引いて、食堂の1番奥にある階段を上った。そこは食堂全体が見渡せ、ここだけ人が全くいない。
「席は自由なんだけど、大体俺達はここで食べてる。ここにはよくマスターとかアレスとか隊長達がよく集まって会議とかしながら食べてるから、他の人は来にくいみたいなんだ。──ほら、座って」
ラウルを無理やり椅子に座らせ、お盆からミックスジュースを退けると、残りはラウルの前に置く。メニューは細かく切った野菜スープと丸パン2つ、そしてオレンジジュースだった。おそらく、さっきの頷きを信じなかったジェフさんが、胃に優しい物を用意してくれたんだろう。
「パンはスープに浸して食べると食べやすくなるだろうってさ」
食べ物をジッと見つめた後、伺うように見てくるラウルにナルは微笑んだ。
「食べて良いんだよ」
恐る恐るといった様子でラウルはパンに手を伸ばす。
ナルはそれを見ながら特製ミックスジュースを一口飲む。う〜ん、美味い。程良い甘さでいくらでも飲めそうだ。
パクリ。少し大きめに齧ったパンを咀嚼し始めるラウル。
モグ。モグ。とゆっくりだった口の動きが少しずつ速くなっていく。
モグ、モグ、モグ、モグ、モグ、モグモグモグモグモグモグモグモグモグモグモグモグモグモグモグモグモグモグモグモグモグモグモグモグモグモグモグモグモグモグモグモグモグモグモグモグモグモグ──
えっ、そんなに噛む?と驚いて固まったナルを余所に、ラウルはまだ一口目のそれを必死で噛んでいた。
モグモグモグモグモグモグモグモグモグモグモグモグモグモグモグモグモグモグモグモグモグモグモグモグモグモグモグモグモグモグモグモグモグモグモグモグモグモグモグモグモグモグモグモグモグモグモグモグモグモグモグモグモグモグモグモグモグモグモグモグモグモグモグモグ──
あのパンそんな硬くなかった筈だけどなぁ、口の筋力でも衰えたんだろうか、なんて考えながら見てると、ようやく一口目を飲み込んだらしいラウルが、次の瞬間予想外の行動に出た。
「えっ!ちょっと、ラウル!?何してんのさ!」
ラウルは齧ったパンと、もう1つのパンをポケットに詰め込もうとしていた。
ナルが思わず叫んでしまったのも仕方がないだろう。
ナルの叫び声に身を固めたラウルは、ナルを睨みながらも恐る恐るといったように口を開く。
「…1週間分……」
ラウルがナルに対して喋ってくれたのに驚き、内心喜んだナルだったが、聞き捨てならない言葉を聞いてそれどころじゃなくなった。
「いっ、1週間分?どういう事だ?」
「……」
無言でパンを見下ろすラウル。
「えっ?!これが?このパンが1週間分のご飯だって言いたいのか?」
コクリと頷くラウルにナルは愕然とした。
「──違う。違うよ、ラウル。これは今日の朝ご飯。君が全部食べてしまって良い。昼にまた来よう。昼じゃなくても、朝でも夜でも夜中でも、間食を食べたくなったらでも良い。ほんとにいつでも良いんだ。ここへ来れば、新しいのを出してもらえるから」
ナルも離宮にいた時、昼ご飯を抜かれていた事はあったが、1週間も抜かれる事はなかった。余程酷い環境で生活して来たのだろう。これだけガリガリなのも頷ける。
「ほら、そのスープもパンも全部食べて大丈夫だから」
それでも信じられないようで、一切手を出そうとしないラウル。
しばらく考え込んだナルは良い事を思いついたとばかりに手を打った。
「よし、じゃあこうしよう!ラウル、ここでちょっと待ってて」
そう言って調理場へ走り、しばらくしてから戻って来たナルは大きめの籠を持っていた。
それをラウルの目の前に差し出し、パカリと開ける。
「ジャーン!これでどうだ!」
中にはサンドウィッチがぎっしり詰められていた。
「これはお昼ご飯。これで、それ、食べれるだろ?」
大量にあるサンドウィッチを見て、ラウルはようやくナルの言葉を信じたのか、スープに手を伸ばした。
「…あったかい」
ラウルが食べるのを躊躇し、ナルがサンドウィッチを頼んでいる間に、少し冷めてしまったようだった。
「知ってるか?それ、出来立てはもっと熱いんだ」
一生懸命に頬張るラウルの姿を見て、ナルは優しく微笑んだ。